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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―徳川家康  天下人



徳川家康(とくがわ・いえやす)
三河の人(1543~1616)


~経歴~
三河の土豪・松平広忠(まつだいら・ひろただ)の嫡男として岡崎城で生まれる。幼名は竹千代(たけちよ)。
松平家は今川義元に臣従しており、幼少の竹千代は人質として預けられることとなった。だが護送する戸田家が裏切り、竹千代を隣国・尾張の織田信秀(おだ・のぶひで)のもとへ送り届けてしまった。
織田家で2年間を過ごすうちに織田信秀の子・織田信長と親しくなったと思われる。
今川軍によって捕らえられた織田信秀の子との人質交換で今川家に戻ったが、その間に父は家臣の謀反により殺され、岡崎城は今川家に接収されてしまった。
母もすでに実家が織田家に寝返ったせいで離縁されており、竹千代は幼くして両親を失ったこととなる。

元服すると今川義元から一字もらい、松平元康(まつだいら・もとやす)と名乗った。
今川義元の姪をめとり、今川家の軍師・太原雪斎(たいげん・せっさい)から薫陶を受けるなど目をかけられたが、岡崎城は最前線に配置された捨て石にも等しく、また今川家の家臣からも手酷い扱いをされており、忍従の日々を送った。

1560年、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、元康は素早く前線から岡崎城へと帰り、独立を果たした。
2年後には旧友の信長と同盟を結び、さらに名を家康と改めた。
同盟は信長が没するまで続き、両軍はたびたび連合軍を催すなど、この時代には珍しく鉄の結束を保った。
大半の家臣が参加した三河一向一揆に悩まされながらも、1566年には三河統一を成し遂げ、三河守の叙任を受けると、姓も徳川に改め徳川家康となった。

1568年からは今川家に見切りをつけた武田信玄と結び、遠江の攻略にかかった。
今川義元の跡を継いだ今川氏真(いまがわ・うじざね)は軍才に乏しく、遠江、駿河を失い今川家はあえなく滅亡した。
家康は信長の上洛や、浅井長政・朝倉義景(あさくら・よしかげ)連合軍との姉川の戦いに加勢した。
信長と敵対した将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は各地の大名に呼びかけて「信長包囲網」を敷き、家康にも副将軍の地位と引き換えに包囲網に加わるよう促したが、家康はこれを黙殺し、信長との同盟を維持した。

だが武田信玄は包囲網に加わり、信長・家康との同盟を破棄すると、徳川領に侵攻した。
信長はわずかな援軍しか送れず、家康は連敗し浜松城にこもった。しかし武田軍が浜松城を素通りしようとするのを見ると、家臣の反対を押し切って追撃したが、これは武田信玄の罠であり、迎撃されて大敗した。
多くの重臣や信長から送られた将までも失い、影武者に助けられてかろうじて浜松城に逃げ込んだが、恐怖のあまり脱糞していた。
後年、家康はこの時の恐怖に怯える自分の姿を滑稽に描かせ、その肖像画を手元に置いて自らへの戒めとしたという。
勢いに乗る武田軍はこのまま信長との決戦に臨むかと思われたが、武田信玄が急死したため撤退した。
信長包囲網の主力だった武田家の脱落により、信長は反撃に転じると包囲網に加担した大名を一掃した。
家康も信長の大規模な援軍と、当時類を見ないほど多数の鉄砲隊の助力を得て、長篠で武田軍を大破した。
この戦いで武田家は古参の重臣のほとんどを失い、一気に勢力を衰えさせた。

しかし1579年、信長から家康の正室・築山殿(つきやまどの 今川義元の姪)と嫡男・松平信康(まつだいら・のぶやす)に対して、武田家との内通疑惑がかけられた。
家康は釈明に務めたが嫌疑は解けず、信長との同盟維持を優先し、築山殿を殺害し松平信康を切腹させた。
この一件には諸説あり、近年では家康と信康父子との間の仲違いが原因とも言われている。

1582年、織田・徳川連合軍は武田領に侵攻し、武田勝頼(たけだ・かつより)を自害に追い込み武田家を滅亡させた。
家康はその功により駿河を手に入れ、さらに密かに武田家の旧臣を集め、着々と力を蓄えた。
しかし6月2日、信長は本能寺で明智光秀に討たれた。
家康はちょうどその頃、信長に招かれて堺に滞在していた。わずかな配下しかつれておらず、一時は切腹を考えたが、本多忠勝に説得されて翻意すると、服部半蔵の進言により伊賀の険しい山を越えて三河に帰った。その途上に同行していた武田の旧臣・穴山梅雪(あなやま・ばいせつ)が討ち死にしており、家康は九死に一生を得たに等しい。

