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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―高山右近  戦国ひとり十字軍

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戦国列伝―高山右近  戦国ひとり十字軍



高山右近(たかやま・うこん)
摂津の人(1552~1615)

右近は通称で官位は右近より上位のものを受けている。本名は重友(しげとも)、友祥(ともなが)、長房(ながふさ)と諸説あり判然としない。
戦国時代の代表的なキリシタン大名で、洗礼名ジュストは「正義の人」という意味である。


1552年、三好家に仕える高山友照(ともてる)の嫡子として生まれる。早くも12歳にして父や家臣とともに洗礼を受けキリシタンとなった。
1568年、織田信長の後援を受けた将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は、三好三人衆や松永久秀の暗躍で衰退していた三好家に対し、家臣の和田惟政(わだ・これまさ)を摂津へ送り、当地の領主である池田家、伊丹家とともに分割統治させる強硬策に打って出た。
高山家は和田惟政に仕えることとなったが、間もなく池田家の荒木村重(あらき・むらしげ)、中川清秀(なかがわ・きよひで)に攻められて和田惟政は戦死。さらに荒木村重が池田家を乗っ取り、信長に「摂津の切り取り自由」の許諾を得ると、伊丹家も滅ぼしてしまった。

高山家は引き続き和田家に仕えていたが、跡継ぎの和田惟政の息子・和田惟長(わだ・これなが)は後見人の叔父を殺し、さらに右近と父を暗殺しようとした。その企みを密告された右近らが荒木村重に密かに相談すると「殺される前に殺してしまえ。和田惟長を殺してくれたらその所領を分け与える」との助言を受けた。

そして1573年、高山父子は和田惟長に城へ招かれた。惟長の兵に襲われるも、警戒していた右近らは激しく抵抗。乱闘のさなかに燭台が倒され、部屋は夜の闇に包まれてしまうが、右近は灯りが消える前に惟長が床の間にいるのを見ていたため、すかさず床の間に突進し惟長を斬り伏せた。だが直後に高山家の家臣が誤って右近を斬ってしまい、首を半分ほど切断される重傷を負った。
致命傷かと思われたが右近は奇跡的に一命を取りとめ、それを神の慈悲だと感じ一層キリスト教に傾倒していくこととなった。
その後、高山家は約定通り荒木村重の家臣となった。父の高山友照(たかやま・ともてる)は家督を右近に譲り、キリスト教の布教に専念した。

1578年、荒木村重が突如として信長に反旗を翻した。
信長はまず要害にある高山家の居城を落とそうと、右近に降伏を迫った。右近は金や地位では動かないと考え「降らなければ畿内のキリシタンを皆殺しにし教会も全て壊す」と脅すと、高山家は徹底抗戦を主張する友照派と、降伏を主張する派に二分された。板挟みとなった右近は、地位を捨てると単身で信長に降伏した。
右近の降伏で荒木家は動揺し、征伐されたため信長は右近を元の地位に戻し、さらに加増してやった。

1582年、明智光秀は本能寺で信長を暗殺すると、各地に協力を呼びかけた。
外様の右近や中川清秀(右近の従兄である)は特に期待を掛けられたが、中国地方を攻めていた羽柴秀吉が迅速に畿内へ戻ってくると、その先鋒として明智軍を攻撃した。
その後も秀吉に仕え、中川清秀は柴田勝家との戦いで討ち死にしたものの、右近は多くの戦で手柄を立てた。
また人格者で、千利休の七哲(七人の高弟)にも数えられる右近に惹かれ、黒田官兵衛、蒲生氏郷(がもう・うじさと)らもキリシタンとなった。
一方で右近と父・友照は仏教や神道にとっては暴君で、領内の神社仏閣を次々と壊し、神官や僧侶を迫害したとも伝わるが、キリスト教の拡大を恨んだ僧侶らが誇張して記したともされ、詳細はわからない。

1585年、右近は播磨に転封となるが、間もなく秀吉からバテレン追放令が発布される。
黒田官兵衛らは棄教したが、右近は千利休の説得にも耳を貸さず、信仰を選び追放処分を受け入れた。
しばらくは小西行長(こにし・ゆきなが)によって小豆島に匿われ、1588年には前田利家に、建前上は追放処分を受けたまま1万5千石で招かれた。
秀吉に面と向かって反抗した右近を召し抱えられるのは、秀吉の親友で豊臣家の筆頭格の利家だけだったろう。
前田家の金沢城の修築の際には右近の築城技術が大きく貢献し、利家が亡くなると跡を継いだ前田利長(まえだ・としなが)には軍事・政治の両面で頼りにされた。

だが1614年、徳川家康のキリシタン国外追放令により、右近は前田家を去る。
内藤如安(ないとう・じょあん)らとともにマニラへ送られ、日本で活動する宣教師から右近の信仰ぶりを聞いていたスペイン人らに歓迎されたが、長旅と慣れない気候から老齢の右近は病を得て翌年に没した。享年64歳。

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