三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
※アイコンは馬良
柳生利厳(やぎゅう・としよし)
大和の人(1579~1650)
柳生石舟斎(せきしゅうさい)の長男・柳生厳勝(よしかつ)の次男。妻は島左近の娘。
父は戦場で受けた銃創がもとで歩行障害を起こし隠居していたため、幼少の頃から祖父に新陰流を学んだ。
石舟斎からは並々ならぬ期待を寄せられ、没落した柳生家を再興させるため叔父の柳生宗矩(むねのり)は関ヶ原の戦いなど各地の戦に参加しては手柄を求めるなか、利厳は修行に専念させられた。
1603年、25歳の時に加藤清正から仕官の誘いを受けた。
再三にわたる要請を断り切れず、石舟斎は利厳の短気な性格を案じ「しくじりは三度まで死罪を免じる」条件で熊本藩へ出仕させた。
しかし領内で一揆が起こり、鎮圧に手間取る伊藤光兼(いとう・みつかね)の後任として派遣されると、利厳は総攻撃を主張し、慎重論を唱える光兼と衝突した。
業を煮やした利厳は光兼を斬り捨てるとそのまま攻撃に向かい、一揆の首謀者20名を瞬く間に討ち取り鎮圧し、清正に事の顛末を報告するとその足で熊本を去った。仕官から1年経っていなかった。
その後は故郷に帰った、武者修業の旅に出た、福島正則に誘われたが清正の恩を盾に断った、など諸説あり、1604年に石舟斎から大太刀と印可状2通(石舟斎の物と、その師である上泉信綱(こういずみ・のぶつな)の物)を譲られた。
1606年、石舟斎が没すると父の厳勝が跡を継ぎ、それまで厳勝が治めていた領地を譲り受けたため、その収入をもとに旅を続けたとも、徳川家に仕官した宗矩の下にいたともされる。
1615年、成瀬正成(なるせ・まさなり)に徳川家康の九男・徳川義直(よしなお)の兵法師範として推挙された。
家康に招聘された利厳は、叔父の宗矩を引き合いに出し「叔父のような御奉公は一切御免蒙る」と率直に要求し、家康は兵法の師範だけすることを認めた。
利厳は義直に持てる奥義の全てを伝授し、5年後には新陰流の印可状と祖父に与えられた大太刀、2通の印可状、さらに別の兵法家から受けた長刀と槍の印可をそろって譲り渡した。
また後に新陰流の後継者となる三男の柳生連也斎(れんやさい)が印可を受ける際には、義直から相伝されるよう命じたという。
1648年に隠居し、家督は次男の柳生利方(としかた)が、兵法師範は連也斎が継いだ。
ちなみに長男の柳生清厳(きよよし)は父にも劣らぬ兵法家とうたわれたが若くして死病を得てしまい、1638年、島原の乱に死に場所を求めて単身で参戦し壮絶な討ち死にを遂げている。
2年後に利厳は72歳で没した。
後年、新陰流は石舟斎、利厳を経て連也斎で完成したと言われたという。
※アイコンは師簒
丸目長恵(まるめ・ながよし)
肥後の人(1540~1629)
相良家に仕えた兵法家。
剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)の弟子で四天王にも数えられ、タイ捨流の開祖。
剣術のみならず馬術から忍術、書や和歌にも通じた。
講談等では丸目蔵人(くらんど)の通称でも著名。
もとは山本姓だったが1555年、父とともに島津軍と戦った功で丸目姓を与えられた。
はじめは肥後の兵法家に学んだがそれに満足せず1558年、上洛し新陰流の上泉信綱に師事した。
将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)や正親町天皇の前で信綱が兵法を披露した際、その相手を務めた記録が残っている。
肥後に戻った長恵は相良家の新陰流指南役となり、多くの弟子を得た。
1566年、弟子を引き連れ再び上洛したが、折悪しく信綱は上野に帰国中で会えず、各地をめぐり「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めた。
しかし新陰流の名を恐れてか挑む者は現れず、肥後に帰った。信綱はその話を聞き、長恵に印可状(免許皆伝)を与えた。
1569年、相良家に戻った長恵は島津家久(しまづ・いえひさ)の策にかかり、大敗を喫した。
主君の相良義陽(さがら・よしひ)は激怒し逼塞の処罰を与えた。
武士として立身出世の道を半ば閉ざされた長恵は兵法修行に専念し、九州一円の兵法家に勝負を挑んだ。信綱は長恵の活躍を聞き西国での新陰流の普及を一任したという。
長恵は信綱が新たな奥義を編み出したと聞き三度上洛したが、すでに信綱は没していた。
