三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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お田鶴の方(おたづのかた)
出身地不明(??~1568)
今川家の重臣・飯尾連龍(いいお・つらたつ)の妻。
半ば伝説的な人物で、史料によりその生涯は異なるためそれぞれ簡単に紹介する。
「武家事紀」に曰く1565年、謀叛の嫌疑を掛けられた連龍は抗戦の末に自害し、遺されたお田鶴は曳馬城に立て籠もった。
攻め寄せる今川軍と戦うも、衆寡敵せず18人の侍女とともに戦死した。
「井伊家伝記」に曰く1563年、曳馬城を治める井伊家に仕えていた連龍は謀叛を企み、井伊家当主を毒殺し城を乗っ取った。
1568年、今川家は和睦と偽って連龍をおびき寄せ暗殺した。お田鶴は曳馬城に立て籠もり、攻め寄せる徳川軍と侍女を引き連れ戦い、多くの兵を討ち取った末に戦死した。
「武徳編年集成」に曰く1565年、連龍は謀叛の嫌疑を掛けられ駿府城内で襲われたが、連龍は必死に抗戦し多くの敵を討ち取った。この時、お田鶴も同行していて無双の怪力で暴れ回った。
「改正三河後風土記」に曰く連龍の死後、お田鶴は曳馬城に立て籠もった。家康は城を明け渡せば降伏を認めると言ったがお田鶴はそれを拒絶し、攻め寄せる酒井忠次(さかい・ただつぐ)、石川数正(いしかわ・かずまさ)を撃退した。
翌日、再度攻められると衆寡敵せず玉砕したが、お田鶴は甲冑をまとい薙刀を振るって多くの敵を斬り伏せた。
「蛇塚由来記:落城秘怨史」に曰くお田鶴は1550年に小笠原家に生まれた。才色兼備で知られ、1567年に父が徳川家と戦い討ち死にすると、山中に籠もり武芸を磨いた。翌年に猪を追って連龍と出会い恋に落ちた。
連龍は家康に内応を誘われるも断ったが、今川家からも嫌疑を掛けられついに暗殺された。
曳馬城は徳川軍に攻められ、お田鶴はどうにか脱出したものの乗騎を失い、逃げ切れないと悟ると自害した。
家康の妻で旧知の築山殿(つきやま)はお田鶴の冥福を弔うため塚を築き、周囲に椿を植えた。不思議にも5日と経たずに花が咲き誇った。
「椿姫観音由来記」に曰く1565年、連龍は謀叛の嫌疑を掛けられ暗殺された。お田鶴は幼い我が子に代わり城主となり、1568年に徳川軍と戦い、自ら甲冑に身を包み侍女18人とともに薙刀を振るい多くの敵を斬り伏せるも討ち死にした。
家康はその死を惜しみ塚を建てさせ、旧知の築山殿が周囲に椿を植えると毎年のように大輪の花を咲かせたため、いつしかお田鶴は「椿姫」と呼ばれるようになった。
様々な逸話が組み合わさった末に「椿姫観音由来記」でほぼ全ての要素がまとまったようで興味深い。
また余談ながら山岡荘八の「徳川家康」にお田鶴は家康の初恋の人として登場している。
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岡部元信(おかべ・もとのぶ)
駿河の人(??~1581)
今川義元に仕えた重臣。
後に徳川家康に仕えた岡部正綱(まさつな)の弟とする記述が多いが、元信の名が世に出始めたのは正綱の生年(1542年)であり明らかに誤りである。
父は義元の家督相続に貢献した重臣で、元信も武勇に優れ多くの武功を立てた。
1560年、義元は桶狭間の戦いで討たれたが元信は鳴海城を守り抵抗を続け、手を焼いた織田信長に義元の首と引き換えに開城を申し入れた。
信長は感嘆し、首を丁重に棺に収めて譲り渡し、元信は輿に乗せた棺を先頭に粛々と城から出て行った。
だが戦功のないまま帰るのを良しとせず、通りがかった刈谷城を百名ほどの手勢で襲い、家康の叔父・水野信近(みずの・のぶちか)を討ち取った。
その後も今川家に仕えたが1568年に武田信玄によって滅ぼされると、武田家に降伏した。
