三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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村上武吉(むらかみ・たけよし)
伊予の人(1533~1604)
村上家は能島、来島、因島の三島に分かれて勢力を築き、武吉は能島村上家の当主であることから能島(のしま)武吉とも呼ばれる。
幼い頃に祖父を暗殺されたため、難を避けて能島を去り肥後に潜伏した。
長じると叔父の支援を受けて能島に戻り当主の座につき、長年争ってきた来島村上家の娘をめとって和睦し、村上三島の筆頭格となった。
1555年、毛利元就と陶晴賢(すえ・はるかた)による厳島の戦いでは去就を迷ったものの、村上家と縁戚でもある毛利家の家臣・乃美宗勝(のみ・むねかつ)から受け取った元就の「1日だけ船を貸して欲しい」とだけ記された書状を意気に感じ、水軍を参戦させ毛利家の勝利に貢献した。
以降も毛利家との関係は良好で、海戦や交易に協力し、瀬戸内海の制海権を握り、通行料を取り立て大いに栄えた。
だが1569年、毛利家が九州から撤退すると、大友家や三好家に接近し、大友水軍の通過を見逃したりもした。
交戦こそしなかったものの1571年、浦上家に協力し毛利軍の背後を脅かすとついに元就の堪忍袋の緒も切れ、小早川隆景が能島に攻撃を仕掛けた。
来島・因島村上家もそれに加わったため能島家は孤立し、翌年まで包囲され海路を封鎖される憂き目にあった。
明確な時期は不明だが、他家からの支援も受けられないと悟った武吉はやがて毛利家と和解し、毛利家と織田信長との戦いに水軍を派遣するまでに関係は修復された。
その後、織田家の中国方面軍を率いる羽柴秀吉に調略され、能島家と来島家が寝返るという風聞が立った。
乃美宗勝がまたも武吉の説得にあたり、実際に来島家は寝返ったものの武吉は毛利方に留まり、来島を攻略してみせた。
しかし1582年、信長が本能寺で討たれ、秀吉と毛利家が和睦したため、来島を返還するよう求められたが、武吉はこれを拒否した。
さらに秀吉の四国攻めへの派兵も断ると再び小早川隆景の攻撃を受け、能島を強制的に立ち退きさせられ、隆景の所領に身柄を移された。
隆景が筑前へ移封になると武吉も従い、隆景が没し小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が跡を継ぐと、毛利家に身柄は移された。
能島村上家の家督を継いだ嫡子の村上元吉(もとよし)は、小早川家のもとで文禄・慶長の役に出陣し活躍したが1600年、関ヶ原の戦いに際し西軍に味方し、加藤嘉明(かとう・よしあき)の居城を攻めるも戦死した。
毛利家も関ヶ原を境に周防・長門2ヶ国に減封され、武吉もそれに従ったが、徳川幕府により制海権を掌握されたため村上水軍は事実上の崩壊を遂げた。
1604年、武吉は72歳で没した。
家督は孫の村上元武(もとたけ)が継ぎ、毛利家の船手組として村上家は続いた。
ルイス・フロイスに「日本最大の海賊」と評されたように創作等では海賊然としたイメージを抱かれがちだが、村上家は結束のためにたびたび連歌会を催すなど教養深い一面も持っている。
また武吉が著したとされる海戦の兵法書「村上舟戦要法」は、実に300年後の日露戦争で海軍中将の秋山真之が参考にし、バルチック艦隊の撃破に一役買ったと言われている。
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長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)
土佐の人(1575~1615)
長宗我部元親の四男。
1586年、戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親(のぶちか)が戦死すると家督争いが持ち上がった。
盛親は幼少の頃から粗暴かつ傲慢で人望はなかったものの、次男と三男はすでに他家を継いでおり、また元親は溺愛する信親の娘を当主にめあわせようと考え、年の離れた盛親を選んだ。盛親は父や信親に似て大柄で、また残された肖像画も信親によく似ており、そうしたことも元親は好んだと思われる。
