三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1600年、家康が上杉景勝(うえすぎ・かげかつ 上杉謙信の跡継ぎ)の征伐に赴くと、その隙をつき石田三成ら豊臣方は家康に向けて挙兵した。
元忠はわずかな兵で伏見城に立てこもり、最期は鈴木重朝(すずき・しげとも 雑賀孫市の正体とも言われる)と一騎打ちの末に討ち取られ、玉砕を遂げた。
伏見城の床は血に染まり、のちに京都各所の寺の天井板に使われ、血天井として今も伝えられている。
関ヶ原の戦い後、捕らわれた石田三成は元忠の三男・鳥居成次(とりい・なりつぐ)に預けられた。三成は父の仇として殺されると覚悟したが、成次は「三成の処遇は家康が決めること。むしろ小大名でありながらよく家康と戦った」と賞賛し、三成を手厚くもてなしたという。
~逸話~
堅物に思われる元忠だが、こんな話も伝わっている。
武田家滅亡後、武田の重臣・馬場信春(ばば・のぶはる)の娘を探すよう命じられたが、元忠は発見できなかったと報告した。
後日、信春の娘が実は元忠の本妻になっていたと聞き及んだ家康は、笑ってそれを許したという。
生まれてすぐに父を亡くし、叔父の本多忠真(ただざね)のもとで育てられた。
幼い頃から徳川家康に仕え、13歳で元服し、1560年の桶狭間の戦いで初陣を踏んだ。
家康の旗本として常に側にあり、1563年の三河一向一揆では、本多一族の多くが一揆に加わる中で、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗してまで家康のもとに残った。
1570年、姉川の戦いでは家康の本陣に迫る朝倉軍1万に対して、ただ一人で斬り込んで見せ、忠勝を救おうとした家康も突撃し、結果的にそれが大反撃につながり勝利を得た。信長は忠勝を「日本の張飛(三国志随一の猛将)」と讃えたという。
その後も一言坂の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、と重要な戦で大功を立てた。
1582年、本能寺で織田信長が討たれたとき、家康は忠勝らわずかな家臣とともに堺にいた。
退路を失った家康は信長の後を追い自刃しようとしたが、忠勝に説得され、伊賀を越えて国に帰ることができた。
1584年、小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍8万に対しわずか500の兵で立ちはだかった。福島正則(ふくしま・まさのり)らは忠勝を討つ好機と唱えたが、秀吉は「家康を逃がすために囮になったのだろう」と感動し「あれほどの男はぜひ召し抱えたい」と殺さずに捕らえるよう命じ、「日本第一、古今独歩の勇士」だと讃えた。
家康が関東に移封されると、譜代の家臣は国境沿いに配置する方針により、上総に家臣団の中で二番目に多い十万石を与えられ、里見家ににらみをきかせた。
1600年、関ヶ原の戦いに際しては、西軍の諸大名に書状を送り、切り崩しを図った。
戦後、西進する徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)を足止めし、戦いに間に合わせなかった真田昌幸(さなだ・まさゆき)、幸村父子が処刑されそうになると、忠勝は娘婿で幸村の兄でもある真田信之(さなだ・のぶゆき)とともに助命を嘆願した。
家康がそれを渋ると、忠勝は「ならば殿と一戦つかまつろう」と言い放ち、家康を仰天させた。
真田父子は高野山に蟄居することで赦されたが、その後の徳川家は本多正純(ほんだ・まさずみ)ら若い官僚たちが台頭し、武功派の忠勝らは次第に遠ざけられ、1610年、63歳で生涯を閉じた。
~本多忠勝の武勇~
本多忠勝の武器といえば、愛槍の蜻蛉切(とんぼきり)がよく知られている。
これは刃長43.8cmの長槍で、穂先に止まったトンボが真っ二つになった逸話から名付けられ「天下三名槍」の一つに数えられている。
柄の長さは6mほどだったとされるが(一般的な長槍は約4.5m)、晩年に腕力の衰えを感じた忠勝は「槍は自分の力に合うものが一番」と言い、柄を短く詰めたという。
また兜には鹿の角をあしらい、自らが葬った敵を弔うため、鎧の上には肩から大数珠を提げるのが常であった。
合戦に参加すること57回に及んだが、かすり傷一つ負わなかったと言われ、そのため「戦国無双」等のゲームでは重装備で防御力を高く設定されがちだが、実際には軽装を好み、防御よりも回避を重視していたようである。
戦場では天下無双の働きを示すが、教練などでは非常に不器用なところを見せ、周りの者に不思議がられたという逸話も興味深い。
服部保長(はっとり・やすなが)の四男として生まれる。服部家は伊賀の土豪だったが、家康の祖父・松平清康(まつだいら・きよやす)が上洛した折に服部保長と知り合い、意気投合して家臣となり三河に移り住んだという。
半蔵は服部家を継ぐと、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど多くの戦で戦功を立て、やがて伊賀衆を預けられるようになった。