高天神城を守り、長篠の戦いで大敗した武田家が凋落しても、元信の守備は盤石で幾度となく家康の侵攻をはね返した。
正攻法では勝ち目はないと、家康は城の周囲に砦や小城を築いて補給線を断ち、兵糧攻めを行った。
元信は援軍を求めたが武田勝頼(たけだ・かつより)は北条家を警戒して兵を動かさず、家康も武田家が元信らを見殺しにしたと喧伝するため降伏を許さなかった。
兵糧も底をついた元信は家臣を集めると「この城に入った時から生きて帰ろうとは思っていない。主君の恩義に報いるため打って出よう」と言い、最期の酒宴を開くと翌朝に城門を開いて突撃を仕掛けた。
元信は先頭に立って大久保軍に斬りかかってきたため、迎え撃った大久保彦左衛門(おおくぼ・ひこざえもん)はまさか総大将と思わず、家臣の本多主水(ほんだ・もんど)に相手を任せて他の敵に向かった。
元信は奮戦の末に首を取られた。享年は70過ぎと考えられる。
本多主水も相手が誰だかわからないまま討ち取り、首実検で元信とわかり主従は驚愕した。
彦左衛門は「名乗っていれば自分で討ち取っていたものを」と著書「三河物語」で悔しがっている。
元信ら城兵700名超は玉砕を遂げ、彼らが見捨てられたことで、家康の思惑通りに武田家は著しく人心を損ね、翌年に滅亡するのだった。
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鵜殿長照(うどの・ながてる)
三河の人(??~1562)
今川義元の重臣。母は義元の妹で、1557年に父が戦死し家督を継いだ。
1560年、対織田家の最前線に当たる大高城を守る長照は孤立し、兵糧も底をついていた。
桶狭間の戦いにおける義元の進軍目的の一つは大高城の救援で、初陣の松平元康(後の徳川家康)が兵糧を届けて窮地を脱した。
元康と城主を交代し休息していたが、後続の義元が織田信長に討たれたため、城を捨て撤退した。
義元の死後、今川家には離反者が続出し、三河では元康改め松平家康が独立を企み、鵜殿家の分家すらそれに従い、長照は三河で孤立した。
そして1562年、松平軍の猛攻により城を落とされ戦死した。一説にはこの時に父が戦死したともされる。
二人の息子は捕らえられ、今川家の人質になっていた家康の妻子と人質交換の材料に使われたという。
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飯尾連龍(いいお・つらたつ)
駿河の人(??~1565)
今川義元の重臣。
1560年、桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれ、連龍の父ら多くの家臣も命を落とした。
当主を失った今川家からは次々と離反者が現れ、連龍も三河で独立を企む徳川家康に接近した。
1562年、今川家を継いだ今川氏真(いまがわ・うじざね)は連龍の裏切りに激怒し、居城の曳馬城を攻めた。
連龍は巧みな指揮でそれを撃退し、多くの大将を討ち取るも「讒言で謀叛を疑われ、攻められたから反撃しただけで二心はない」と釈明し、今川軍は撤退した。
このあたりの経緯は出典によって異なり、他にも連龍は井伊家に仕えていたが謀叛の嫌疑を掛けられたため、当主を毒殺して蜂起した、との記述もある。
1565年、連龍は氏真に駿府城に招かれ暗殺された。
これも諸説あり連龍は切腹を命じられた、濡れ衣を掛けられたため屋敷に立てこもり抗戦の末に自害した、氏真の娘と連龍の息子を結婚させると偽り、酒宴のさなかに殺したなど様々である。
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朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)
駿河の人?(1538?~??)