落胆しながらも長恵はさらなる研鑽を重ね、数年後にタイ捨流を開いたとされる。
1587年、豊臣秀吉に降っていた相良家はすでに義陽も亡く、長恵の帰参を許し剣術指南役として迎えた。
タイ捨流は九州一円に広まり、立花宗茂ら大名も門下に名を連ねた。
晩年の長恵は出家し農業に従事しながら隠居生活を送り、1629年に90歳で没した。
※アイコンは張雷公
塙直之(ばん・なおゆき)
出身地不明(1567~1615)
軍記物や講談により塙団右衛門(だんえもん)の通称で著名。
出自は不明で、尾張に生まれ織田信長の重臣の塙直政(ばん・なおまさ)の一族とする説。
遠江の浪人・須田次郎左衛門(すだ・じろうざえもん)であるという説。
上総に生まれはじめ千葉家に、後に北条家に仕えたとする説など諸説あり定かではない。
前半生もやはり不明で、信長に仕えるも酒に酔うと暴れる悪癖で人を殺してしまい、追放され諸国をめぐった説。
北条綱成(ほうじょう・つなしげ)に仕えるも、主家の滅亡後に浪人した説。
小早川隆景の家臣に仕えるも結局は浪人した説。
諸説あるが1592年、文禄の役の頃に加藤嘉明(かとう・よしあき)に召し抱えられたという結末で一致する。
嘉明は出陣に際し四尺半の巨大な青地の絹に日の丸を染め抜いた旗を用意し、団右衛門はそれを背負って活躍したという。
だが1600年、関ヶ原の戦いで鉄砲大将を任された直之は、手柄を立てたものの抜け駆けを働いたため、規律を重んじる嘉明は激怒し、大将の器ではないと叱責した。
直之もそれに怒ると「小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ」という意味の漢詩を置き手紙に出奔した。
嘉明はさらに怒りを増し、奉公構を出し他家への仕官を阻んだ。
小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)や松平忠吉(まつだいら・ただよし)は嘉明より高位にあったため、奉公構を気にせず召し抱えたものの、いずれも早逝してしまい再び浪人となった。
次いで福島正則に迎えられたが、かつてともに「賤ヶ岳七本槍」と称された嘉明は正則と同格のため、直接抗議し罷免させた。
仕官の道を閉ざされた直之は出家すると鉄牛(てつぎゅう)を名乗ったが、武士への未練は残り、托鉢の時でさえ帯刀していたため檀家からの支持を得られなかった。
1614年、大坂冬の陣が始まると、直之は再起を志し還俗した。
まずは徳川家に仕官しようとしたが、小勢で不利な豊臣家に仕えたほうが出世の道が拓けると思い直し、大坂城に入った。
夜襲で武功を立て、翌年の夏の陣でも先陣を切って紀伊に攻め込んだ。
だが岡部則綱(おかべ・のりつな)と手柄を争ううちに突出しすぎて孤立し、浅野長晟(あさの・ながあきら)軍に包囲され戦死した。
岡部則綱は逃げ延びたが、直之を見殺しにしたと非難され、大坂城が落ちると改名し隠棲したという。
直之の豪傑らしい生涯は講談などで人気を博し、後には酒を飲みながら戦い、酔えば酔うほど強くなると脚色された。
※アイコンは成済
東郷重位(とうごう・しげかた)
薩摩の人(1561~1643)
島津家に仕え、示現流を開いた兵法家。
名の重位の読みは示現流の口伝では「ちゅうい」とされる。
瀬戸口家に生まれ、後に縁戚の東郷家から改姓を許された。
若い頃は肥後の兵法家・丸目長恵(まるめ・ながよし)の開いたタイ捨流を学んだ。
島津家に仕えて武功を立て、1587年に島津家が豊臣秀吉に降伏すると、主君の島津義久(しまづ・よしひさ)に従い上洛した。
金細工の修行が目当てだったとされるが、天寧寺の僧・善吉(ぜんきち)に出会い、彼が奥義を受け継いだ天真正自顕流を学び、修行の末に帰国すると、天真正自顕流とタイ捨流を組み合わせ独自の剣術を編み出した。
家中に多数の門弟を抱えるようになり、やがて島津忠恒(ただつね)のもとにも名声が届くと、1604年にタイ捨流の師範と御前試合を命じられた。重位が勝利を収めると、お抱えの師範を破られた忠恒は激昂し重位に斬りかかったが、とっさに扇子で忠恒の手を打ち、刀を叩き落としたため感嘆され、島津家の兵法師範に任じられたという。
その後、島津家が帰依する僧侶・南浦文之(なんぽ・ぶんし)によって重位の剣術は示現流と命名された。
礼儀正しく穏やかな人格者であった重位は家中でも重んじられるようになり、島津家の家老から内密に相談を受けることも多々あった。