家康は信長の仇討ちの兵を挙げたが、明智光秀はいちはやく中国地方から帰還した羽柴秀吉によって討たれた。
一方、武田家の旧領・甲斐と信濃では、武田家の旧臣による大規模な一揆が巻き起こり(家康が扇動したという説もある)、さらに越後の上杉家、関東の北条家が信長の死に乗じて侵攻の構えを見せた。
攻略したばかりの甲斐も信濃も治まらず、関東方面を任されていた織田家の滝川一益(たきがわ・かずます)は北条軍に敗れ尾張まで撤退し、河尻秀隆(かわじり・ひでたか)も戦死した。
このため甲斐・信濃・上野は主不在の空白地帯となり、徳川・北条・上杉の三家がこぞって侵攻にかかった。
三つ巴の争いになるかと思われたが、上杉謙信以来、他国への侵略策をとらない上杉家は争いを嫌って帰国し、北信濃の真田昌幸(さなだ・まさゆき)が徳川家につくと、巧みなゲリラ戦法に悩まされた北条家は戦意を喪失し、和睦を申し出た。
それにより甲斐・信濃は徳川家が、上野は北条家が領することで決着した。

信長の死後、織田家では明智光秀を討った秀吉が台頭し、信長の嫡孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を当主に据えて傀儡政権を樹立した。
最大の対抗馬だった柴田勝家も秀吉に敗死すると、不満を抱いた信長の次男・織田信雄(おだ・のぶかつ)は家康とともに打倒秀吉の兵を挙げた。
小牧・長久手の戦いで池田勝入(いけだ・しょうにゅう)、森長可(もり・ながよし)を討ち取ったものの、秀吉軍の兵力は圧倒的であり、恐れをなした織田信雄が勝手に和睦を結んでしまったため、大義名分を失った家康も秀吉と和睦した。

家康は次男・秀康(ひでやす)を秀吉の養子として差し出したが、徳川家の内部では秀吉に対する姿勢の相違から争いが生じ、最古参の重臣・石川数正(いしかわ・かずまさ)は秀吉のもとに出奔してしまった。
これにより徳川家の機密が秀吉に筒抜けとなったため、家康は軍制を改め武田信玄の戦法を踏襲するようになった。
さらに北信濃の真田昌幸が上杉家(秀吉方)に寝返ってしまうと、家康は秀吉自らの説得により臣従を受け入れ、秀吉の妹・朝日姫(あさひひめ)を正室に迎え入れ、再び忍従の日々を強いられることとなる。

1590年、最後に残った関東の北条家も滅ぼされ、豊臣秀吉による天下統一が成された。
家康は秀吉の命によりこれまで領していた三河など5ヶ国150万石に代わって、北条家の旧領・相模など8ヶ国250万石に転封させられた。
見かけ上の石高は跳ね上がったものの、故郷の三河を失い、まだまだ未開の関東一帯には北条家の残党が跋扈し、さらに北条家の非常に低い税率を踏襲せざるを得ず、国力は著しく低下した。
しかし家康は小田原城ではなく江戸城に拠点を据えると、順調に開発を進め、今日の首都東京(江戸)の発展に大きく寄与した。

1592年からの朝鮮出兵には、関東の多くの諸大名と同じく派兵は見送られ、戦力・財力の損耗は避けられた。
秀吉が病に倒れると、五大老の筆頭に任じられ、遺児の豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)が成人するまで後見役となるよう、くり返し頼まれた。
しかし秀吉が亡くなるや暗躍を始め、禁じられていた諸大名との婚姻を推し進め、徐々に味方を増やしていった。
こうした動きに前田利家や石田三成が反発し、一度は婚姻禁止の誓約書を出したものの、前田利家が亡くなり、石田三成もまた武断派と対立して失脚すると、再び婚姻を再開した。
家康は石田三成と武断派の間を仲裁して、武断派とわたりをつけると、暗殺未遂の嫌疑をかけ、豊臣家の中枢に位置する浅野長政(あさの・ながまさ)、大野治長(おおの・はるなが)、土方雄久(ひじかた・かつひさ)らを次々と追放し、前田利家の跡を継いだ前田利長(まえだ・としなが)も兵力を盾に降伏させた。
さらに後見役の座を利用し、豊臣秀頼の名をもって諸大名に加増を行い、島津義久(しまづ・よしひさ)、細川忠興(ほそかわ・ただおき)らも味方に引き込んだ。

1600年、会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の家臣が出奔し、上杉家に謀反の兆しがあると家康に注進した。
家康が問責の使者を送ると、上杉家の重臣・直江兼続は「直江状」として名高い挑発的な返書を送り、激怒した家康は全国に号令を掛け、会津征伐の兵を挙げた。
すると石田三成は、家康を挟撃する好機として、大坂城を占拠し、打倒家康のため決起した。
一説によると、家康は豊臣家でも最たる不穏分子の石田三成の挙兵を誘うために、わざと会津征伐に乗り出したと言われるが、真偽は定かではない。