1579年、織田信長に家康の嫡男・松平信康(まつだいら・のぶやす)が切腹を命じられた際、半蔵は介錯役となった。だが半蔵は「祖父から三代仕える主君に刃は向けられない」と号泣し、介錯することができなかった。
それを聞いた家康は「鬼の半蔵でも主君は斬れぬか」と心を打たれ、より一層、信頼を置くようになった。
1582年、本能寺で織田信長が暗殺された時、家康は信長の招きで京を旅しており、わずかな供しか連れていなかった。
すでに明智光秀の手が回り、退路を失った家康は切腹を覚悟したが、本多忠勝らの説得で伊賀を越えて脱出することを決意した。
半蔵は地の利を生かし、茶屋四郎次郎(ちゃや・しろうじろう)とともに伊賀・甲賀の土豪と交渉して退路を確保し、無事に家康を逃した。この時、家康に同行した伊賀・甲賀衆はのちに同心として取り立てられている。
半蔵は小牧・長久手の戦い、小田原征伐でも功を立て、遠江に8千石の知行を得て、伊賀忍者を統率する立場となった。
ちなみに以降、服部家の跡取りは、忍者の統率役とともに半蔵の名を継いでいる。
1596年、半蔵は没すると江戸の西念寺に葬られた。そこは半蔵が生前に松平信康の菩提を弔うために創建した寺の後身である。生涯を通じて徳川家に忠誠を尽くした半蔵にふさわしい、安住の地であった。
元服すると今川義元から一字もらい、松平元康(まつだいら・もとやす)と名乗った。
今川義元の姪をめとり、今川家の軍師・太原雪斎(たいげん・せっさい)から薫陶を受けるなど目をかけられたが、岡崎城は最前線に配置された捨て石にも等しく、また今川家の家臣からも手酷い扱いをされており、忍従の日々を送った。
1560年、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、元康は素早く前線から岡崎城へと帰り、独立を果たした。
2年後には旧友の信長と同盟を結び、さらに名を家康と改めた。
同盟は信長が没するまで続き、両軍はたびたび連合軍を催すなど、この時代には珍しく鉄の結束を保った。
大半の家臣が参加した三河一向一揆に悩まされながらも、1566年には三河統一を成し遂げ、三河守の叙任を受けると、姓も徳川に改め徳川家康となった。
1568年からは今川家に見切りをつけた武田信玄と結び、遠江の攻略にかかった。
今川義元の跡を継いだ今川氏真(いまがわ・うじざね)は軍才に乏しく、遠江、駿河を失い今川家はあえなく滅亡した。
家康は信長の上洛や、浅井長政・朝倉義景(あさくら・よしかげ)連合軍との姉川の戦いに加勢した。
信長と敵対した将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は各地の大名に呼びかけて「信長包囲網」を敷き、家康にも副将軍の地位と引き換えに包囲網に加わるよう促したが、家康はこれを黙殺し、信長との同盟を維持した。
だが武田信玄は包囲網に加わり、信長・家康との同盟を破棄すると、徳川領に侵攻した。
信長はわずかな援軍しか送れず、家康は連敗し浜松城にこもった。しかし武田軍が浜松城を素通りしようとするのを見ると、家臣の反対を押し切って追撃したが、これは武田信玄の罠であり、迎撃されて大敗した。
多くの重臣や信長から送られた将までも失い、影武者に助けられてかろうじて浜松城に逃げ込んだが、恐怖のあまり脱糞していた。
後年、家康はこの時の恐怖に怯える自分の姿を滑稽に描かせ、その肖像画を手元に置いて自らへの戒めとしたという。
勢いに乗る武田軍はこのまま信長との決戦に臨むかと思われたが、武田信玄が急死したため撤退した。
信長包囲網の主力だった武田家の脱落により、信長は反撃に転じると包囲網に加担した大名を一掃した。
家康も信長の大規模な援軍と、当時類を見ないほど多数の鉄砲隊の助力を得て、長篠で武田軍を大破した。
この戦いで武田家は古参の重臣のほとんどを失い、一気に勢力を衰えさせた。
しかし1579年、信長から家康の正室・築山殿(つきやまどの 今川義元の姪)と嫡男・松平信康(まつだいら・のぶやす)に対して、武田家との内通疑惑がかけられた。
家康は釈明に務めたが嫌疑は解けず、信長との同盟維持を優先し、築山殿を殺害し松平信康を切腹させた。
この一件には諸説あり、近年では家康と信康父子との間の仲違いが原因とも言われている。
1582年、織田・徳川連合軍は武田領に侵攻し、武田勝頼(たけだ・かつより)を自害に追い込み武田家を滅亡させた。
家康はその功により駿河を手に入れ、さらに密かに武田家の旧臣を集め、着々と力を蓄えた。
しかし6月2日、信長は本能寺で明智光秀に討たれた。
家康はちょうどその頃、信長に招かれて堺に滞在していた。わずかな配下しかつれておらず、一時は切腹を考えたが、本多忠勝に説得されて翻意すると、服部半蔵の進言により伊賀の険しい山を越えて三河に帰った。その途上に同行していた武田の旧臣・穴山梅雪(あなやま・ばいせつ)が討ち死にしており、家康は九死に一生を得たに等しい。
家康は信長の仇討ちの兵を挙げたが、明智光秀はいちはやく中国地方から帰還した羽柴秀吉によって討たれた。
