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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―豊臣秀吉  草履取りから太閤へ



豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)
尾張の人(1537~1598)


~経歴~
百姓の身分から出世を重ね、戦国乱世を統一した天下人。

はじめは木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)と名乗る。出自は判然としないが、父は足軽か百姓、もしくはさらに下の階級の身分と見られる。
今川家の家臣・松下之綱(まつした・ゆきつな)に仕え、武士の作法や兵法、武術を学んだが、1554年頃から今川家を出て織田信長に仕官した。
ちなみに松下之綱には後年、遠江に1万6千石を与えこの時の恩に報いている。

信長のもとで、冷えた草履を懐で温めたという逸話で知られる草履取りや普請奉行、台所奉行などを務め信頼を勝ち得ていった。その風貌から信長に「猿」、「禿げ鼠」と呼ばれていたらしい。
1561年には後の北政所(きたのまんどころ)・ねねと当時としては稀な恋愛結婚をし、美濃斎藤家との戦いでは墨俣一夜城の建設で大功を立て、竹中半兵衛、蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)ら多くの優秀な家臣を得た。
また1565年頃に木下秀吉(きのした・ひでよし)と改名した。

1570年、朝倉家を攻める織田軍は、金ヶ崎で盟友の浅井家に突如として背後を襲われた。
このとき秀吉は明智光秀とともに殿軍を務め、被害を最小限に留めたため一躍、名を上げた。
浅井家を滅ぼすと北近江の今浜城を与えられ一国一城の主となった。その際に信長の名から一字を拝領し今浜を「長浜」と改め、さらに織田家の重臣・柴田勝家と丹羽長秀(にわ・ながひで)の姓から一字ずつもらい羽柴秀吉(はしば・ひでよし)と改名するなど如才のないところを見せている。

信長からはよほどの信頼を得ていたのだろう、上杉謙信との戦いの際に、指揮官の柴田勝家と仲違いして勝手に兵を引き上げ、勝家は大敗したが、信長は激怒したものの処罰は与えず、かえって秀吉を中国方面の司令官に任じた。
秀吉は黒田孝高(くろだ・よしたか)の助力を得て赤松家、別所家、小寺家、宇喜多家を次々と降したが、摂津の荒木村重(あらき・むらしげ)が反旗を翻すと、別所家、小寺家もそれに同調し、荒木村重の説得に赴いた黒田孝高も捕らえられ、退却を余儀なくされた。
だが荒木村重を破り黒田孝高を救出し、長らく抵抗を続けていた石山本願寺も降伏すると再侵攻に乗り出し、2年に渡る兵糧攻めの末に別所家の三木城を落とすと、鳥取城も兵糧攻め、備中高松城を水攻めと多彩な策で着々と中国地方を攻略していった。

だが1582年、中国最大の勢力を誇る毛利家が大軍を催したため、秀吉は信長に援軍を請うた。信長は自ら援軍を率いて向かおうとしたが、本能寺で明智光秀に討たれてしまった。
信長暗殺の一報を受けた秀吉は、すぐさま毛利家と和睦するとのちに「中国大返し」とうたわれる迅速な全軍撤退で京に取って返し、信長の死からわずか11日後に明智軍と対峙した。
秀吉のあまりに早い動きから明智軍の陣容は整わず、畿内・四国方面軍と合流した秀吉軍の兵力は明智軍の倍に近かった。
秀吉軍は山崎で明智軍を大破し、退却中に明智光秀も落ち武者狩りによって討たれた。
信長の仇討ちを果たした秀吉は一気に発言権を強め、織田家の後継者を決める清州会議では、信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)を推す柴田勝家の意見を抑え、信長の嫡孫に当たる織田秀信(おだ・ひでのぶ)を当主に据え、その後見人の座を得た。

秀吉と勝家・織田信孝は対立し、同年12月には越前の柴田軍が雪で動けない隙をつき、織田秀信を抑留する織田信孝の不行跡を唱え討伐の兵を挙げた。
敗れた織田信孝は人質を差し出して和睦したが、翌年に柴田派の滝川一益(たきがわ・かずます)が挙兵し、雪解けにより柴田軍も南下を始めた。
はじめは中川清秀(なかがわ・きよひで)を討ち取るなど柴田軍が優勢だったが、勝家の副将で秀吉の親友でもある前田利家が戦わずに引き上げると形勢は逆転し、秀吉軍は賤ヶ岳で大勝した。
柴田勝家は正室・お市とともに自害し、織田信孝は切腹、滝川一益は降伏とこれにより秀吉は敵対勢力を一掃した。