しかし豊臣秀吉は兄を差し置いての相続に難色を示し、盛親に官位を与えず、元親の死後も公式には継承を認めなかった。
1600年、関ヶ原の戦いで当初は徳川家康に味方しようとしたものの、西軍の主力を担う長束正家(なつか・まさいえ)に足止めされ、やむなく西軍に加わった。
盛親は主力として伏見城、安濃津城を攻略し本戦に臨んだものの、家康と内通する吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が毛利家の参戦を阻むため、前に布陣したまま動かず、毛利軍と並んで布陣した盛親も巻き添えを食い戦闘に参加することなく終わった。
盛親は土佐に逃げ帰り、懇意の井伊直政に取り成しを頼んだものの、重臣・久武親直(ひさたけ・ちかなお)の讒言から兄を殺害したこともあり、あえなく改易となった。
家臣団は散り散りとなり、浪人となった盛親は京へ送られ謹慎生活を送り、京都所司代・板倉勝重(いたくら・かつしげ)の監視下に置かれた。旧臣の仕送りで暮らしたとも、自ら寺子屋を開き日銭を稼いだとも言われる。
1614年、豊臣家と徳川家の間で開戦の機運が高まると、豊臣秀頼(ひでより)に招かれ盛親は6人の従者とともに京を抜け出した。
かつての旧臣や浪人が決起を聞きつけて合流し、浪人衆の中では最大勢力に膨れ上がった。
豊臣家は集まった者達に戦勝後の褒美を約束したが、盛親は土佐一国を望んだと伝わる。
大坂冬の陣では井伊直孝(いい・なおたか)、松平忠直(まつだいら・ただなお)を撃退した。
翌1615年、夏の陣では藤堂高虎と対峙し、未明の進軍中に先鋒部隊が藤堂軍に出くわし遭遇戦となった。
先鋒部隊は壊滅したが、かさにかかって攻め込んできた藤堂軍を盛親は伏兵で叩き、主将の高虎までもが逃げ惑い、多くの藤堂一族を討ち取る戦果を挙げた。
しかし友軍の木村重成(きむら・しげなり)軍が井伊直孝に敗れ壊滅すると、井伊軍が救援に駆けつけたため盛親も撃破された。
長宗我部軍の損害は大きく、翌日の真田幸村、毛利勝永(もうり・かつなが)が一躍名を上げた最終決戦には加われず、大坂城も落城すると盛親は逃亡した。
最後は蜂須賀軍によって潜伏先で捕らえられ、見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。
それでも盛親の気勢は全く衰えず、粗末な食事を供されると「名将とて昔から捕縛されたことは多々ある。しかしこんな卑しいものを食わせるくらいならさっさと首を刎ねよ」と激怒した。それを聞いた井伊直孝も処遇に激怒し、座敷に招くと大名料理で歓待したため、盛親は感謝したと伝わる。
また夏の陣の勝因を井伊直孝の勝利、敗因を盛親の敗北とし、我こそが勝敗を決したと自負した。
なぜ自害せず恥を晒しているのかと問われると「命と右手さえあれば家康や秀忠を今の自分と同じ姿にしてやれる機会は残っている」と言い放ち、出家するから助命するよう嘆願したという。
だが家康がこのような危険人物を許すはずもなく、6人の子女とともに処刑された。享年41。
その最期は「死に及んでいささかも怯じたる気配なし」と記される堂々たるものだった。
かくして長宗我部家は滅亡したはずだが2015年、400年法要に盛親の次男の子孫と称する人物が、盛親の物と伝わるあぶみを持参して現れた。
100年前に発見されていたもう片方のあぶみと形状・配色ともに一致し、本物と認められ、なんらかの方法で長宗我部家の血統が残されていたとうかがえる。
※アイコンは張牛角
長宗我部国親(ちょうそかべ・くにちか)
土佐の人(1504~1560)
土佐の大名。
通説では5歳の時に父が本山家に敗れ自害したため、一条房家(いちじょう・ふさいえ)に養育され、15歳の時に一条家の援助で居城の岡豊城を奪回したとされるが、近年の研究では父の長宗我部兼序(かねつぐ)は没しておらず、本山家に城を追われたものの1511年に和睦して城主に復帰し、国親が15歳になると家督を譲ったとする説が有力視されている。
国親は吉田周孝(よしだ・ちかたか)を抜擢して内政に励み、また「一領具足」と呼ばれる半農半兵の制度を考案し、軍備増強に努めた。
