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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―長宗我部盛親  土佐の反逆児

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戦国列伝―長宗我部盛親  土佐の反逆児


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長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)
土佐の人(1575~1615)

長宗我部元親の四男。
1586年、戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親(のぶちか)が戦死すると家督争いが持ち上がった。
盛親は幼少の頃から粗暴かつ傲慢で人望はなかったものの、次男と三男はすでに他家を継いでおり、また元親は溺愛する信親の娘を当主にめあわせようと考え、年の離れた盛親を選んだ。盛親は父や信親に似て大柄で、また残された肖像画も信親によく似ており、そうしたことも元親は好んだと思われる。
しかし豊臣秀吉は兄を差し置いての相続に難色を示し、盛親に官位を与えず、元親の死後も公式には継承を認めなかった。

1600年、関ヶ原の戦いで当初は徳川家康に味方しようとしたものの、西軍の主力を担う長束正家(なつか・まさいえ)に足止めされ、やむなく西軍に加わった。
盛親は主力として伏見城、安濃津城を攻略し本戦に臨んだものの、家康と内通する吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が毛利家の参戦を阻むため、前に布陣したまま動かず、毛利軍と並んで布陣した盛親も巻き添えを食い戦闘に参加することなく終わった。

盛親は土佐に逃げ帰り、懇意の井伊直政に取り成しを頼んだものの、重臣・久武親直(ひさたけ・ちかなお)の讒言から兄を殺害したこともあり、あえなく改易となった。
家臣団は散り散りとなり、浪人となった盛親は京へ送られ謹慎生活を送り、京都所司代・板倉勝重(いたくら・かつしげ)の監視下に置かれた。旧臣の仕送りで暮らしたとも、自ら寺子屋を開き日銭を稼いだとも言われる。

1614年、豊臣家と徳川家の間で開戦の機運が高まると、豊臣秀頼(ひでより)に招かれ盛親は6人の従者とともに京を抜け出した。
かつての旧臣や浪人が決起を聞きつけて合流し、浪人衆の中では最大勢力に膨れ上がった。
豊臣家は集まった者達に戦勝後の褒美を約束したが、盛親は土佐一国を望んだと伝わる。
大坂冬の陣では井伊直孝(いい・なおたか)、松平忠直(まつだいら・ただなお)を撃退した。

翌1615年、夏の陣では藤堂高虎と対峙し、未明の進軍中に先鋒部隊が藤堂軍に出くわし遭遇戦となった。
先鋒部隊は壊滅したが、かさにかかって攻め込んできた藤堂軍を盛親は伏兵で叩き、主将の高虎までもが逃げ惑い、多くの藤堂一族を討ち取る戦果を挙げた。
しかし友軍の木村重成(きむら・しげなり)軍が井伊直孝に敗れ壊滅すると、井伊軍が救援に駆けつけたため盛親も撃破された。
長宗我部軍の損害は大きく、翌日の真田幸村、毛利勝永(もうり・かつなが)が一躍名を上げた最終決戦には加われず、大坂城も落城すると盛親は逃亡した。

最後は蜂須賀軍によって潜伏先で捕らえられ、見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。
それでも盛親の気勢は全く衰えず、粗末な食事を供されると「名将とて昔から捕縛されたことは多々ある。しかしこんな卑しいものを食わせるくらいならさっさと首を刎ねよ」と激怒した。それを聞いた井伊直孝も処遇に激怒し、座敷に招くと大名料理で歓待したため、盛親は感謝したと伝わる。

また夏の陣の勝因を井伊直孝の勝利、敗因を盛親の敗北とし、我こそが勝敗を決したと自負した。
なぜ自害せず恥を晒しているのかと問われると「命と右手さえあれば家康や秀忠を今の自分と同じ姿にしてやれる機会は残っている」と言い放ち、出家するから助命するよう嘆願したという。
だが家康がこのような危険人物を許すはずもなく、6人の子女とともに処刑された。享年41。
その最期は「死に及んでいささかも怯じたる気配なし」と記される堂々たるものだった。

かくして長宗我部家は滅亡したはずだが2015年、400年法要に盛親の次男の子孫と称する人物が、盛親の物と伝わるあぶみを持参して現れた。
100年前に発見されていたもう片方のあぶみと形状・配色ともに一致し、本物と認められ、なんらかの方法で長宗我部家の血統が残されていたとうかがえる。

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