後に薩摩藩密貿易の拠点ともいわれた坊泊郷の地頭を任されたという逸話も、彼の口の堅さと島津家からの信頼を感じさせる。
1643年、83歳で没した。
示現流の特徴を表す「二の太刀いらず」は現代でも著名で、技の一つ「一二の太刀」は警視庁の剣道で採用されている。
ただし示現流の掛け声として有名な「チェスト」は実際には「エイ」であり、分派の薬丸自顕流の方がより掛け声は激しいという。
※アイコンは左髭丈八
薄田兼相(すすきだ・かねすけ)
出身地不明(??~1615)
豊臣家に仕えた猛将。兼相流柔術や無手流剣術の開祖とされる。
前半生はほとんど不明で、1611年頃から家臣団に名前が見える。
1614年、大坂冬の陣で浪人衆を指揮したが、遊郭に通っている隙に砦を落とされ、味方から「橙武者」とあざけられた。(橙は酸味が強く食用に向かず、正月飾りにしか使えないことから、見栄えばかりの見掛け倒しという意味)
なお大野道犬(おおの・どうけん)の名で著名な大野治胤(はるたね)も同時期に大敗し水軍を失ったことから、兼相と二人合わせて橙武者と呼ばれている。
翌年、大坂夏の陣でも霧によって到着が遅れ、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)を見殺しにしてしまい、責任を感じた兼相は自ら陣頭に立って敗軍を指揮し多くの敵将の首を挙げたが、衆寡敵せずに討ち取られた。
~豪傑・岩見重太郎~
兼相の前身は、日本各地に伝承を残す流浪の豪傑・岩見重太郎(いわみ・じゅうたろう)だとする説が広く知られている。
それによると重太郎の父は小早川隆景の剣術指南役を務めたが、広瀬軍蔵(ひろせ・ぐんぞう)によって暗殺された。
出奔した軍蔵を追い重太郎は諸国をめぐり、各地で山賊や、大蛇に巨大ヒヒといった化け物を退治する武勇伝を残し、ついに1590年、天橋立で軍蔵を討ち果たしたという。
※アイコンは強端
小野忠明(おの・ただあき)
安房の人(1569~1628)
徳川将軍家の指南役も務めた剣豪。初名の御子上典膳(みこがみ・てんぜん)でも著名。(姓は神子上とも書かれる)
はじめ安房の大名・里見家に仕えたが、出奔し戦国最強の呼び声も高い剣豪・伊藤一刀斎(いとう・いっとうさい)に師事した。
兄弟子の善鬼(ぜんき)を破り一刀流の奥義を継承したと伝わる。
1593年、一刀斎の推薦で徳川家康に仕えた。徳川秀忠のもとに付けられ、柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)の新陰流とともに徳川家の剣術指南役となり、この頃に御子上典膳から小野忠明に改名した。
なお小野は母方の姓で、忠明は秀忠から一字もらい受けたともいう。
忠明は小野一刀流の開祖とされることが多々あるが、本人はそれを称しておらず、子の小野忠常(ただつね)が小野派一刀流を、弟の伊藤忠也(ただなり)が忠也派一刀流をそれぞれ称したものである。
1600年、関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、上田城を攻め「上田七本槍」と呼ばれる活躍を見せたものの、同時に軍令違反を犯したため真田信之のもとで蟄居を命じられたが、後に秀忠の兄・結城秀康(ゆうき・ひでやす)の仲介により帰参を許された。
1614年の大坂の陣にも参戦したが、忠明は生来の傲岸不遜な性格で常に諍いを起こしており、一説には他藩の家臣と手合わせした際、相手の両腕を再起不能になるまで打ち砕いたため、秀忠の怒りを買い閉門処分を受けたという。
1628年、60歳で没した。
小野派、忠也派それぞれの一刀流は分派を興しながら現代にまで受け継がれている。
中でも小野派から生まれた山岡鉄舟の「一刀正伝無刀流」、後に千葉周作がさらにアレンジし「北辰一刀流」を生んだ「中西派一刀流」が著名である。
※アイコンは陳到
佐々木小次郎(ささき・こじろう)
豊前か越前の人(??~1612)
宮本武蔵との巌流島の戦いで著名な剣豪。佐々木岩流(がんりゅう)あるいは巌流の名でも著名。
ただし姓の「佐々木」は1776年になって初めて現れたもので信憑性は薄い。
富田勢源(とだ・せいげん)あるいは鐘捲自斎(かねまき・じさい)に師事し、いったんは毛利家に仕えたものの、武者修行の旅に出て越前で「秘剣燕返し」を編み出し、流派「岩流」を開いた。
だが1612年、宮本武蔵に九州小倉の舟島で決闘を挑むも敗北し命を落とした。生年は不明だが70歳前後と思われる。