1544年には仇敵である本山家と婚姻を結び和睦。近隣の国人衆を次々と破り勢力拡大し「野の虎」と恐れられた。
1556年には三男の親泰(ちかやす)を養子に出し、香宗我部家を傘下に収め、本山家が当主を失い衰退すると、和睦を破棄して攻撃に転じた。
戦いを有利に進めたが1560年、病を得て57歳で没した。
跡を継いだ長男の長宗我部元親は「姫若子(少女)」と呼ばれるほどおとなしい性格だったが、国親の没する1月前の初陣で鬼神の如き活躍を見せ「鬼若子」と評価を一変させた。
一領具足を続け、弟の親貞(ちかさだ)を養子に出して吉良家を従属させるなど、父の戦略を受け継ぎ、1575年には土佐を、1585年には四国統一を果たすのであった。
※アイコンは呂凱
谷忠澄(たに・ ただすみ)
土佐の人(1534~1600)
長宗我部家の重臣。
もともと土佐神社の神主だったが、長宗我部元親に見出され仕えたとされる。
主に外交を担当し、1585年の豊臣秀吉の四国征伐に先立ち、講和交渉に赴いた。
元親は四国全ての安堵を望んだが秀吉は認めず、讃岐・阿波の譲与で一度は話がまとまりかけたものの、結局は決裂した。
秀吉は弟の豊臣秀長(ひでなが)に命じ、讃岐・阿波・伊予の三方面から四国へ攻め入らせた。
忠澄は江村親俊(えむら・ちかとし)とともに兵9千を率い阿波一宮城に詰めた。
蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)、仙石秀久(せんごく・ひでひさ)、藤堂高虎ら5万の大軍が城を包囲したが、城兵の士気高く落ちる気配を見せなかった。
そこで秀長は力攻めを諦め、城の水の手を断つと地下道を掘らせ、城内へ侵入させようとした。
たまらず忠澄らは城を明け渡して撤退し、長宗我部元親に戦況の不利を説き、降伏を勧めた。
徹底抗戦を主張する元親は激怒し、すぐさま切腹を命じたが、忠澄は構わず説得を続け、他の重臣もそれに同調すると元親も折れ、土佐一国の安堵を条件に降伏した。
1586年、秀吉の九州征伐に長宗我部家も参戦したが、軍監を務めた仙石秀久の失策により戸次川の戦いで島津軍に大敗し、元親の嫡子である長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)が戦死した。
忠澄が戦闘中ながら遺体の受け取りを申し出ると、島津家の新納忠元(にいろ・ただもと)は「自分がその場にいれば決して討ち取らせはしなかった」と将来有望な跡取りを殺したことを涙ながらに陳謝し、旧知の僧侶を土佐まで同行させた。
忠澄も信親の遺灰とともに土佐に戻り、その後は土佐中村城の城代を務め、同地で没した。
※アイコンは曹熊
河野通直(こうの・みちなお)
伊予の人(1564~1587)
伊予の大名・河野家の最後の当主。
1568年、河野家先代の河野通宣(みちのぶ)が病に倒れると、嗣子がなかったため一族の通直が養嗣子に迎えられ家督を継いだ。
だが通直もまだ5歳と幼なく、実質的には通直の父・河野通吉(みちよし)が家中を切り回した。(ただし近年の研究では通直の父は村上通康(むらかみ・みちやす)が有力視されている)
また家督相続の際に名前も継いだのか先々代当主で河野通宣の父と同姓同名で、活動時期もかぶるため事績が混同されがちである。
当時の河野家は反乱した大野直之(おおの・なおゆき)も鎮圧できず、隣国の大友家や一条家、長宗我部家に脅かされ、臣従する毛利家の助力で辛うじて生きながらえているに過ぎなかった。
しかし通直は長じると大変な人格者に育ち、多くの美談や逸話を残し、反乱した大野直之すら通直を慕って帰順したという。
1585年、豊臣秀吉が四国討伐に乗り出すと、それに毛利軍も加わったため河野家に抗す術はなく、籠城したものの毛利軍の総大将・小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に説得され開城した。
通直は自ら先頭に立って城内の子供45人の助命を嘆願したとされ、その逸話を伝える石碑が現存している。
通直は所領を没収され、小早川隆景に招かれたが2年後に病死した。
実子はなく、一族の河野通軌(みちのり)が跡を継いだ。
