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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―榊原康政  文武両道



榊原康政(さかきばら・やすまさ)
三河の人(1548~1606)

徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑のいずれにも数えられる重臣。
後世の評価では「本多忠勝に武勇で劣るが指揮能力は勝り井伊直政(いい・なおまさ)に匹敵する」と言われる。
また師について学んだ能筆家で、家康の書状の代筆もたびたびしていた。


若くして徳川家康の小姓に見出され、家康から「康」の一字も与えられた。
本多忠勝とともに常に家康の側近くにあり姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いと主要な戦の全てに参戦した。
特に姉川では側面から朝倉軍を襲撃し勝利のきっかけとなった。1582年、本能寺で織田信長が討たれた際には家康に同行しており、伊賀越えで家康を守った。
榊原家の次男だったが兄を差し置いて家督を継いでおり、兄・榊原清政(さかきばら・きよまさ)が三河一向一揆で一揆方についたからとも、家康の嫡子で謀叛の疑いをかけられ切腹した松平信康(まつだいら・のぶやす)に仕えていたからともされる。
余談だが康政も松平信康に仕えていた折、諫言をはばからなかったため弓を向けられたが、康政が全く動じなかったためかえって信康が気圧され、以降は諫言によく従ったという。

1584年、小牧・長久手の戦いでは主力を率い池田勝入(いけだ・しょうにゅう)と森長可(もり・ながよし)を討ち取り、さらに達筆だったことから羽柴秀吉が織田家を乗っ取ろうとすることを非難する檄文を書いた。
激怒した秀吉は康政の首に10万石の賞金をかけたと言われるが、一方で実力を認められ、家康と秀吉が和睦する際には京への使者を務めた。
1590年、家康が関東に移封されると関東総奉行として政治全般に携わり、本多忠勝に並ぶ家中第2位の10万石を与えられた。

1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の軍監として中山道を進んだが、真田昌幸(さなだ・まさゆき)、幸村父子の上田城で足止めされ、本戦に間に合わなかった。康政は城攻めの中止を進言し、さらに激怒した家康と秀忠の間を取りなしたとされる。
戦後、康政は老中となるが所領の加増は無かった。これには諸説あり、家康との不仲説や、本多正信(ほんだ・まさのぶ)が老中の首座についていたことから「老臣が権力を争うのは亡国の兆し」と康政が自ら遠慮したという説がある。
また移封のうえ加増を提案されたものの関ヶ原での軍功が無く、江戸城から遠く参勤しづらいことを理由に断ったとの説もあり、家康は康政の態度に感銘を受け、康政に借りがあることを神に誓う証文を与えたという。

1606年、59歳で死去。徳川秀忠は康政を見舞うために多くの家臣や医師を派遣したという。
長男が妻の実家である大須賀家を継いでおり、次男はすでに亡くなっていたため三男の榊原康勝(さかきばら・やすかつ)が家督を継いだ。
だが康勝も26歳で没してしまい、榊原家は断絶の危機に立たされたが、家康は康政の血が途絶えるのを惜しみ、長男・大須賀忠政(おおすが・ただまさ)の子に榊原家を継がせた。
(ちなみに本当は康勝には庶子がいたものの、榊原家の家老が幼君を立てることを嫌い存在を隠した。後に露見しこの家老らは流刑となった)

その後、8代将軍・徳川吉宗の治世に榊原家の当主は吉原に通いつめるなど、吉宗の倹約令に背いたためその逆鱗に触れた。
あわや取り潰しかと思われたが、榊原家は康政が家康からもらっていた「康政に借りがある」証文を幕府へ差し出した所、石高は据え置きで江戸から遠い越前へ移封という軽い処分で済んだという。

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