三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)
摂津の人(1528~1564)
細川家の重臣・三好元長(みよし・もとなが)の三男として生まれる。
兄に三好長慶(ちょうけい)、三好実休(じっきゅう)、弟に十河一存(そごう・かずなが)がいる。
細川家の命で淡路島にいた三好長慶は、淡路水軍を率いていた安宅家に冬康を養子に出し家督を継がせた。
以降、三好家は長兄の長慶が摂津・河内・和泉の兵を、次兄の三好実休が阿波を、冬康が淡路を、弟の十河一存が讃岐を率い各地を転戦した。
冬康は軍事的才能はもちろんのこと「歌道の達者」と評されるほど和歌に通じ、兄の野卑な行いを和歌を用いて諫めるほどだった。穏やかな性格で兵からも慕われたが、実休、一存、さらに長慶の嫡男・三好義興(みよし・よしおき)らが相次いで急死すると1564年、長慶に突如として自害を命じられた。
長男の安宅信康(あたぎ・のぶやす)が跡を継ぎ、後に織田信長に降り淡路水軍を率いたが、30歳の若さで没した。
その後を弟の安宅清康(きよやす)が継いだものの、間もなく所領を没収され、清康も1581年に若くして亡くなり淡路安宅家は滅亡した。
~謎に包まれた最期~
当時から死の背景は謎に包まれ、一級史料として著名な「言継卿記」を著した山科言継(やましな・ことつぐ)は「冬康に逆心があったそうだ」と伝聞の形で記し、一方で「足利季世記」や「細川両家記」は「何者かに讒言によって殺された」とし、「三好別記」や「続応仁後記」はその何者かを松永久秀(まつなが・ひさひで)だと断定しており、多くの民衆もそれを信じたという。
また三好実休ら一門衆の重鎮が相次いで没したことで冬康の権力が急激に強まったのを、三好長慶が危ぶんだという説も根強い。
長慶は当時、重い病に冒されており、自分の死後に年若い息子の三好義継(みよし・よしつぐ)が冬康の傀儡にされると危惧したとも、単純に病のせいで判断力が衰え、冬康への讒言を信じたともされる。
長慶は冬康の死の翌月に病死しており、しかも鬱病を疑われていることから、冬康を巻き込んでの心中と捉える奇説もある。
一条兼定(いちじょう・かねさだ)
土佐の人(1543~1585)
土佐国司・一条家の当主。
父が突如として自殺を遂げたため(錯乱したと伝わる)7歳で家督を継いだ。
まだ幼いため大叔父で関白の一条房通(ふさみち)が後見役となり、土佐まで赴き政務をとったが、14歳の時に房通も没した。
1558年、伊予の宇都宮家から妻を迎えたが方針転換から離縁し、1564年に大友宗麟(おおとも・そうりん)の次女をめとった。
離縁後も宇都宮家との同盟は続き、連合軍を催して、毛利家の支援を受けた河野家と戦うも大敗。義弟が当主を務める京の一条本家とも疎遠となり、土佐一条家は徐々に衰亡していった。
それと入れ替わるように長宗我部元親が勢力を強め、次第に一条家の領土を侵食していく。
妹婿を長宗我部家との戦で失い、家老を無実の罪で処刑しと人材を失い、ついに1573年、三人の家老の合議により強制的に隠居させられ、さらに翌年には土佐を追放され、妻の実家の大友家へと落ち延びた。
家老らの専横に激怒した一部の家臣が蜂起し、一条家は内部分裂を起こし、それに乗じた長宗我部元親は事態を収拾する名目で一条家の本拠地を占領した。
すべてを失った兼定は岳父・大友宗麟の影響からか神にすがり、キリシタンとなりドン・パウロという洗礼名を受けた。
大友家の兵を借りての再起戦にも敗れると、瀬戸内海の小島に隠棲した。そこでも刺客を差し向けられるなど苦労の末、当地で没した。
軍記物などでは大いに脚色されきわめて無能な人物に描かれるが、再起戦には多くの旧臣が集まり、また敗戦後も長宗我部家によって刺客を送り込まれるなど警戒されており、決して無能な人物ではない。
また隠棲した彼を尋ねた宣教師は、熱心な信仰ぶりに感嘆したという話も伝わる。