1600年、関ヶ原の戦いに際し通軌は西軍につき、旧領の伊予に攻め込んだが敗北し、河野家もろとも歴史から姿を消した。
だが通直の父が村上通康だとすれば、姉妹が毛利家に嫁ぎ当主の毛利秀元(もうり・ひでもと)を産んでおり、通直の血筋は残っている。
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来島通総(くるしま・みちふさ)
伊予の人(1561~1597)
来島・能島・因島の三島に勢力を築いた村上家のうち、来島村上家の当主である村上通康(むらかみ・みちやす)の四男。
7歳の時に父が没すると、四男ながら母が主君である河野通直(こうの・みちなお)の娘だったため家督を継いだ。
来島村上家は代々河野家の傘下にあったが、1570年に河野家が幕府に納めようとした金を横領するなど、通総の代から次第に独立色を強めていった。
また河野家は毛利家と同盟関係にあったため、毛利家とともに大友家と戦うことがあったが、この時に作戦をめぐって能島村上家と対立したという。
1582年、羽柴秀吉の調略を受けて通総は織田信長方に寝返った。
そのため毛利・河野軍に攻められた通総は居城を追われ、秀吉のもとに一時身を寄せた。
だが長兄の得居通幸(とくい・みちゆき)が鹿島城を守り抜き、信長が本能寺の変で討たれたのをきっかけに秀吉と毛利家が和睦すると、通総は旧領への復帰がかなった。
秀吉は村上三家の中でいち早く自分に降った通総を寵愛し「来島」と親しく呼びかけたため、通総は姓を来島に改めた。
1585年の四国攻めでは毛利家の小早川隆景の指揮下に入り、旧主の河野家を攻め、その功績から伊予風早に1万4千石を与えられ大名に名を連ねた。
1592年、文禄の役でははじめ四国勢を率いた福島正則の下につけられたが、朝鮮水軍の動きが活発になると、村上水軍の経験を活かし日本水軍に編入された。また長兄の得居通幸はこの海戦で討ち死にしている。
1597年からの慶長の役では水・陸両軍で働き、先鋒として海峡に突入するも反撃にあい戦死した。享年37。
余談ながら捕虜となった朝鮮軍の姜沆(きょうこう)は報告書で「日本軍は大将が戦死するとその子弟が跡を引き継いでおり、池田秀雄(いけだ・ひでかつ)が病死した時には息子が、来島通総が戦死した時には弟が代わって指揮をとった」と伝えており、当時の軍制をうかがわせる貴重な資料となっている。
家督は次男の来島長親(ながちか)が継ぎ、1600年の関ヶ原の戦いで西軍につき改易となるも、妻の伯父が福島正則だったためとりなしを受けて豊後森に1万4千石を得て大名に復帰した。
しかし森は内陸部のため水軍は幕府軍に編入され、来島村上水軍は事実上の解散となった。
来島家は1616年に久留島と字を改め、幕末まで続いた。
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長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)
土佐の人(1539~1599)
土佐の大名。幼い頃はおとなしく、人に何か言われても答えずにいたためうつけ者と疑われ、少女のように色白だったことから「姫若子」と揶揄された。
しかし22歳で迎えた遅い初陣で、自ら槍を振るい勇猛果敢に突撃して以来「鬼若子」と呼ばれるようになった。
同年、父が急死し家督を継いだ。
元親は父が考案した一領具足(半農半兵制度)をさらに発展させ精強な兵を鍛え上げ、宿敵の本山家を破り土佐中部を制圧。
毛利家の侵攻で土佐国司の一条家が衰退すると独立色を増し、弟の親貞(ちかさだ)を吉良家へ、親泰(ちかやす)を香宗我部家へ(親泰の縁組は父の代で行われた)、さらに次男の親和(ちかかず)を香川家へ養子として送り込み地盤を固めた。
そして無能とさげすまれた一条家の当主・一条兼定(いちじょう・かねさだ)が家老らに追放されると、娘を次期当主に嫁がせ一条家を傀儡化し、1575年には土佐を統一した。
その頃、中央では織田信長が台頭していたが、元親の母は美濃斎藤家の生まれで、信長の正室・濃姫の親戚にあたる縁から同盟を結び、長宗我部家は伊予、阿波、讃岐へと侵攻を始めた。