しかし1584年、これまで協調していた信長の次男・織田信雄は秀吉に家臣扱いされたことを恨み、親秀吉派の重臣を殺すと、徳川家康、長宗我部元親、雑賀孫市らとともに決起した。
秀吉は織田陣営の池田勝入(いけだ・しょうにゅう)、九鬼嘉隆(くき・よしたか)、織田信包(おだ・のぶかね)を次々と味方につけ、兵力も織田・徳川連合軍の3万に対して秀吉軍は10万と圧倒的に優勢だった。
しかし小牧・長久手の戦いで徳川軍により池田勝入、森長可(もり・ながよし)は討ち取られてしまう。家康を警戒する秀吉は野戦を避け、持久戦を挑んだ。そうなると兵力・財力で劣る家康になす術はなく、織田信雄が勝手に秀吉と和睦すると、家康も次男・秀康(ひでやす)を人質代わりに秀吉の養子として差し出し、和睦した。

秀吉は朝廷に働きかけて官位も得ると、実質的に織田家の支配者となった。大坂城を築いて移り住み、紀伊の雑賀党、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)を破り、中国の毛利家を降伏させ、抵抗する四国の長宗我部家には10万もの大軍を送り込んで討伐した。
1586年には関白・太政大臣の位を受け、豊臣秀吉と名乗り政権を樹立した。
だが九州統一を目前とした島津家の討伐戦では、軍監として派遣した仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により戸次川で大敗し、長宗我部元親の嫡子・長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)や十河存保(そごう・ながやす)が戦死してしまった。
激怒した秀吉は自ら20万の大軍を率いて九州を攻め、島津家を降伏させ西日本の統一を果たした。

秀吉は千利休(せんの・りきゅう)らとともに空前の規模の茶会を催し、黄金の茶室を造り、側室・淀君(よどぎみ)との間に待望の後継者・鶴松(つるまつ)をもうけるなど順風満帆の日々を送った。
そして1590年、全国に号令をかけ地を埋め尽くすほどの大軍で北条家の小田原城を包囲した。
難攻不落の小田原城も抗すすべはなく、3ヶ月後に開城した。東北の諸大名も派兵して恭順の意を示していたため、ここに名実ともに秀吉の天下統一が成された。

1591年、後継者に指名していた鶴松が死去すると、秀吉は甥の豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)を養子として関白職と家督を譲った。それにより秀吉は前関白の尊称である「太閤」と呼ばれるようになった。
同年には理由は諸説あり判然としないが千利休に切腹を命じ、これにより秀吉の死後に利休の弟子たちの多くが徳川方につくなど禍根を招くこととなる。

1592年、明と朝鮮の征服を目指し全国から集めた16万の兵を派遣した。(文禄の役)
総大将に宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)、副将に実質的な指揮官として黒田孝高を配し前半戦は圧倒したが、やはり外国の統治はうまく行かず、各地で義勇軍が蜂起し、広大な領地を誇る明からの大軍も駆けつけると戦況は膠着し、翌年には和睦を結んだ。
一方で淀君が二人目の子となる豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)を産むと、後継者の座を危ぶんだ豊臣秀次と秀吉との間が険悪となった。
そして1595年、秀吉は無用の殺生を繰り返したという理由で豊臣秀次を廃嫡して高野山へ追放し、のちには謀反の嫌疑をかけて切腹を命じ、腹心や妻子ら数十人を処刑させた。
秀次に謀反の意志はなく、殺生を繰り返したという証言も怪しく、いったん出家させておきながら切腹を命じたこと、死後に首を晒したことはともに異例の事態で、諸大名の反発を招いた。秀次の尋問を担当した石田三成への風あたりも強く、このとき事件に連座して処罰された者、秀次と親しくしていて秀吉の不興を買った者のほとんどが、関ヶ原の戦いに際して石田三成と反対の東軍につくこととなる。

1596年、明との講和交渉が決裂し、秀吉は再び朝鮮出兵を決意した。(慶長の役)
小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)を総大将に14万の大軍で攻め込み、さらなる派兵が検討されたが、秀吉の死により立ち消えとなった。