死後、彼の号にちなみ島は巌流島と呼ばれるようになった。
武蔵の養子で決闘に立ち会った宮本伊織(みやもと・いおり)の記録によると、小次郎は三尺(約1メートル)の野太刀を、武蔵は木刀を用いた。
武蔵がわざと遅刻して小次郎を焦らせたと伝わるがこれは吉川英治の創作で、伊織の記録には「両雄同時に相会し」とあり実際は遅刻しておらず、武蔵は「電光すら遅く見える」一撃で勝負を制したという。
時代が下るにつれ逸話に肉付け、あるいは誇張がされていき、小次郎の野太刀は「物干し竿」と名付けられ、武蔵の得物は「船の櫂を削った長短2本の木刀」にされた。
また「武蔵は弟子を連れて行き5人がかりで殴り殺した」「一対一で武蔵が勝ったが小次郎は息を吹き返し、武蔵の弟子にとどめを刺された」など武蔵にとって不名誉な記述も増えた。
簡潔な記述しかなく、武蔵にとっても数多い果たし合いの一つに過ぎないこの決闘が、日本人なら誰でも知っているような逸話に昇華したのは歴史の面白いところである。
愛洲元香斎(あいす・げんこうさい)
出身地不明(1519~1590)
陰流の始祖・愛洲移香斎(いこうさい)の子。名は宗通(むねみち)。
父が没すると跡を継いだ。移香斎が67歳の時に生まれた計算になるため養子説もある。
父が開いた陰流を継ぎ、後に前勝坊(ぜんしょうぼう)という異人が猿に秘剣を授ける様を見て(夢で見て?)猿飛陰流と改名したとされるが、公式文書では陰流のまま変わっていない。
1564年、常陸の佐竹家に仕え、後に姓を平澤(ひらさわ)に改めた。
元香斎が没すると、息子が早逝していたため孫が後を継ぎ、以降も佐竹家に仕え続け、平澤家は現代まで続いているという。
弟子の(父の弟子ともされる)剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)が開いた新陰流が柳生新陰流、タイ捨流と分派を輩出し隆盛を極める一方で、陰流は衰退しついに途絶えてしまった。
愛洲移香斎(あいす・いこうさい)
伊勢の人(1452~1538)
陰流の始祖。名は久忠(ひさただ)、惟孝(これたか)、勝秀(かつひで)と諸説ある。
剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)は弟子(または孫弟子)とされる。
死後、息子の愛洲元香斎(げんこうさい)が跡を継いだ。
幼少より剣術の才能を見せ、長じると武者修行の旅に出た。
九州や関東、はては明にまで渡航し武芸を磨き、36歳の時、日向の岩屋に籠もり霊験を得て陰流を開いたという。
それにあやかってか日向守を名乗り、当地で没したとされる。
半ば伝説上の人物で、実際には近畿を出ていないとも、六角定頼(ろっかく・さだより)らに弓術を教えたとも、海賊だったとする説もある。
上泉信綱(こういずみ・のぶつな)
上野の人(1508?~1577?)
「剣聖」の異名を取る兵法家。諸説あるが一般に戦国時代に「剣聖」の名で呼ばれるのは彼と塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)のみである。
上野の大胡家の一族で、大胡(おおご)信綱とも名乗った。
数々の武芸を修め、陰流の始祖・愛洲移香斎(あいす・いこうさい)、またはその子の愛洲元香斎(げんこうさい)に師事し、新陰流を開いた。
また袋竹刀(竹刀に革袋をかぶせ殺傷力を抑えたもの)の考案者とされ、それまで木刀が用いられ、稽古中に致命傷を負うことも珍しくなかった剣術を安全に習えるようになり、その発展に大きく寄与した。
はじめは上野の長野家に仕えたが、1566年、長野家が武田家に滅ぼされると、武田信玄の誘いを断り弟子を連れ武者修行の旅に出た。
その際に武勇を惜しんだ信玄から一字贈られ「信綱」と改名したとの説もある。
しかし1565年に没した足利義輝(あしかが・よしてる)に兵法を披露したなど、多くの記録に1563年から旅に出たと記録され矛盾が生じており、確かな足跡はわからない。
没年も最期の地も諸説あり判然としない。
疋田景兼(ひきた・かげとも)、柳生宗厳(やぎゅう・むねしげ)、丸目長恵(まるめ・ながよし)、宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)ら後に名だたる兵法家として知られる多くの弟子を持ち、中でも柳生宗厳は柳生新陰流、丸目長恵はタイ捨流を興し、きわめて著名であり、彼らの師として信綱の名は燦然と輝き続けている。