今川義元の宿老・朝比奈泰能(やすよし)の子。
母は寿桂尼(じゅけいに 義元の母)の姪にあたる公家の娘で、泰朝も山科言継(やましな・ときつぐ)らと交流があった。
父は太原雪斎(たいげん・せっさい)と並ぶ重臣だったが1557年に没し、泰朝が家督を継いだ。
1560年、桶狭間の戦いでは織田方の鷲津砦を落とすも、後続の義元が織田信長に討たれたため撤退した。
義元を失った今川家では離反者が続出したが、泰朝は跡を継いだ今川氏真(いまがわ・うじざね)を支え、越後の上杉家と同盟交渉するなど軍事・外交両面で活躍した。
しかし1568年、武田信玄の裏切りにより駿河を奪われた。
泰朝は落ち延びてきた氏真を掛川城に迎え入れ、攻め寄せる徳川家康軍を相手に籠城した。
包囲は5ヶ月に及び、孤立無援を悟ると氏真は開城し、妻(早川殿)の実家である北条家へと退去した。
泰朝は全てを失った氏真に付き従い、上杉家に援助を求めるなど今川家再興のために手を尽くした。
1571年、北条家でも立場を失った氏真が家康の庇護を求め浜松城へ赴いた際に、泰朝の姿はなかった。それ以降の消息も不明で、氏真が徳川家へ亡命する前に没していたと思われる。
※アイコンは呉国太
寿桂尼(じゅけいに)
京の人(??~1568)
今川義元の母。本名は不明。
父は権大納言・中御門宣胤(なかみかど・のぶたね)。
1508年(1505年説も)、駿河の大名・今川氏親(いまがわ・うじちか)に嫁いだ。
氏親は病弱で1526年に没するまで十数年は病床に伏しており、夫に代わり寿桂尼が政務に関わったと見られる。
その証拠として氏親が没した年に制定された分国法が、当時は女性が中心に用いた仮名交じり文で書かれていることが挙げられるが、明らかに女性が関与していない他国の法度にも仮名交じり文の物はいくつかあり、確証には至らない。
ただし後の寿桂尼の活躍を見るに、関わっていたとしてもなんら不思議はない。
家督を継いだ嫡子の今川氏輝(うじてる)は14歳と幼く、16歳になるまでの2年間は寿桂尼が自身の印判を用いて国政を取り仕切ったため、彼女は「女戦国大名」「尼御台」などと呼ばれる。
1536年、氏輝と次男も相次いで没すると、出家していた三男の今川義元を還俗させ、家督を継がせた。
氏親の側室の子である玄広恵探(げんこう・えたん 本名不明)はそれに異を唱え挙兵したが、義元に敗れ自害に追い込まれた。
その際に寿桂尼は玄広恵探の側に付いたとする異説もある。
1560年、義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、家中の動揺を収めるため寿桂尼は国政に復帰し、義元の子で家督を継いだ今川氏真(うじざね)を後見した。
しかし屋台骨を失った今川家の凋落は覆し難く、1568年に寿桂尼も没すると、同年12月に武田信玄は同盟を破棄し今川領内への侵攻を始めた。
信玄は公卿の娘を妻に迎えているが、それを仲介したのは寿桂尼であるとも言われており、彼女の死は同時に武田家との手切れも意味していたのである。
寿桂尼は「死しても今川の守護たらん」と望み、館の東北、鬼門の方角にある寺に葬られた。年齢は70~80歳代と推測される。
しかし没後わずか1年で氏真は駿河を捨て遠江に逃れ、かつて家臣だった徳川家康に降伏し、戦国大名としての今川家は滅びるのであった。
公家の娘に生まれ蝶よ花よと何不自由なく育てられただろう彼女が、夫と子供の窮地に一念発起し国政を取り仕切る、その勇姿は「母は強し」という言葉を思い出させずにいられない。
※アイコンは孫魯育
早川殿(はやかわどの)
相模の人(??~1613)
北条氏康の娘。今川義元の嫡子・今川氏真(いまがわ・うじざね)に嫁いだ。本名は不明。
氏康の長女で、北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の異母姉とされる。一方で氏政と氏真が同い年なことから、早川殿は30代後半の当時としてはかなりの高齢出産で数人の子をもうけたことになり、やや不自然なため血縁には疑問が残る。
1554年、北条・今川・武田の三国同盟が結ばれると、17歳の氏真に嫁いだ。
後に同盟が決裂するとこの時に結ばれた婚姻も次々と破綻したが、氏真夫妻だけは離縁しなかった。
1560年、桶狭間で義元が討たれると今川家は衰退し、1568年には武田家の侵攻により駿河も陥落した。この時、武田家と北条家は同盟していたが、武田家は早川殿の保護を怠り、彼女が徒歩で遠江へ逃亡する羽目になってしまったことに氏康は激怒し、同盟を破棄すると武田家の宿敵・上杉謙信と結び逆に今川家の支援に回ったという。