一方、武田家の旧領・甲斐と信濃では、武田家の旧臣による大規模な一揆が巻き起こり(家康が扇動したという説もある)、さらに越後の上杉家、関東の北条家が信長の死に乗じて侵攻の構えを見せた。
攻略したばかりの甲斐も信濃も治まらず、関東方面を任されていた織田家の滝川一益(たきがわ・かずます)は北条軍に敗れ尾張まで撤退し、河尻秀隆(かわじり・ひでたか)も戦死した。
このため甲斐・信濃・上野は主不在の空白地帯となり、徳川・北条・上杉の三家がこぞって侵攻にかかった。
三つ巴の争いになるかと思われたが、上杉謙信以来、他国への侵略策をとらない上杉家は争いを嫌って帰国し、北信濃の真田昌幸(さなだ・まさゆき)が徳川家につくと、巧みなゲリラ戦法に悩まされた北条家は戦意を喪失し、和睦を申し出た。
それにより甲斐・信濃は徳川家が、上野は北条家が領することで決着した。
信長の死後、織田家では明智光秀を討った秀吉が台頭し、信長の嫡孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を当主に据えて傀儡政権を樹立した。
最大の対抗馬だった柴田勝家も秀吉に敗死すると、不満を抱いた信長の次男・織田信雄(おだ・のぶかつ)は家康とともに打倒秀吉の兵を挙げた。
小牧・長久手の戦いで池田勝入(いけだ・しょうにゅう)、森長可(もり・ながよし)を討ち取ったものの、秀吉軍の兵力は圧倒的であり、恐れをなした織田信雄が勝手に和睦を結んでしまったため、大義名分を失った家康も秀吉と和睦した。
家康は次男・秀康(ひでやす)を秀吉の養子として差し出したが、徳川家の内部では秀吉に対する姿勢の相違から争いが生じ、最古参の重臣・石川数正(いしかわ・かずまさ)は秀吉のもとに出奔してしまった。
これにより徳川家の機密が秀吉に筒抜けとなったため、家康は軍制を改め武田信玄の戦法を踏襲するようになった。
さらに北信濃の真田昌幸が上杉家(秀吉方)に寝返ってしまうと、家康は秀吉自らの説得により臣従を受け入れ、秀吉の妹・朝日姫(あさひひめ)を正室に迎え入れ、再び忍従の日々を強いられることとなる。
1590年、最後に残った関東の北条家も滅ぼされ、豊臣秀吉による天下統一が成された。
家康は秀吉の命によりこれまで領していた三河など5ヶ国150万石に代わって、北条家の旧領・相模など8ヶ国250万石に転封させられた。
見かけ上の石高は跳ね上がったものの、故郷の三河を失い、まだまだ未開の関東一帯には北条家の残党が跋扈し、さらに北条家の非常に低い税率を踏襲せざるを得ず、国力は著しく低下した。
しかし家康は小田原城ではなく江戸城に拠点を据えると、順調に開発を進め、今日の首都東京(江戸)の発展に大きく寄与した。
1592年からの朝鮮出兵には、関東の多くの諸大名と同じく派兵は見送られ、戦力・財力の損耗は避けられた。
秀吉が病に倒れると、五大老の筆頭に任じられ、遺児の豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)が成人するまで後見役となるよう、くり返し頼まれた。
しかし秀吉が亡くなるや暗躍を始め、禁じられていた諸大名との婚姻を推し進め、徐々に味方を増やしていった。
こうした動きに前田利家や石田三成が反発し、一度は婚姻禁止の誓約書を出したものの、前田利家が亡くなり、石田三成もまた武断派と対立して失脚すると、再び婚姻を再開した。
家康は石田三成と武断派の間を仲裁して、武断派とわたりをつけると、暗殺未遂の嫌疑をかけ、豊臣家の中枢に位置する浅野長政(あさの・ながまさ)、大野治長(おおの・はるなが)、土方雄久(ひじかた・かつひさ)らを次々と追放し、前田利家の跡を継いだ前田利長(まえだ・としなが)も兵力を盾に降伏させた。
さらに後見役の座を利用し、豊臣秀頼の名をもって諸大名に加増を行い、島津義久(しまづ・よしひさ)、細川忠興(ほそかわ・ただおき)らも味方に引き込んだ。
1600年、会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の家臣が出奔し、上杉家に謀反の兆しがあると家康に注進した。
家康が問責の使者を送ると、上杉家の重臣・直江兼続は「直江状」として名高い挑発的な返書を送り、激怒した家康は全国に号令を掛け、会津征伐の兵を挙げた。
すると石田三成は、家康を挟撃する好機として、大坂城を占拠し、打倒家康のため決起した。
一説によると、家康は豊臣家でも最たる不穏分子の石田三成の挙兵を誘うために、わざと会津征伐に乗り出したと言われるが、真偽は定かではない。
三成は毛利輝元(もうり・てるもと)を総大将に据え、会津征伐に加わろうとする西国の大名を関所で足止めして味方に引き込むと、伏見城を攻め落とし、徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)の首を上げた。
三成挙兵の一報を受けた家康は会津征伐に向かう兵をつれすぐさま反転した。