信長に畿内を追われ本拠地の阿波・讃岐へ逃げ帰っていた三好家は激しく抵抗したが、やがて内紛を起こして自壊し、1580年には阿波・讃岐も元親の手に落ちた。
しかし伊予では毛利家と結んだ伊予守護の河野家が善戦し、家老の久武親信(ひさたけ・ちかのぶ)が討ち死にするなど苦戦し、信長もまた元親を「鳥無き島の蝙蝠」と揶揄して評価せず、土佐と南阿波のみ領有を認め臣従を迫った。
元親がそれを拒絶すると、信長は降伏していた三好家の旧臣を援助して阿波・讃岐で反抗させ、さらに次男・織田信孝(のぶたか)を総大将に四国討伐軍を編成し、一転して長宗我部家は窮地に追い込まれた。
だが1582年、その直前で信長は本能寺に斃れ、元親は九死に一生を得た。
元親は信長の跡を継いだ羽柴秀吉が柴田勝家、徳川家康らと覇権争いをする隙に讃岐を奪回した。
伊予では秀吉と結んだ毛利家に手を焼くも、1585年にようやく制圧し四国統一を成し遂げた。
だが勝家を討ち、家康も降した秀吉は元親に伊予と讃岐の返還を迫った。元親は伊予の割譲で手を打とうとしたが秀吉は許さず、弟の羽柴秀長(ひでなが)に10万の大軍を預け四国攻めに踏み切った。
秀吉は娘婿の宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)と黒田官兵衛を讃岐へ、毛利家を伊予へ、秀長と養子の三好秀次(みよし・ひでつぐ)を阿波へと向かわせ三方から侵攻し、元親の布いた防衛線を次々と破った。
当初は徹底抗戦を考えた元親も、家老の谷忠澄(たに・ただすみ)の決死の諫言に折れ、秀吉に降伏し土佐一国のみを安堵された。
1586年、元親は秀吉の九州征伐に参戦した。
しかし四国勢の軍監・仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により島津軍に包囲され、嫡子の長宗我部信親(のぶちか)が戦死した。
寵愛する信親の戦死により元親は錯乱し、後追い自殺をしかけたという。
新たな後継者の指名を迫られた元親は、次男と三男を差し置き四男の長宗我部盛親(もりちか)を選んだ。すでに次男・三男は養子に出て他家を継いでおり、また元親たっての希望で後継者には信親の未亡人をめとらせようとしたが、それには次男・三男は高齢だったため盛親を選んだのだが、粗暴な盛親は家臣からの信望薄く猛反対にあった。
すると元親は反対派で甥の吉良親実(きら・ちかざね)らを粛清し、家督相続を強行した。余談だがこの時に粛清された親実ら主従が四国で著名な妖怪「七人みさき」になったという。
以降、元親は秀吉に従い小田原征伐や文禄・慶長の役にも兵を出したが、佞臣の久武親直(ちかなお)を重用し、三男を無実の罪で幽閉するなど素行は不安定だった。なお久武親直は伊予平定で戦死した久武親信の弟で、親信はかつて「私が死んでも無能な弟を重用するな」と言い遺している。
四国のうち三国を奪われながらも秀吉とは懇意で、饅頭を与えられると一口だけかじって仕舞いこみ「殿下にもらい光栄だから家臣にも分けたい」と言ったり、ある時まだ四国の覇者になりたいかと問われ「天下人になりたい」と答え秀吉に「お主の器量では無理だろう」と言われると「殿下がいなければ天下を望めたのに、悪い世に生まれました」と語り、秀吉を大いに喜ばせたという。
1599年、61歳で没した。
跡を継いだ盛親は関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後に幽閉されていた無実の兄を殺したこともあり改易された。
盛親は再起を狙い大坂の陣でも豊臣家についたが捕らえられ「命あるかぎり家康の首を狙う」とうそぶき一族とともに処刑され、長宗我部家の嫡流は途絶えた。
しかしかつて元親に粛清された吉良親実の子孫が加藤家の肥後藩に仕えた(皮肉にも讒言で親実を殺させた久武親直も肥後藩に仕えている。あるいは反省した親直が親実の遺族を呼んだのだろうか)他、元親の娘は伊達家に保護され、その子らは仙台藩に仕え、長宗我部家の血を残している。
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小少将(こしょうしょう)
阿波の人(??~??)
