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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―本多正信  家康の懐刀



本多正信(ほんだ・まさのぶ)
三河の人(1538~1616)
 
1538年、本多家の次男として生まれる。はじめは鷹匠として徳川家康に仕えた。桶狭間の戦いで膝を負傷し、足を引きずるようになったという。
 
1563年、三河一向一揆が起こると一揆側に味方し、鎮圧後は出奔して松永久秀に仕えた。久秀からは「剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評価されたが、やがてそこも去り諸国を放浪した。行方はさだかではないが、加賀に渡り石山本願寺とともに織田信長と戦っていたことが有力視されている。

その後、大久保忠世(おおくぼ・ただよ)の取り成しで家康のもとへ帰参した。これも時期が定かではないが、早ければ姉川の戦い(1570年)の頃か、遅くとも本能寺の変(1582年)の前と思われる。
本能寺の変に際しては、堺に孤立した家康に同行していたとされるが、確かな記録には残っていない。
家康一行が無事に三河へ戻ると、正信は武田家の残党を参集させ、信濃と甲斐を統治した。

1598年、豊臣秀吉が死去した頃から正信は家康の軍師格として辣腕をふるいだす。
前田利長(まえだ・としなが)への謀略など、家康が放った策の大半は正信によるものだという。
1600年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の参謀を務めたが、信濃で真田昌幸(さなだ・まさゆき)・真田幸村の抵抗にあい、本戦に間に合わなかった。この時、正信は真田家との戦闘を回避するよう進言したが容れられなかったという。
このことがあってか、後に家康の後継者問題が持ち上がった時には、正信は秀忠ではなく結城秀康(ゆうき・ひでやす)を支持している。

関ヶ原で勝利した家康が覇権を握ると、正信はさらに頭角を現していく。策謀により本願寺の内紛に乗じて東西に分裂させ、江戸幕府が開かれると幕政の中心人物となった。
だが武断派には忌み嫌われ、同族の本多忠勝からは「腰抜け」「同じ本多一族でもあいつは別」と、徳川四天王に数えられる榊原康政(さかきばら・やすまさ)からは「はらわたの腐った奴」と罵られ、かつての豊臣政権での石田三成と武断派の確執のように、激しい権力闘争が繰り広げられた。
しかしその手の暗闘では正信に一日の長があり、大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)事件で権勢をほしいままにした大久保派を一掃し、最大の政敵だった大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)をも失脚させた。(ちなみに忠隣は正信を家康のもとへ帰参させてくれた大久保忠世の息子である)

大坂の陣の頃には老齢のため起居もままならなかったが、それでも衰えぬ頭脳で多くの献策をして、家康を助けた。

1616年4月、家康が没するとようやく家督を息子の本多正純(ほんだ・まさずみ)に譲り、わずか2ヶ月後、家康の後を追うように79歳で亡くなった。

家康からは家臣ではなく友と呼ばれるほどの間柄で、正信の言葉が余人には伝わらなくても、家康にだけ伝わることがたびたびあったという。それでいて石高はわずか2万2千石に過ぎなかった。
だがこれは秀吉が黒田官兵衛の才知を警戒して多くの石高を与えなかったのとは異なり、正信が嫡子の本多正純に「3万石までは受けてもいいが、それ以上の石高は辞退しろ。さもなくば身を滅ぼす」と言い遺し、徳川秀忠にも「私の奉公をお忘れなく、本多家の存続を願ってくれるなら、これ以上の石高は与えないで欲しい」と頼んでいたように、自ら断りを入れていたと思われる。
しかし本多正純は家督を継ぐと15万5千石への加増を受け入れ、後に「宇都宮釣り天井事件」で徳川秀忠の暗殺疑惑をかけられ、失脚を余儀なくされたのだった。

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