次男・結城秀康(ゆうき・ひでやす)を上杉家への備えとして残し、三男・徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)には軍師の本多正信(ほんだ・まさのぶ)をつけて中山道を、福島正則(ふくしま・まさのり)には東海道を進ませ、自身は江戸城に戻ると常陸の佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)ににらみを利かせつつ、全国の諸大名に書状を送り外交戦を展開した。
しかし徳川秀忠の部隊は北信濃で真田昌幸・真田幸村父子に足止めされてしまう。
一方、先行する福島正則らは織田秀信のこもる岐阜城を落としたが、三成の腹心・島左近と宇喜多家の軍師・明石全登(あかし・てるずみ)の奇襲により敗れ、緒戦は一進一退の攻防を繰り広げた。
そして9月15日、局地戦としては世界史的にも類を見ない、両軍あわせ20万とも言われる大軍が関ヶ原で対峙した。
午前8時頃から始まった戦は、序盤こそ高所に陣取り、家康の東軍を包囲するように布陣した三成の西軍が優勢に見えたが、まず三成の軍師・島左近が銃撃により早々と戦線を離脱してしまう。
また家康の外交戦略が功を奏し西軍の右翼の部隊はほとんど動かず、優位に立っていたはずの布陣も意味をなさなくなった。
正午頃、それまで様子見に徹していた、西軍で最大の兵力を持つ小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が東軍に寝返ると、右翼の部隊も次々とそれに準じ、西軍は総崩れとなった。
孤立した西軍の島津義弘が敵中突破で退却を図った際に、本陣近くまで迫られたものの、それ以外は危なげない勝利であった。
戦後すぐに石田三成ら西軍の主だった将は捕らえられ、処刑された。
西軍に加担した諸大名はことごとく処罰され、代わって東軍の諸大名は各地に所領を与えられた。これにより家康の息のかかった者が全国の要所に配置されたこととなる。
豊臣秀頼、淀君に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」と処罰や減封はなかったものの、豊臣家の直轄地を取り上げられたため、わずか3ヶ国65万石の一大名に落ち、関ヶ原の戦いから3年後の1603年には征夷大将軍を与えられ、家康が実質的な天下人の座についた。
1605年、家康は将軍職を徳川秀忠に譲ったが、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として依然、実権は掌握していた。
豊臣家は没落したものの、まだまだ秀吉の威光は生きており、忠誠を誓う者は多かった。
家康もその影響力を無視できず、水面下でのつばぜり合いは続いており、晩年になると豊臣家の存在は最後の心残りとなっていた。
また将軍・徳川秀忠と弟の松平忠輝(まつだいら・ただてる)の仲は険悪であり、松平忠輝の義父・伊達政宗はいまだ天下取りの野心を抱き、不安材料となっていた。
徳川秀忠の跡取りも不透明であり、もし豊臣家、伊達政宗、後継者問題の3つの懸念材料が絡みあったとしたら、徳川家の天下も安泰ではなかった。
はじめは家康も孫の千姫(せんひめ)を豊臣秀頼に嫁がせるなど懐柔策を取っていたが、家康を警戒する豊臣家は積極的に浪人を雇い入れ、武力を増強した。
秀吉の養子だった結城秀康、豊臣恩顧の大名である加藤清正(かとう・きよまさ)、堀尾吉晴(ほりお・よしはる)、浅野長政(あさの・ながまさ)、池田輝政(いけだ・てるまさ)らが没すると、豊臣家はますます孤立していった。
そして1614年、豊臣家が方広寺に寄進した鐘に書かれた「国家安康」の文字が家康の名前を分断しているとして、大問題となった。
豊臣家からは片桐且元(かたぎり・かつもと)が弁明を試みたが家康は面会すら拒否し追い返した。
片桐且元は豊臣秀頼の大坂城退去を勧めたが、逆に秀頼は家康との内通を疑い片桐且元を追放してしまった。
11月、家康は豊臣家に宣戦布告し大坂城を包囲した。(大阪冬の陣)
秀吉自ら手がけた天下の名城を力攻めすることは避け、城外の砦を次々と落としたが、真田丸にこもった真田幸村には大敗を喫した。
すると家康は、夜間に2時間おきに鬨の声と大砲射撃を交互に行わせ、淀君ら女官を心理的に追い込む策をとった。
これが当たり、淀君は和睦を申し出た。家康は大坂城の堀を埋め立て、二の丸・三の丸を破壊することを条件に受け入れ、大坂城は本丸だけを残し裸同然となった。
翌1615年、豊臣家では主戦派と穏健派が対立し、主戦派は埋め立てられた大坂城の堀を掘り返す強硬策に出た。
家康はすぐさま豊臣家が戦争の準備をしていると詰問し、浪人の追放と移封を命じた。
これを拒絶されると再び大坂城に15万もの大軍を進めた。(大阪夏の陣)
豊臣家は先制攻撃を仕掛けたが兵力の差は圧倒的で、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)、塙直之(はなわ・なおゆき)、木村重成(きむら・しげなり)、薄田兼相(すすきだ・かねすけ)ら猛将を一気に失った。
しかし徳川軍は大軍ゆえに連携がうまくとれず、その間隙をついて真田幸村に家康の本陣まで突入され、毛利勝永(もうり・かつなが)には6万もの旗本が一時は撃退された。