小少将という名の人物は戦国期に少なくとも5人おり当時はありふれた名前と見られ、そのうち2人を同一人物とする説があるが、同一人物とすれば「魔性の女」と呼ぶしかない数奇な生涯を送っており、複数の人物の事績が混同している可能性がある。
本文では(その方が面白いので)同一人物として記す。
阿波守護の細川持隆(ほそかわ・もちたか)に仕えた岡本清宗(おかもと・きよむね)の娘。
長じると絶世の美女とうたわれ、持隆に嫁ぎ1538年、細川真之(さねゆき)を産んだ。
だが1553年7月、持隆が重臣の三好実休(みよし・じっきゅう)に暗殺されてしまう。細川家と三好家の関係は良好だったが、なぜ暗殺に至ったかは諸説あるが(持隆が先に三好実休の暗殺を企んだ、足利義栄(あしかが・よしひで)を擁し上洛しようとした、もともと細川家を乗っ取る計画だった、小少将の奪い合い等)、いずれにしろ夫を失った小少将は三好実休の側室にされた。
そして不思議なことに同年、彼女は実休との子・三好長治(ながはる)を産んだ。
系譜にははっきりと実休の実子と記されており、持隆の生前から二人は不倫の関係にあったと思われる。
実休は細川真之に阿波守護を継がせ、裏で実権を握った。
しかし阿波細川家の反発は激しく、統治は安定しないまま1562年、実休は河内畠山家との戦いで討ち死にし、小少将はまたも未亡人となった。
その後、小少将は三好家の重臣・篠原自遁(しのはら・じとん)と通じた。
兄の篠原長房(ながふさ)は弟の行状を諌めたが聞き入れられず、内部分裂を呈し始めた三好家に嫌気が差したのか、居城に引きこもってしまった。
小少将と自遁は、文武両道の名将で人望もある長房がもし決起すれば窮地に陥ると考え、若い三好長治とその弟(小少将の子)十河存保(そごう・ながやす)をそそのかし、長房を攻め滅ぼした。
三好家が織田信長の台頭によって衰退すると、傀儡にされていた細川真之は独立を目論んだ。
土佐の長宗我部家の援助を得て異父弟の三好長治を自害に追い込んだものの、やはり異父弟で讃岐を治める十河存保は織田家の後ろ盾を得て反撃し、細川真之もまた自害を強いられた。
だが結局、篠原自遁、十河存保は長宗我部家に敗れ讃岐を追われた。自遁はそのまま歴史から姿を消し、存保は豊臣秀吉に降ったものの、九州征伐で仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により戦死を遂げた。この時、皮肉なことに秀吉に降っていた長宗我部家の跡取り・長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)も戦死している。
三人の息子を相次いで失った小少将は、長宗我部元親の側室として再び現れ元親の五男を産んだ。
当時はまだ十河存保が存命で長宗我部家と争い、また細川真之を産んでから45年が経過しており、いくらなんでも同名の別人と思われるが、両者を同一人物とする説や創作も数多い。
十河存保(そごう・ながやす)
阿波の人?(1554~1586)
1554年、三好長慶(みよし・ちょうけい)の弟・実休(じっきゅう)の次男として生まれる。
三好実休は三好義賢(よしかた)の名でも著名だが、現在では法名の実休や三好之虎(これとら)という名が正確と考えられる。
1561年、叔父で讃岐を治めていた十河一存(そごう・かずなが)が急死し、1563年には三好家当主の三好義興(みよし・よしおき)も没し、十河一存の嫡子で後の三好義継(みよし・よしつぐ)が当主の座を継ぐことになったため、代わって存保が十河家を継いだ。
