三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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来島通総(くるしま・みちふさ)
伊予の人(1561~1597)
来島・能島・因島の三島に勢力を築いた村上家のうち、来島村上家の当主である村上通康(むらかみ・みちやす)の四男。
7歳の時に父が没すると、四男ながら母が主君である河野通直(こうの・みちなお)の娘だったため家督を継いだ。
来島村上家は代々河野家の傘下にあったが、1570年に河野家が幕府に納めようとした金を横領するなど、通総の代から次第に独立色を強めていった。
また河野家は毛利家と同盟関係にあったため、毛利家とともに大友家と戦うことがあったが、この時に作戦をめぐって能島村上家と対立したという。
1582年、羽柴秀吉の調略を受けて通総は織田信長方に寝返った。
そのため毛利・河野軍に攻められた通総は居城を追われ、秀吉のもとに一時身を寄せた。
だが長兄の得居通幸(とくい・みちゆき)が鹿島城を守り抜き、信長が本能寺の変で討たれたのをきっかけに秀吉と毛利家が和睦すると、通総は旧領への復帰がかなった。
秀吉は村上三家の中でいち早く自分に降った通総を寵愛し「来島」と親しく呼びかけたため、通総は姓を来島に改めた。
1585年の四国攻めでは毛利家の小早川隆景の指揮下に入り、旧主の河野家を攻め、その功績から伊予風早に1万4千石を与えられ大名に名を連ねた。
1592年、文禄の役でははじめ四国勢を率いた福島正則の下につけられたが、朝鮮水軍の動きが活発になると、村上水軍の経験を活かし日本水軍に編入された。また長兄の得居通幸はこの海戦で討ち死にしている。
1597年からの慶長の役では水・陸両軍で働き、先鋒として海峡に突入するも反撃にあい戦死した。享年37。
余談ながら捕虜となった朝鮮軍の姜沆(きょうこう)は報告書で「日本軍は大将が戦死するとその子弟が跡を引き継いでおり、池田秀雄(いけだ・ひでかつ)が病死した時には息子が、来島通総が戦死した時には弟が代わって指揮をとった」と伝えており、当時の軍制をうかがわせる貴重な資料となっている。
家督は次男の来島長親(ながちか)が継ぎ、1600年の関ヶ原の戦いで西軍につき改易となるも、妻の伯父が福島正則だったためとりなしを受けて豊後森に1万4千石を得て大名に復帰した。
しかし森は内陸部のため水軍は幕府軍に編入され、来島村上水軍は事実上の解散となった。
来島家は1616年に久留島と字を改め、幕末まで続いた。