翌年、氏真は徳川家康に攻められ遠江も放棄すると、氏康を頼って相模早川へ落ち延びた。そのため彼女は早川殿と呼ばれると思われる。
当地で氏真33歳にして初の男子をもうけるなど一時の安寧を得たが、1571年に氏康が死去すると武田家との同盟が復活し、武田の手に落ちていた駿河への帰国は頓挫した。
だが氏真夫妻は諦めきれずに北条家から出奔すると徳川家を頼った。この時、武田信玄が氏真の暗殺を企んだもののそれを察知した早川殿が手勢を集め、夫ともに出奔したという異説も伝わる。
駿河攻略を目指していた家康は、その大義名分の旗印となる旧国主の氏真を歓迎した。浜松に移り住んだ夫妻はさらに数人の男子をもうけ、1575年の長篠の戦いでは氏真の家臣が武田家の名将・内藤昌豊(ないとう・まさとよ)を討ち取る大功を立てた。
また氏真は父の仇である織田信長に招かれ、日本一と言われた蹴鞠の腕を披露したという。
長篠の戦いの大勝を足掛かりに徳川家は駿河に侵攻し、1576年、氏真は駿河牧野城の城主に返り咲いた。
だが原因不明だが1年足らずで解任されると氏真は浜松に戻り、夫妻の行跡はそこから長年にわたり途絶えてしまう。
1591年、氏真は京で再び活動を再開し、公家や徳川家との交流を深めた。家康とは懇意で、和歌について議論を交わしたり、晩年には氏真がたびたび訪ねては長話をするため、辟易した家康は遠くに屋敷を移させたという逸話が伝わる。
早川殿の事績は不明だが存命で、1612年に江戸で没した。
氏真も同地で2年後に没し、後に夫妻の墓は同じ寺に移された。また没後間もなくに描かれた、夫妻で対になった肖像画が現存しているという。
長男は氏真夫妻に先立って没していたため孫の今川直房(なおふさ)が跡を継いだ。
今川家は高家(貴族)として再興され、直房も朝廷との交渉で大役を務め、鎌倉時代から続く今川家で最も高位に上ったという。
太原雪斎(たいげん・せっさい)
駿河の人(1496~1555)
今川家の軍師にして臨済宗の僧侶。
今川義元は5男のため幼くして寺に預けられ、雪斎のもとで修行を積んだ。
だが父、長兄、次兄が相次いで没し、3男と義元の間で家督が争われると、雪斎は義元の片腕として活躍し、ついに3男を自害に追い込み、義元は還俗して今川家を継いだ。
雪斎は軍事・政治・外交など全面的に義元を支え、武田家との関係を修復し、東では北条家の侵攻を防ぎ、西では織田家を破るなど大車輪の活躍を見せた。
また織田信長の庶兄・織田信広(おだ・のぶひろ)を捕縛し、織田家の人質に取られていた松平竹千代(まつだいら・たけちよ 後の徳川家康)を人質交換で取り戻したのも雪斎である。
1550年には武田信玄の子・武田義信(たけだ・よしのぶ)に義元の娘を嫁がせ、1554年には北条家を交えて今川・武田・北条の三国同盟を締結させた。
その際には義元、信玄、北条氏康の三者が雪斎が住持を務める善得寺に集まったとされるが、これは伝承の域を出ない。
今川家の軍師として働く一方で雪斎は新たに寺院を開いたり、京都妙心寺の住持に収まるなど僧侶としても活躍し、法制定にも関わるなど今川家の最盛期を築き上げ、1555年に没した。
雪斎と縁戚関係にあったと思われる武田家の伝説的軍師・山本勘助(やまもと・かんすけ)は「今川家は雪斎が無くてはならぬ家」と、家康も「義元は雪斎とのみ議論して国政を執っていたため家老の力は弱く、雪斎の亡き後には国政は整わなかった」と評したように雪斎の役割はあまりに大きく、また義元も雪斎に依存しすぎたがために、雪斎亡き後の今川家は著しく衰退し、5年後の桶狭間の戦いで義元が戦死を遂げると、なすすべも無く家康や武田家への侵攻を受け滅亡へと突き進むのだった。
なお創作では家康の師とされることも多いが、これもまた伝承の域を出ない。
駿河の守護代・今川氏親(いまがわ・うじちか)の五男として生まれる。すでに兄の今川氏輝(いまがわ・うじてる)が跡継ぎと決められていたため、義元は4歳にして出家させられ、京で太原雪斎(たいげん・せっさい)の薫陶を受けた。
だが1536年、今川氏輝ともう一人の兄が相次いで亡くなり、義元に継承権がめぐってきた。
家督争いが起こったが、義元は太原雪斎ら多くの家臣に擁され、北条家の支援も受けて優勢となり、対抗馬の兄を自害に追い込み今川家を継いだ。
1537年、義元は甲斐の武田信虎(たけだ・のぶとら 武田信玄の父)の娘を正室に迎え、武田家と同盟を結んだ。
しかし義元の家督相続に協力し、もともとの盟友でもある北条家の不興を買ってしまい、両家は激しく争うこととなった。