1598年、醍醐寺に全国から700本の桜を集め、妻子と共に一日限りの花見を楽しんだが、その後に病に倒れ、日増しに病状は悪化した。
徳川家康、前田利家ら五大老や石田三成らの五奉行にくり返し後を頼み、著名な辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」を遺し世を去った。
戦争継続を唱える者はほとんどなかったため、五大老らの協議により朝鮮からの全軍撤退が決定した。この戦いで明は多大な戦費の負担と兵力の損耗を強いられ、滅亡の引き金となった。

秀吉死後の覇権を狙う徳川家康は胎動を始め、唯一の障壁となりえた前田利家も亡くなるとわずか2年後の1600年、石田三成率いる西軍を関ヶ原で破り、実質的に天下人の座についた。
豊臣家が大阪夏の陣に敗れ滅亡するのは1615年のことである。


~人物像~
信長に「猿」、「禿げ鼠」と呼ばれたように容貌は優れず、体格にも恵まれなかった。また右手の指が1本多い「多指症」であった。
だが秀吉は自身の容姿が冴えないことや、出自が貧しいことを気にかける様子もなく、「見ての通り、わしは醜い顔をしており、五体も貧弱だが、わしの成功を忘れるでないぞ」とむしろハンデを克服しての成功を誇らしげに語ったという。

俗に言う「人たらし」で、旧敵であろうともいつの間にか懐に入り、心をつかんで味方につけてしまう術に長けていた。そのため秀吉に惚れ込んで家臣となった者は数多い。
九州征伐の際には島津義久(しまづ・よしひさ)と、小田原征伐では伊達政宗とまだ心服させていないにも関わらず二人きりになった挙句、平然と自分の刀を褒美として与えたが、両者とも秀吉の度量に気圧されて斬りつけることができなかった。

並外れた女好きで、当時の武士の間では衆道(同性愛)がごく一般的に行われていたが、秀吉は男には見向きもしなかった。あるとき家臣が、本当に衆道に興味がないのか確かめようと、美少年を小姓として差し出したが、秀吉は「お前には姉妹はいないのか」と尋ねるだけで、一切手出ししなかった。
多くの側室を抱えたが子宝には恵まれず、確かな史料に残るのは淀君が産んだ二人の子供だけで、秀吉の体質に問題があったと思われる。
一方で正室のねねが母代わりとなって、加藤清正(かとう・きよまさ)、福島正則(ふくしま・まさのり)らのちに豊臣家の中枢となる人材を育て上げている。

「太閤検地」や「刀狩り」が主な政策として歴史の教科書などで採り上げられるが、これは信長時代の政策の延長線上にあり、秀吉独自の政策というわけではない。
死後に自身を神格化しようと画策したのも信長にならったものであろう。

軍事においては優れた兵法家であり、特に城攻めに長けた。野戦も得意で主だった戦で敗れたのは家康との長久手の戦いくらいであり、これも局地戦で池田勝入らを失っただけで(そもそも兵力差がありすぎて戦略的に負けることはありえなかったのだが)結果的には家康を降している。
朝鮮征伐は今日にまで禍根を残す無謀な愚行とされるが、世界的に見れば国内統一を成し遂げた秀吉が、さらなる領地拡大と求心力の維持を求め、海外に乗り出すのは当然であろう。日本の歴史上、それまで他国侵略を実行したことがほぼ皆無で、結果的に失敗に終わったがために無謀、愚行とされるだけである。

人材登用にも優れ、多くの家臣を見出しては適材適所に配した。加藤清正ら武官と石田三成ら文官をはっきり二派に分けて運用したのも、当時としては斬新な考えであった。
秀吉の死後に両者が相争い、文官の台頭を快く思わず、武官のほとんどが家康方についたことを非難するのも結果論である。

私見を述べるならば、豊臣家があっさりと家康に葬り去られたのは、秀吉の遺児・豊臣秀頼があまりに幼すぎて後継者としては求心力に欠けたこと、(だからこそ一家臣にすぎない秀吉が天下人になれたのだが)信長の急死により突如として跡を継ぎ、軍事・政治ともに信長の急進的な路線を引き継いで強引に統治を進めたこと、そしてなにより信長、秀吉の成功と失敗を学習し、慎重に事を運んだ徳川家康という人物の才能が傑出していたことが、原因であろう。
秀吉自身は間違いなく、天下人にふさわしい比類なき大人物であった。

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