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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―酒井忠次  徳川家の柱石



酒井忠次(さかい・ただつぐ)
三河の人(1527~1596)

徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされる徳川家の重臣中の重臣。
家康の16歳上で、義理の叔父にも当たる。

松平家の譜代の家に生まれる。幼い頃の徳川家康が今川家の人質となった際に同行した家臣の中で最も年長だった。
1560年、今川義元が桶狭間で敗死し、家康が今川家より独立して以来、忠次は常に重んじられた。
1563年、三河一向一揆の際には酒井家のほとんどが一揆に加担したが、忠次だけは家康に従った。翌年には吉田城を与えられ、東三河の国衆を統括する立場となり、武田家や織田家との交渉も担当した。
姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど徳川家の主要な戦のことごとくに参戦し、特に長篠の戦いでは別働隊を率いて武田軍の背後に回り、勝利のきっかけを作り織田信長には「背に目を持つごとし」と激賞された。

だが1579年、信長から家康の嫡男・松平信康(まつだいら・のぶやす)の素行について詰問された際、うまく弁護できず信康とその母に死を命じられてしまう失態を演じた。
そのため後年、次代になって酒井家は他の徳川四天王と比べ低い石高しか与えられず、忠次がそれに対して不満を述べると、家康に「お前も息子がかわいいのか」と皮肉られたという逸話が知られるが、近年になって信康の切腹は忠次の失態や信長の意向ではなく、家康と信康の確執が原因であるという説が有力になり、俗説の域を出ない。

1582年、信長が本能寺で斃れると忠次は空白地帯となった信濃・甲斐の掌握を狙うが、信濃国衆の抵抗にあい失敗した。
だが1585年に、忠次に並ぶ重臣だった石川数正(いしかわ・かずまさ)が豊臣秀吉のもとへ出奔すると、忠次はますます重用された。

1588年には息子の酒井家次(さかい・いえつぐ)に家督を譲って京で隠棲し、そのまま三河に帰ることなく1596年、70歳で没した。
その後も酒井家は譜代の大名の筆頭格として、紆余曲折ありながらも幕末まで長らえた。


~海老すくい~
忠次の特技として「海老すくい」がよく知られている。
これは忠次独自の滑稽な踊りとされ、徳川家の筆頭家老である大身でありながら大真面目に演じることで、なおさら周囲の者の笑いを誘ったというが、どのような踊りだったか詳細はわかっておらず、創作などでは作者によって解釈がまちまちである。

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