家康も切腹を覚悟したがなんとか踏みとどまると、次第に形勢は逆転し、真田幸村も討ち取られた。
大坂城は落城、千姫は解放されたが豊臣秀頼、淀君、毛利勝永らは自害し、かくて豊臣家は滅亡した。
同年、家康は武家諸法度と一国一城令を制定し、全国支配を成し遂げ、徳川幕府264年の天下の礎を築いた。
そして翌1616年、鷹狩りに出た先で倒れ、そのまま病床に伏すと4月に没した。75歳だった。
タイの天ぷらによる食中毒と広く知られているが、天ぷらを食べたのは1月であり、食中毒が死因としては時間が空きすぎており、現在では胃ガンが死因だと考えられている。
家康は遺訓として「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、 心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久のもと、怒りは敵と思え。 勝事ばかり知りて、負ける事をしらざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな。 及ばざるは過ぎたるより勝れり」と残し、特にはじめの一節は非常に著名である。
~家康の人物像~
剣術、馬術、弓術、砲術、水術など多くの武芸を師匠について学び、一流の腕を持っていた。
特に剣術には熱心で柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)、小野忠明(おの・ただあき)ら剣豪を指南役として召し抱え、息子の徳川秀忠にも学ばせた。
しかし家康自身は「家臣が周囲にいるのだから、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を斬る剣術は不要である」と言っている。
俗に言う健康オタクで、自ら薬を調合し服用していた。そのため家康の葬られた東照宮には薬師如来が祀られている。鷹狩りを好み生涯を通じて適度な運動を欠かさず、一方で食事は出世後も貧窮していた頃と同じ質素なものだったという。様々な武芸も健康のためにたしなんでいた節もある。
しかし徳川家代々の将軍は早死にした者が多く、一説によるとあまりに質素すぎる食事で栄養が不足したとも言われている。
非常に多趣味で、特に碁は自らでたしなむのみならず、家元を保護したため現在も囲碁殿堂に顕彰されている。
織田信長と同様に南蛮趣味もあり、関ヶ原の戦いには南蛮具足を着込んで臨み、家臣にも下賜していた。
読書、能、書道、絵画も好みそのいずれもが一定以上の力量を備えていたが、茶の湯だけは好まなかったようで、多くの名物が周りに集まっていたが、自身は質素なものしか用いず、豊臣秀吉のように大々的に茶会を催すこともなかった。
並外れた倹約家で、フンドシは汚れが目立たないように薄黄色のものを用い、洗濯の回数を減らした。
決算の報告は代官から直接聞き、貫目単位までの大金は蔵に納め、匁・分単位の余りだけを私用に使った。
家臣が座敷で相撲をとっていると、傷まないように畳を裏返らせた。
馬小屋が壊れると、そのほうが丈夫な馬が育つと直させなかった。
漬物の味を薄くさせ、ご飯のおかわりを減らした。
などなど倹約どころか吝嗇と言って差し支えない逸話が数多くあり、その甲斐あって莫大な遺産を遺している。
織田信長、豊臣秀吉の成功と失敗を間近で観察し、長く耐え忍ぶ日々を送った家康は、二人の先駆者をあるいは手本に、あるいは反面教師として学び、ついに江戸幕府の繁栄を築き上げた。
今川家の没落、武田信玄の急死、当時としては稀な長寿など幸運に恵まれた面もあったが、それも家康が耐えに耐え忍んだがために、好機がめぐってきたと考えられよう。
遺訓に「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし」とあるように、着実に一歩ずつ天下人への道を歩んだ家康は、やはり戦国一の大人物だろう。
松平家の譜代の家に生まれる。幼い頃の徳川家康が今川家の人質となった際に同行した家臣の中で最も年長だった。
1560年、今川義元が桶狭間で敗死し、家康が今川家より独立して以来、忠次は常に重んじられた。
1563年、三河一向一揆の際には酒井家のほとんどが一揆に加担したが、忠次だけは家康に従った。翌年には吉田城を与えられ、東三河の国衆を統括する立場となり、武田家や織田家との交渉も担当した。
姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど徳川家の主要な戦のことごとくに参戦し、特に長篠の戦いでは別働隊を率いて武田軍の背後に回り、勝利のきっかけを作り織田信長には「背に目を持つごとし」と激賞された。
だが1579年、信長から家康の嫡男・松平信康(まつだいら・のぶやす)の素行について詰問された際、うまく弁護できず信康とその母に死を命じられてしまう失態を演じた。
そのため後年、次代になって酒井家は他の徳川四天王と比べ低い石高しか与えられず、忠次がそれに対して不満を述べると、家康に「お前も息子がかわいいのか」と皮肉られたという逸話が知られるが、近年になって信康の切腹は忠次の失態や信長の意向ではなく、家康と信康の確執が原因であるという説が有力になり、俗説の域を出ない。