三成は毛利輝元(もうり・てるもと)を総大将に据え、会津征伐に加わろうとする西国の大名を関所で足止めして味方に引き込むと、伏見城を攻め落とし、徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)の首を上げた。
三成挙兵の一報を受けた家康は会津征伐に向かう兵をつれすぐさま反転した。
次男・結城秀康(ゆうき・ひでやす)を上杉家への備えとして残し、三男・徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)には軍師の本多正信(ほんだ・まさのぶ)をつけて中山道を、福島正則(ふくしま・まさのり)には東海道を進ませ、自身は江戸城に戻ると常陸の佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)ににらみを利かせつつ、全国の諸大名に書状を送り外交戦を展開した。
しかし徳川秀忠の部隊は北信濃で真田昌幸・真田幸村父子に足止めされてしまう。
一方、先行する福島正則らは織田秀信のこもる岐阜城を落としたが、三成の腹心・島左近と宇喜多家の軍師・明石全登(あかし・てるずみ)の奇襲により敗れ、緒戦は一進一退の攻防を繰り広げた。

そして9月15日、局地戦としては世界史的にも類を見ない、両軍あわせ20万とも言われる大軍が関ヶ原で対峙した。
午前8時頃から始まった戦は、序盤こそ高所に陣取り、家康の東軍を包囲するように布陣した三成の西軍が優勢に見えたが、まず三成の軍師・島左近が銃撃により早々と戦線を離脱してしまう。
また家康の外交戦略が功を奏し西軍の右翼の部隊はほとんど動かず、優位に立っていたはずの布陣も意味をなさなくなった。
正午頃、それまで様子見に徹していた、西軍で最大の兵力を持つ小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が東軍に寝返ると、右翼の部隊も次々とそれに準じ、西軍は総崩れとなった。
孤立した西軍の島津義弘が敵中突破で退却を図った際に、本陣近くまで迫られたものの、それ以外は危なげない勝利であった。

戦後すぐに石田三成ら西軍の主だった将は捕らえられ、処刑された。
西軍に加担した諸大名はことごとく処罰され、代わって東軍の諸大名は各地に所領を与えられた。これにより家康の息のかかった者が全国の要所に配置されたこととなる。
豊臣秀頼、淀君に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」と処罰や減封はなかったものの、豊臣家の直轄地を取り上げられたため、わずか3ヶ国65万石の一大名に落ち、関ヶ原の戦いから3年後の1603年には征夷大将軍を与えられ、家康が実質的な天下人の座についた。

1605年、家康は将軍職を徳川秀忠に譲ったが、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として依然、実権は掌握していた。
豊臣家は没落したものの、まだまだ秀吉の威光は生きており、忠誠を誓う者は多かった。
家康もその影響力を無視できず、水面下でのつばぜり合いは続いており、晩年になると豊臣家の存在は最後の心残りとなっていた。
また将軍・徳川秀忠と弟の松平忠輝(まつだいら・ただてる)の仲は険悪であり、松平忠輝の義父・伊達政宗はいまだ天下取りの野心を抱き、不安材料となっていた。
徳川秀忠の跡取りも不透明であり、もし豊臣家、伊達政宗、後継者問題の3つの懸念材料が絡みあったとしたら、徳川家の天下も安泰ではなかった。

はじめは家康も孫の千姫(せんひめ)を豊臣秀頼に嫁がせるなど懐柔策を取っていたが、家康を警戒する豊臣家は積極的に浪人を雇い入れ、武力を増強した。
秀吉の養子だった結城秀康、豊臣恩顧の大名である加藤清正(かとう・きよまさ)、堀尾吉晴(ほりお・よしはる)、浅野長政(あさの・ながまさ)、池田輝政(いけだ・てるまさ)らが没すると、豊臣家はますます孤立していった。
そして1614年、豊臣家が方広寺に寄進した鐘に書かれた「国家安康」の文字が家康の名前を分断しているとして、大問題となった。
豊臣家からは片桐且元(かたぎり・かつもと)が弁明を試みたが家康は面会すら拒否し追い返した。
片桐且元は豊臣秀頼の大坂城退去を勧めたが、逆に秀頼は家康との内通を疑い片桐且元を追放してしまった。

