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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―最上義光  羽州の狐

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戦国列伝―最上義光  羽州の狐



最上義光(もがみ・よしあき)
出羽の人(1546~1614)

出羽の大名。最上義守(もがみ・よしもり)の嫡子。
5~6歳の頃にはもう12歳くらいに見える恵まれた体格で、長じると大人が7~8人がかりで動かす巨石を一人で動かせる怪力の持ち主となった。
現存する義光が愛用したとされる指揮棒は、刀のおよそ2倍の重さであり、これを本当に使っていたなら恐るべき膂力である。
一方で頭脳も優れ、残した和歌の数は大名の中でもかの細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)に次ぐ2番目の多さで、戦においても鉄砲や集団戦法を早くから取り入れたため、兵力で劣る戦いにたびたび勝利した。
狡猾な調略を好んだことから「羽州の狐」と呼ばれたが、寛大な性格で家臣はもちろん降伏者を手厚く遇したため、寝返る者が多かったという。
また義光を「よしあき」と読むとわかったのは、妹で伊達輝宗(だて・てるむね)に嫁いだ義(よし)との間に交わした多くの手紙の中で、自身の名をひらがなで「よしあき」と書いていたためで、甥の伊達政宗と同じく筆まめであり、無数の手紙を祐筆を使わず自分で書いていたという。


~経歴~
元旦に生まれ白寿と名付けられる。元服すると足利義輝(あしかが・よしてる)から一文字拝領し義光を名乗った。
1570年、義光は家督を継いだが隠居した父・義守は依然として権力を握っていた。両者の仲はたがいに暗殺を企むほど険悪だったが、1574年、侵攻してきた妹婿の伊達輝宗を撃退し、伊達家からの独立を果たすと父子は和解した。
だが家中は混乱したままで、かつて羽州探題と呼ばれた最上家は今や最上一郡の支配すらおぼつかなかった。

1578年、最上家の分家である上山満兼(かみのやま・みつかね)が伊達家の支援を受け最上領に侵攻。義光は撃退し伊達輝宗の本陣に迫るが、そこに妹で輝宗の妻である義が現れ、義兄弟での争いをやめるよう求めた。最上・伊達両家に強い発言権を持つ義の意向を無視できず、最上家は伊達家と和睦を結んだ。

1580年から義光は謀略を用いて勢力拡大をしていく。まず上山満兼の重臣を調略して満兼を暗殺させ、上山城を落とした。
つづいて鮭延秀綱(さけのべ・ひでつな)を内応させ小野寺家を、東禅寺義長(とうぜんじ・よしなが)を内応させ大宝寺家を戦わずして破った。
さらに仮病で白鳥家の当主を見舞いに越させて暗殺。猛将・延沢満延(のべさわ・みつのぶ)の奮戦で天童家に敗れると、満延に娘を嫁がせて引き抜き天童家も下し、ついに最上郡全域を支配下に収めた。

1588年、伊達政宗が義光の義兄・大崎義隆(おおさき・よしたか)を攻撃したため、義光は救援に赴いた。
だがまたも義が現れ、対峙する両軍の間に駕籠を止めた。義光は戦を続けようとしたが、子供たちが叔母の義になつくのを見て虚しさを覚え、再び伊達家と和睦を結んだ。
それを見た上杉景勝は、伊達家を警戒し最上家が動けないと読み、本庄繁長(ほんじょう・しげなが)と大宝寺義勝(だいほうじ・よしかつ)に最上領の庄内への侵攻を命じ、庄内は大宝寺家のもとへ奪回された。
義光は懇意にしていた徳川家康に庄内侵攻の不当性を主張したが、上杉家は直江兼続の友人である石田三成を通じ豊臣秀吉に接近し、秀吉の裁定により庄内の統治を認めさせた。