1582年、信長が本能寺で斃れると忠次は空白地帯となった信濃・甲斐の掌握を狙うが、信濃国衆の抵抗にあい失敗した。
だが1585年に、忠次に並ぶ重臣だった石川数正(いしかわ・かずまさ)が豊臣秀吉のもとへ出奔すると、忠次はますます重用された。
1588年には息子の酒井家次(さかい・いえつぐ)に家督を譲って京で隠棲し、そのまま三河に帰ることなく1596年、70歳で没した。
その後も酒井家は譜代の大名の筆頭格として、紆余曲折ありながらも幕末まで長らえた。
~海老すくい~
忠次の特技として「海老すくい」がよく知られている。
これは忠次独自の滑稽な踊りとされ、徳川家の筆頭家老である大身でありながら大真面目に演じることで、なおさら周囲の者の笑いを誘ったというが、どのような踊りだったか詳細はわかっておらず、創作などでは作者によって解釈がまちまちである。
その後、大久保忠世(おおくぼ・ただよ)の取り成しで家康のもとへ帰参した。これも時期が定かではないが、早ければ姉川の戦い(1570年)の頃か、遅くとも本能寺の変(1582年)の前と思われる。
本能寺の変に際しては、堺に孤立した家康に同行していたとされるが、確かな記録には残っていない。
家康一行が無事に三河へ戻ると、正信は武田家の残党を参集させ、信濃と甲斐を統治した。
1598年、豊臣秀吉が死去した頃から正信は家康の軍師格として辣腕をふるいだす。
前田利長(まえだ・としなが)への謀略など、家康が放った策の大半は正信によるものだという。
1600年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の参謀を務めたが、信濃で真田昌幸(さなだ・まさゆき)・真田幸村の抵抗にあい、本戦に間に合わなかった。この時、正信は真田家との戦闘を回避するよう進言したが容れられなかったという。
このことがあってか、後に家康の後継者問題が持ち上がった時には、正信は秀忠ではなく結城秀康(ゆうき・ひでやす)を支持している。
関ヶ原で勝利した家康が覇権を握ると、正信はさらに頭角を現していく。策謀により本願寺の内紛に乗じて東西に分裂させ、江戸幕府が開かれると幕政の中心人物となった。
だが武断派には忌み嫌われ、同族の本多忠勝からは「腰抜け」「同じ本多一族でもあいつは別」と、徳川四天王に数えられる榊原康政(さかきばら・やすまさ)からは「はらわたの腐った奴」と罵られ、かつての豊臣政権での石田三成と武断派の確執のように、激しい権力闘争が繰り広げられた。
しかしその手の暗闘では正信に一日の長があり、大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)事件で権勢をほしいままにした大久保派を一掃し、最大の政敵だった大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)をも失脚させた。(ちなみに忠隣は正信を家康のもとへ帰参させてくれた大久保忠世の息子である)
大坂の陣の頃には老齢のため起居もままならなかったが、それでも衰えぬ頭脳で多くの献策をして、家康を助けた。
1616年4月、家康が没するとようやく家督を息子の本多正純(ほんだ・まさずみ)に譲り、わずか2ヶ月後、家康の後を追うように79歳で亡くなった。
家康からは家臣ではなく友と呼ばれるほどの間柄で、正信の言葉が余人には伝わらなくても、家康にだけ伝わることがたびたびあったという。それでいて石高はわずか2万2千石に過ぎなかった。
だがこれは秀吉が黒田官兵衛の才知を警戒して多くの石高を与えなかったのとは異なり、正信が嫡子の本多正純に「3万石までは受けてもいいが、それ以上の石高は辞退しろ。さもなくば身を滅ぼす」と言い遺し、徳川秀忠にも「私の奉公をお忘れなく、本多家の存続を願ってくれるなら、これ以上の石高は与えないで欲しい」と頼んでいたように、自ら断りを入れていたと思われる。
しかし本多正純は家督を継ぐと15万5千石への加増を受け入れ、後に「宇都宮釣り天井事件」で徳川秀忠の暗殺疑惑をかけられ、失脚を余儀なくされたのだった。
1582年、本能寺の変で信長が討たれると、官兵衛はそのまま秀吉の天下獲りに従い、長政も戦に参陣するようになった。
数々の戦で功を立て、1587年には父子あわせて12万石を豊前に与えられた。
しかし豊前の国人衆は従わず、当地を治めていた城井鎮房(きい・しげふさ)も転封に応じず反乱の兵を挙げた。
城井軍のゲリラ戦に苦しめられた官兵衛は、鎮房の13歳の娘・鶴姫(つる)を人質とすることを条件に和睦を持ちかけた。そして酒宴の席で鎮房を殺すと、その父子と重臣も立て続けに暗殺し、鶴姫も処刑し一気に反乱を鎮圧した。
1589年、官兵衛が隠居し長政に家督を譲る。
1592年からの朝鮮出兵では長政は三番隊を率い、一番隊の小西行長(こにし・ゆきなが)、二番隊の加藤清正らとは別ルートの先鋒を務めた。
黒田軍は長政も負傷するほどの奮戦ぶりで快進撃を続けたが、日本軍全体の兵糧不足から戦線は膠着した。