11月、家康は豊臣家に宣戦布告し大坂城を包囲した。(大阪冬の陣)
秀吉自ら手がけた天下の名城を力攻めすることは避け、城外の砦を次々と落としたが、真田丸にこもった真田幸村には大敗を喫した。
すると家康は、夜間に2時間おきに鬨の声と大砲射撃を交互に行わせ、淀君ら女官を心理的に追い込む策をとった。
これが当たり、淀君は和睦を申し出た。家康は大坂城の堀を埋め立て、二の丸・三の丸を破壊することを条件に受け入れ、大坂城は本丸だけを残し裸同然となった。

翌1615年、豊臣家では主戦派と穏健派が対立し、主戦派は埋め立てられた大坂城の堀を掘り返す強硬策に出た。
家康はすぐさま豊臣家が戦争の準備をしていると詰問し、浪人の追放と移封を命じた。
これを拒絶されると再び大坂城に15万もの大軍を進めた。(大阪夏の陣)
豊臣家は先制攻撃を仕掛けたが兵力の差は圧倒的で、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)、塙直之(はなわ・なおゆき)、木村重成(きむら・しげなり)、薄田兼相(すすきだ・かねすけ)ら猛将を一気に失った。
しかし徳川軍は大軍ゆえに連携がうまくとれず、その間隙をついて真田幸村に家康の本陣まで突入され、毛利勝永(もうり・かつなが)には6万もの旗本が一時は撃退された。
家康も切腹を覚悟したがなんとか踏みとどまると、次第に形勢は逆転し、真田幸村も討ち取られた。
大坂城は落城、千姫は解放されたが豊臣秀頼、淀君、毛利勝永らは自害し、かくて豊臣家は滅亡した。

同年、家康は武家諸法度と一国一城令を制定し、全国支配を成し遂げ、徳川幕府264年の天下の礎を築いた。
そして翌1616年、鷹狩りに出た先で倒れ、そのまま病床に伏すと4月に没した。75歳だった。
タイの天ぷらによる食中毒と広く知られているが、天ぷらを食べたのは1月であり、食中毒が死因としては時間が空きすぎており、現在では胃ガンが死因だと考えられている。

家康は遺訓として「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、 心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久のもと、怒りは敵と思え。 勝事ばかり知りて、負ける事をしらざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな。 及ばざるは過ぎたるより勝れり」と残し、特にはじめの一節は非常に著名である。


~家康の人物像~
剣術、馬術、弓術、砲術、水術など多くの武芸を師匠について学び、一流の腕を持っていた。
特に剣術には熱心で柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)、小野忠明(おの・ただあき)ら剣豪を指南役として召し抱え、息子の徳川秀忠にも学ばせた。
しかし家康自身は「家臣が周囲にいるのだから、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を斬る剣術は不要である」と言っている。

俗に言う健康オタクで、自ら薬を調合し服用していた。そのため家康の葬られた東照宮には薬師如来が祀られている。鷹狩りを好み生涯を通じて適度な運動を欠かさず、一方で食事は出世後も貧窮していた頃と同じ質素なものだったという。様々な武芸も健康のためにたしなんでいた節もある。
しかし徳川家代々の将軍は早死にした者が多く、一説によるとあまりに質素すぎる食事で栄養が不足したとも言われている。

非常に多趣味で、特に碁は自らでたしなむのみならず、家元を保護したため現在も囲碁殿堂に顕彰されている。
織田信長と同様に南蛮趣味もあり、関ヶ原の戦いには南蛮具足を着込んで臨み、家臣にも下賜していた。
読書、能、書道、絵画も好みそのいずれもが一定以上の力量を備えていたが、茶の湯だけは好まなかったようで、多くの名物が周りに集まっていたが、自身は質素なものしか用いず、豊臣秀吉のように大々的に茶会を催すこともなかった。

並外れた倹約家で、フンドシは汚れが目立たないように薄黄色のものを用い、洗濯の回数を減らした。
決算の報告は代官から直接聞き、貫目単位までの大金は蔵に納め、匁・分単位の余りだけを私用に使った。
家臣が座敷で相撲をとっていると、傷まないように畳を裏返らせた。
馬小屋が壊れると、そのほうが丈夫な馬が育つと直させなかった。
漬物の味を薄くさせ、ご飯のおかわりを減らした。
などなど倹約どころか吝嗇と言って差し支えない逸話が数多くあり、その甲斐あって莫大な遺産を遺している。

織田信長、豊臣秀吉の成功と失敗を間近で観察し、長く耐え忍ぶ日々を送った家康は、二人の先駆者をあるいは手本に、あるいは反面教師として学び、ついに江戸幕府の繁栄を築き上げた。
今川家の没落、武田信玄の急死、当時としては稀な長寿など幸運に恵まれた面もあったが、それも家康が耐えに耐え忍んだがために、好機がめぐってきたと考えられよう。
遺訓に「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし」とあるように、着実に一歩ずつ天下人への道を歩んだ家康は、やはり戦国一の大人物だろう。

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