1590年、秀吉の小田原征伐の召集に応じ、本領を安堵された。ちなみにこの時、遅参して処刑される一歩手前だった伊達政宗よりもさらに遅く到着したが、父・最上義守の葬儀のためと家康に根回ししておいたため、咎められなかったという。
義光は次男を家康、三男を秀吉に仕えさせ、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)に迫られてやむなく三女・駒姫(こま)を側室に出すなど豊臣政権下で着々と地位を固めていく。
だが1595年、豊臣秀次が謀叛の嫌疑をかけられ切腹すると、まだ15歳の駒姫も連座して処刑された。
悲嘆に暮れて駒姫の生母も亡くなり、義光も伊達政宗とともに秀次への関与を疑われ謹慎させられたため、秀吉への憎悪を募らせた義光は以降、家康への傾倒を強めていく。

1598年、上杉家が東北の諸大名と関東の家康を監視するため、隣の会津に転封された。犬猿の仲に加え上杉領が最上領で分断されており、両家の衝突は時間の問題となった。
1600年、家康は軍備の増強を進める上杉家を詰問するが、直江兼続は事実上の宣戦布告と言える「直江状」を返し、家康は上杉討伐を決断する。
義光もそれに加わるが、石田三成が上方で挙兵したため家康軍は反転。義光は結城秀康(ゆうき・ひでやす)、伊達政宗、南部利直(なんぶ・としなお)とともに上杉軍の牽制を命じられた。
だが南部軍は領内での一揆を口実に撤退。伊達家は上杉家と和睦してしまい、最上軍は孤立した。義光は息子を人質に差し出して上杉家と和睦しようと見せかけつつ奇襲を狙ったが、見抜かれてしまいついに両家は激突した。

直江兼続率いる2万の大軍が最上領に侵攻。対する最上軍は3千ほどしか投入できなかったが2千挺もの鉄砲を配備していたため善戦した。
畑谷城では江口光清(えぐち・みつきよ)が義光の撤退命令を無視して350人で籠城を続け、才を惜しんだ兼続も降伏を勧告するが、上杉軍に1000名近い死傷者を出させて玉砕した。
一方の長谷堂城では志村光安(しむら・みつやす)と鮭延秀綱、湯沢城では楯岡満茂(たておか・みつしげ)らがわずかな兵で上杉軍を防ぎ、戦線を膠着させる。
義光は各地に援軍を要請し、南部家は駆けつけたものの、伊達政宗はその隙に南部領で一揆を煽動するなど勢力拡大を企み、留守政景(るす・まさかげ)にたった3千を預けて出撃させるだけにとどめ、しかも戦闘には参加させなかった。(これでも母の義が最上家にいることから、いちおう重い腰を上げたらしい)
苦戦は続いたが関ヶ原での西軍の敗戦が伝わると、上杉軍は長谷堂城の包囲を解き撤退にかかった。義光は家臣が止めるのも構わず「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか」と自ら先頭に立って追撃したが、兼続や前田慶次の反撃により兜に被弾し、あと一歩のところで取り逃がしてしまい、兼続の鮮やかな撤退戦に賛辞を惜しまなかったという。
義光は上杉家が混乱する中、庄内の奪回に成功し、戦後には計57万石に加増された。

その後は内政に注力し、善政を布いたため領民に非常に慕われ、存命中には一揆もほとんど起こらなかった。
だが家康が自分のもとに出仕していた義光の次男・最上家親(もがみ・いえちか)に最上家を継がせたいと考えたため、嫡子の最上義康(もがみ・よしやす)との間にあつれきが生じた。家親と義康を擁するそれぞれの家臣団の対立に発展し、義光も義康と反目し合う中、1603年(1611年?)義康が何者かによって暗殺された。義光もこの時ばかりはいたく悲しみ、駒姫の際と同等の盛大な葬儀を催したという。

1614年、義光は69歳で没した。
跡を継いだ最上家親もそのわずか3年後に急死し、跡目争いが起こったため1622年、最上家は改易となった。

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