さらに尾張から織田信秀(おだ・のぶひで 織田信長の父)が来襲し、窮地に陥った義元は、北条家と敵対する上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)と同盟し、武田家とともに北条家を挟み撃ちする策に打って出た。
あわてふためいた北条家は今川家と和睦した。
東方の脅威を退けた義元は、三河の攻略に乗り出した。
松平広忠(まつだいら・ひろただ 徳川家康の父)を降伏させ、松平竹千代(まつだいら・たけちよ 後の徳川家康)を人質として預かろうとしたが、護送する戸田家が裏切り、竹千代を織田家に送り届けてしまった。
激怒した義元は戸田家を滅ぼし、さらに織田軍を撃破して三河から駆逐した。
1549年、松平広忠が死去すると、松平家の居城・岡崎城を接収した。さらに織田信秀の子を捕らえ、人質交換で松平竹千代を奪回した。
1551年に織田信秀が死去し、織田家は家督争いを始めたため、その隙に義元は着々と三河の地盤を固め、尾張への侵攻の機会をうかがった。
1554年には北条家と縁組し、今川・武田・北条の三国同盟を結成し後顧の憂いを断つと、1558年、嫡子の今川氏真(いまがわ・うじざね)に家督を譲り駿河・遠江を任せ、義元自身は三河の経営と尾張攻略に専念するようになった。
1560年、義元は2万5千の大軍を率い尾張に攻め込んだ。
織田軍に包囲された大高城を松平元康(まつだいら・もとやす 後の徳川家康)に奪回させ、主力を大高城に移し、義元の本隊は悠々と後方を進んだ。
だがその途上、桶狭間の山上で休息中に織田信長自ら率いる一軍に強襲され、本隊は壊滅し義元も討ち取られた。
このとき、義元に一番槍をつけた服部一忠(はっとり・かずただ)、義元の首級を上げた毛利良勝(もうり・よしかつ)はともに信長の身辺警護をする馬廻りや小姓であり、信長自身が義元に肉薄していたと思われる。
死後、松平元康は三河で独立を果たした。
今川氏真に駿・遠・三の大国を切り回す才覚はなく、今川家は瞬く間に勢力を衰えさせ、わずか8年後に滅亡することとなる。
~義元の人物像~
義元はゲーム『戦国無双』などで代表されるように、公家趣味の惰弱な人物として描かれがちである。
たしかに京で若い頃を過ごした義元は公家文化に通じており、都の戦乱を逃れた公家を保護し、自身もお歯黒や公家の化粧を好み、連歌に親しんだという。
だがそれは義元の文化的素養の高さを示していることであり、当時は戦場に臨む武士が死んで首だけになっても恥をかかないようにと化粧を施すことも珍しくなかった。
出家していたため訓練を受けられず武勇に優れなかったというが、桶狭間での最期の折には(火事場の馬鹿力という側面もあるだろうが)、一番槍をつけた服部一忠の膝に斬りつけて撃退し、首を取られた毛利良勝の指を食いちぎるなど激しい抵抗を見せている。
義元の時代に今川家は最大勢力を誇っており、駿・遠・三にまたがるこれほどの大勢力は同時代にほとんど見当たらない。
人質時代の家康に辛く当たったともされるが、義元は織田家からわざわざ家康を奪回し、自身の師でもある太原雪斎を教育係につけ、さらには自分の姪を家康に嫁がせ、長じると松平家を率いさせており、むしろ従属勢力としてそれなりの待遇を与えていたように思われる。
家康も没落した今川氏真を保護して扶持を与え、晩年には人質時代を過ごした駿府城に隠居しているなど、今川家に対する敵意は薄いように思われる。
おそらくは織田信長、徳川家康が英雄として美化されていく過程で、信長飛躍のターニングポイントとなった桶狭間の戦いで敗れた義元の人物像がおとしめられていったのだろう。
~桶狭間の戦い~
旧来、義元は桶狭間の盆地に布陣していたところに、本隊の居所の情報を得た信長の奇襲を受けたと言われてきたが、近年の研究から、信長の攻撃は奇襲ではなく正面攻撃であったと考えられている。
義元は上洛を目指して大軍を催したともされるが、これも大高城の奪還と、その周囲の砦を落とし国境線を固めることが目的で、上洛の意図はなかったようだ。
また義元の本隊は山上に布陣しており、信長軍の動きに気づかなかったわけがない。信長も相手が義元の本隊だったと知っていた節もなく、信長としては目の前の一軍を叩けば、今川軍は無理をせず撤退するだろうと考え、強襲をかけたと思われる。
対する今川軍はまさか兵力で劣る相手が(このとき信長軍はせいぜい3千程度であり、義元の本隊よりも少なかっただろう)、それも山上に向かって攻撃を仕掛けてくるとは思わず、油断していた面はあっただろう。
今川軍は混乱を起こし、やがて相手が義元の本隊だと気づいた信長が一気呵成の攻めに転じ、首尾よく義元の首を上げた、というのが桶狭間の戦いの本当の姿ではなかろうか。