一度は和睦が結ばれかけたが1596年、交渉決裂し再出兵となる。
黒田軍はこの時も奮戦したが、次第に戦線は膠着し、秀吉の死去によって1598年、全軍撤退した。
秀吉の死後、石田三成ら文官と長政ら武官の対立が激化する中、長政は徳川家康に接近し、正室に迎えていた秀吉の重臣・蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)の娘を離縁すると、家康の養女をめとった。
1599年の石田三成襲撃事件にも加わり、1600年の関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍の主力として奮闘した。
長政の活躍は目覚ましく、三成の軍師・島左近を戦闘不能に追い込んだ他、本戦に先立って小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)や吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の調略を担当し、小早川軍は寝返らせ、吉川軍も戦闘放棄させた(吉川軍が動かなかったことで、間接的に毛利軍の参戦も封じた)ため、家康は長政を戦功第一と激賞し、筑前に52万石(実質100万石とも言われる)もの領地と、子々孫々まで黒田家の罪を免除するお墨付きまで与えた。
一方、戦後に捕らえられ、晒し者にされた石田三成に誰もが侮蔑の言葉を浴びせる中、長政と藤堂高虎(とうどう・たかとら)だけが下馬して礼を尽くし、長政は着ていた羽織を三成にかぶせ、縛られた縄を隠してやったという。
1614年、大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、翌年の大坂夏の陣では主力として参戦。
1623年、56歳で死去した。
~父・官兵衛との逸話~
長政は決断の早い父とは逆に熟慮する性格で、それを優柔不断と見た官兵衛は「自分はかつて小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に決断が早過ぎるから慎重にせよと言われたが、お前はその逆だ」とさとしたという。
長政はその影響から「異見会」という身分の上下を問わず広く意見を求める場を設けた。
官兵衛は隠居に先立ちわざと家臣に冷淡な態度を取り、長政の相続を円滑に進めようとしたが、いざ長政の代になると後藤又兵衛(ごとう・またべえ)ら多くの家臣が黒田家を離れた。
性格だけではなく策士の父と武断派の長政では家臣への扱いも大きく異なったのだろう。
関ヶ原の戦い後、長政は父に「家康公は私の右手を握り感謝してくれた」と報告すると、官兵衛はにべもなく「その時お前の左手は何をしていた」と返したという。
国許にいた官兵衛は、九州を統一せんばかりの勢いで快進撃を続けており、関ヶ原の戦いが長引けば、四国や中国地方へと攻め上がる腹積もりだった。
ところが長政は奮闘して半日足らずで関ヶ原の本戦を終わらせてしまい、官兵衛の野望は途絶えた。せめて家康に手を握られた時、空いている左手で家康を刺せば、まだ乱世は続いていたろうにという皮肉である。
また偉大な軍師である父に対して屈折な思いもあったようで、長政の4歳の息子に、重臣の母里友信(もり・とものぶ)が「父以上の功名を挙げなさい」と言ったところ、長政は「父以上とは何事だ」と激怒し、母里友信を殺そうとしたという話もある。
1576年、流浪の末に羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(はしば・ひでなが)に仕える。ようやく仕えるべき主君にめぐり会えた高虎は鉄砲大将を任され、賤ヶ岳の戦いでは銃撃で猛将・佐久間盛政(さくま・もりまさ)を敗走させ勝利のきっかけを作った。
1585年の紀州征伐では山本主膳(やまもと・しゅぜん)を討ち取り、鈴木佐太夫(すずき・さだゆう)を謀略で自害させた。この頃から築城も任され、後に築城の名手として加藤清正と並び称される。
翌年、秀吉から徳川家康の屋敷の設計を命じられると、警備上の不備があるとして自腹を切り独断で設計を変更した。家康に設計図と異なることを尋ねられると「天下の武将である徳川様に不慮があれば秀吉の面目に関わると考え、一存で変更しました。ご不満でしたらお手討ちください」と応じたため、家康は心遣いに感激した。
1587年の九州征伐では歌に残されるほどの厳格な処罰で臨み、ますます信任を深めたが1591年、主君の秀長が没してしまう。
跡を継いだ甥の豊臣秀保(とよとみ・ひでやす)に引き続き仕えるも、4年後に秀保も病没。高虎は出家して高野山に隠退したが、才を惜しんだ秀吉は生駒親正(いこま・ちかまさ)を派遣し伊予7万石への加増で復帰させた。
1597年からの慶長の役では水軍を率い、朝鮮水軍を壊滅した。一方で加藤嘉明(かとう・よしあき)と先陣を争いたびたび対立し犬猿の仲となった。
