三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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吉田重勝(よしだ・しげかつ)
近江の人(1514~1590)
吉田流弓術の二代目である吉田重政(よしだ・しげまさ)の四男。
重政は仕えていた六角義賢(ろっかく・よしかた)と奥義の伝授をめぐり揉め事を起こし出奔すると、吉田流が途絶えることを恐れ重勝に奥義を授け京へ移らせた。
重勝は「雪荷派(せっかは)」を興し(雪荷は重勝の号)吉田流の正統とされる。
弟子の中で最も優秀だった伴道雪(ばん・どうせつ)に跡を継がせようとしたが、道雪は固辞し、代わりに一派を立てることを願い出た。それが後の「道雪派」である。
生涯、誰にも仕官しなかったが豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)、蒲生氏郷(がもう・うじさと)、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)ら多くの大名と交流し弓術を教えた。特に細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)と親しく、重勝は弓術を教える代わりに細川家の小笠原少斎(おがさわら・しょうさい)から故実や礼法を学んだ。没したのも細川家の領国である丹後だった。
吉田重政(よしだ・しげまさ)
近江の人(1485~1569)
吉田流弓術の創始者である吉田重賢(よしだ・しげかた)の子。父から吉田流を継いだ。
同族である近江守護・六角義賢(ろっかく・よしかた)に仕えた。だが奥義の伝授を望んだ義賢と「奥義は吉田家にしか伝えられない」と揉め、一時は朝倉家へ亡命した。
重政は吉田流が途絶えることを恐れ、四男の吉田重勝(よしだ・しげかつ)に奥義を授け京へ移らせた。重勝は後に「雪荷派(せっかは)」を興した。
6年後、六角義賢と和解した重政は再仕官し、義賢が重政の嫡子・吉田重高(よしだ・しげたか)の養子となり、後に返伝することを条件に奥義を授けた。重政から印可を受けたのは義賢のみである。
また重政自ら鍛え上げた弓兵部隊は精強を誇り、松永久秀(まつなが・ひさひで)の兵1万をわずか300で撃退した逸話も残る。
1569年、85歳で没した。
六角義賢は約束を守り、後に吉田重高へ奥義を返伝した。重高は「出雲派」を興し、雪荷派と並ぶ名声を博した。
また義賢の嫡子・六角義治(ろっかく・よしはる)も弓術の名手として知られ、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)や豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)らの師範となっている。
吉田重賢(よしだ・しげかた)
近江の人(1463~1543)
戦国一の弓術家。
幼少時に数々の弓術を学び、さらに日置正次(へき・まさつぐ)が創始した「日置流」を修めた。
日置流は従来の儀礼に傾いていた弓術とは異なり、命中率と貫通力に重点を置く実戦的な弓術で、日置流以前の流派を「古流」、日置流以降を「新流」と呼ぶという。
日置流は重賢とその子弟によって全国へと広まり、重賢は「吉田流」の開祖とされた。近代の弓術はほぼ全て日置流か吉田流の系統である。
だが日置正次は神仏の化身とされるなど実在が疑問視されており、重賢と同一人物説や、吉田流に箔をつけるため重賢が創作したとも言われる。
吉田家は佐々木一族に属したため、同族の近江の大名・六角家に仕えた。
重賢が没すると子の吉田重政(よしだ・しげまさ)が跡を継いだ。