だが存保も、その兄で阿波三好家を継いだ三好長治(みよし・ながはる)も幼く、実休の旧臣で三好家の宿老・篠原長房(しのはら・ながふさ)や、その弟の篠原自遁(しのはら・じとん)が実質的に讃岐・阿波を治めた。
1566年、三好家に庇護された足利義栄(あしかが・よしひで)を次期将軍へ担ぎ上げる計画が持ち上がると、地位を脅かされた三好義継は大和の松永久秀(まつなが・ひさひで)と結び、三好三人衆らと対立した。
篠原長房は存保、三好長治とともに四国勢を率いて大和に攻め込むが、上洛した織田信長に三好義継や三人衆が降伏したため、織田軍を恐れ撤退した。
1573年、存保と長治の生母の小少将(こしょうしょう)が篠原自遁と密通し、篠原長房はそれを諌めたためかえって長治との仲が険悪となり、ついに存保の軍に攻められ戦死した。
実質的に讃岐を治めていた篠原長房の粛清と、兼ねてからの長治の悪政が国人衆の反乱を招き、さらに土佐の長宗我部家が阿波を攻撃したため、長治は讃岐から撤退した。
一方、畿内の三好義継も織田家に反逆したため信長の猛攻を受け、1575年には三好家の重鎮・三好康長(みよし・やすなが)も降伏し拠点のほとんどを失った。
1577年、長宗我部家の援助を受けた異父兄の細川真之(ほそかわ・さねゆき)が三好長治を攻め、自害に追い込んだ。
存保はなかば三好家の当主として擁立され阿波・讃岐の失地回復に務め、裏では信長に内通した。
1581年、長宗我部元親が信長の臣従要求を拒絶したため、存保と三好康長は織田軍の援助を得て攻勢に出た。
しかし1582年、信長が本能寺の変で討たれると戦況は一変し、逆に長宗我部元親に阿波を奪われた。
1584年には細川真之も敗死し、居城も奪われた存保は羽柴秀吉のもとへと落ち延びた。
1585年、存保は秀吉の四国征伐に貢献し讃岐3万石の旧領を回復した。
だが1586年、九州征伐の折に豊臣家の軍監・仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により戸次川の戦いで大敗し、元親の嫡男・長宗我部信親(のぶちか)とともに戦死した。
十河一存(そごう・かずなが)
阿波の人(1532~1561)
三好長慶(みよし・ちょうけい)、三好実休(じっきゅう)、安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)の弟。
讃岐の十河家の後継ぎが早逝したため、長慶の命で養子となり家督を継いだ。
非常に勇猛で知られ、ある時、戦場で負傷しても傷口に塩を塗り込んで消毒し、藤のつるを包帯代わりに巻いただけで戦いを続けたという。
敵には「鬼十河」と恐れられ、家臣には一存の髪型を真似する者が続出しその髪型は「十河額」と呼ばれた。
長慶が主君の細川家に反逆すると、それを助け奮戦した。次兄・実休が仕えていた細川持隆(ほそかわ・もちたか)の暗殺にも協力し、さらに河内守護・畠山高政(はたけやま・たかまさ)との戦いにも大勝するなど各地を転戦して回った。
しかし1561年、謎の急死を遂げた。
瘡による病死とも、臨終の際にそばにいた不仲の松永久秀(まつなが・ひさひで)による暗殺ともささやかれ、また有馬温泉に久秀と湯治に出かけた折、久秀に「有馬権現は芦毛の馬を好まないから乗らないほうが良い」と忠告されたのを無視したところ、落馬して負った傷がもとで没したともいう。
嫡子の三好義継(よしつぐ)は長慶に引き取られ三好家を継いでおり、他には庶子しかいなかったため甥(実休の子)の十河存保(ながやす)が養子に入り家を継いだ。