だが後年、徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)から東北勢への睨みを利かせるため会津への転封(石高は倍増となる)を持ちかけられると、老齢のため固辞し、代わりに加藤嘉明を推挙した。嘉明との確執を知っていた秀忠がいぶかると、「国家の大事の前には私事など無用」と答え、それを伝え聞いた嘉明は高虎と和解した。
1598年、秀吉が没すると高虎は親交のあった家康にいち早く接近した。
翌年の関ヶ原の戦いでは脇坂安治(わきさか・やすはる)、小川祐忠(おがわ・すけただ)、朽木元綱(くつき・もとつな)、赤座直保(あかざ・なおやす)ら四大名を寝返らせ、自らも主力の一角として大谷吉継(おおたに・よしつぐ)と死闘を演じ、戦後には20万石に加増された。
家康には絶大な信頼を受け、先鋒は譜代は井伊家、外様は藤堂家と定められ、譜代大名と同格の扱いを受けた。
ある時、高虎は自分の死後に殉死するつもりの家臣に名乗り出るよう命じると、70人が手を上げた。高虎は70人の名を家康に告げ「藤堂家はもちろん徳川家のために命を惜しまない彼らの殉死を上意で止めて欲しい」と頼み、家康も了承した。
さらに高虎は嫡子が頼りないことから、自分の死後に領地を要衝の伊勢から別に移すよう願い出た。しかし家康は「お前の死後には殉死を止めた者達がいるだろう。そのような忠臣が代々いれば安心だ」とかえって藤堂家は末代まで伊勢から動かさないよう命じたという。
1614年からの大坂の陣では長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)や毛利勝永(もうり・かつなが)ら主力と激突し、一族の将ら600人を超える死傷者を出した。
1616年、家康が臨終の床につくと高虎は側近くにはべることを許された。家康が「宗派が違うから死後には会えないな」と言うと、高虎は南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)に頼み即座に改宗した。
家康没後には築城の才を活かし日光東照宮の造営にも携わった。1620年、徳川秀忠の五女が入内する際に高虎は自ら志願して露払いを務め「入内できなければ御所で切腹する」と脅迫同然の手段で事を進めた。
1630年、75歳で死去。
主君を七度変えたことから奸臣として描かれることも多いが、そもそも戦国時代には主君を変えることは珍しくなく、江戸時代になり儒教が広まり一人の主君に仕える忠義の概念が取り入れられたのであり、また外様でありながら家康に深く信頼されたこと、幕末に藤堂家が早々と官軍に寝返ったことも悪影響を与えているだろう。
高虎はかつて仕えた浅井長政に拝領した刀を愛用し、津田信澄の死後にはその妻子を保護し、羽柴秀長の墓所を修繕したり、関ヶ原で戦った大谷吉継の墓も造っている。
また家臣が出て行く時にはいつでも帰ってくるよう言い、実際に出戻ってくるともとの禄のまま召抱えたという。
1584年、小牧・長久手の戦いでは主力を率い池田勝入(いけだ・しょうにゅう)と森長可(もり・ながよし)を討ち取り、さらに達筆だったことから羽柴秀吉が織田家を乗っ取ろうとすることを非難する檄文を書いた。
激怒した秀吉は康政の首に10万石の賞金をかけたと言われるが、一方で実力を認められ、家康と秀吉が和睦する際には京への使者を務めた。
1590年、家康が関東に移封されると関東総奉行として政治全般に携わり、本多忠勝に並ぶ家中第2位の10万石を与えられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の軍監として中山道を進んだが、真田昌幸(さなだ・まさゆき)、幸村父子の上田城で足止めされ、本戦に間に合わなかった。康政は城攻めの中止を進言し、さらに激怒した家康と秀忠の間を取りなしたとされる。
戦後、康政は老中となるが所領の加増は無かった。これには諸説あり、家康との不仲説や、本多正信(ほんだ・まさのぶ)が老中の首座についていたことから「老臣が権力を争うのは亡国の兆し」と康政が自ら遠慮したという説がある。
また移封のうえ加増を提案されたものの関ヶ原での軍功が無く、江戸城から遠く参勤しづらいことを理由に断ったとの説もあり、家康は康政の態度に感銘を受け、康政に借りがあることを神に誓う証文を与えたという。
1606年、59歳で死去。徳川秀忠は康政を見舞うために多くの家臣や医師を派遣したという。
長男が妻の実家である大須賀家を継いでおり、次男はすでに亡くなっていたため三男の榊原康勝(さかきばら・やすかつ)が家督を継いだ。
だが康勝も26歳で没してしまい、榊原家は断絶の危機に立たされたが、家康は康政の血が途絶えるのを惜しみ、長男・大須賀忠政(おおすが・ただまさ)の子に榊原家を継がせた。
(ちなみに本当は康勝には庶子がいたものの、榊原家の家老が幼君を立てることを嫌い存在を隠した。後に露見しこの家老らは流刑となった)
その後、8代将軍・徳川吉宗の治世に榊原家の当主は吉原に通いつめるなど、吉宗の倹約令に背いたためその逆鱗に触れた。
あわや取り潰しかと思われたが、榊原家は康政が家康からもらっていた「康政に借りがある」証文を幕府へ差し出した所、石高は据え置きで江戸から遠い越前へ移封という軽い処分で済んだという。