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夢想大蛇

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戦国列伝―明智光秀  敵は本能寺にあり

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戦国列伝―明智光秀  敵は本能寺にあり

     

明智光秀(あけち・みつひで)
美濃の人(1528?~1582)


~経歴~
明智光秀
織田信長の重臣。本能寺の変で信長を暗殺したことで非常に著名。

美濃の出身で、斎藤道三(さいとう・どうさん)に仕え、その息子の斎藤義龍(さいとう・よしたつ)との争いが起こった時、斎藤道三に味方して敗れたため、国を追われたとされるが、前半生はよくわからない。
その後は越前の朝倉義景(あさくら・よしかげ)に仕える。京を追放された足利義昭(あしかが・よしあき)が朝倉家を頼ってくると、縁戚関係にある光秀が接待役となった。
足利義昭は復権のため朝倉義景に再三、上洛を促したが、良い返事はもらえなかった。業を煮やした足利義昭は、美濃を落とし台頭しつつあった織田信長によしみを通じようとし、信長の正室・濃姫の従兄でもある光秀を遣わせた。
信長はすぐさま上洛を決意し、2ヶ月後には出陣して京に入り、足利義昭を征夷大将軍に返り咲かせた。
だが傀儡の立場に嫌気がさした足利義昭は信長と対立し、各地の大名に号令を掛け「信長包囲網」を敷いた。
その頃から光秀は足利義昭のもとを離れ、信長に仕えることとなる。

比叡山焼き討ち、石山本願寺、荒木村重(あらき・むらしげ)、松永久秀(まつなが・ひさひで)ら近畿勢との戦いで武功を立て、丹波を攻略すると近江の一部と丹波一国のあわせて34万石を与えられた。
それと同時に丹後の細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)、大和の筒井順慶(つつい・じゅんけい)ら近畿の諸大名の指揮も務め、計240万石もの所領を任された。そのため近年では「関東管領」になぞらえ光秀を「山陰・畿内管領」と呼ぶこともある。
京から東海道と山陰道へ至る分岐点を領地としたことからもわかるとおり、織田家での地位は重きを置かれ、信長の直属部隊、親衛隊の立場にあった。

しかし1582年、中国地方の征伐を進める羽柴秀吉(はしば・ひでよし)の援軍として行軍する途上、「敵は本能寺にあり」と突如として本能寺に泊まった信長を襲撃する。
このとき、雑兵には攻撃相手を知らせず、謀反とは気づかせなかったと言われ、京に滞在していた徳川家康を信長の命令で暗殺するのだと考えた者もいるという。
光秀軍1万3千に対し信長軍はわずか100人足らずで、抗すすべはなかった。奮戦の末に信長は火を放ち自害したが、遺体は見つからなかった。
濃姫、森蘭丸らも最期を共にし、二条御所にいた信長の嫡男・織田信忠(おだ・のぶただ)や京都所司代・村井貞勝(むらい・さだかつ)も討ち取られた。

光秀は京をおさえたが、与力であり縁戚関係にもある細川藤孝、筒井順慶らは事態の様子見に徹し、挙兵要請に応じなかった。
北陸の柴田勝家、関東の滝川一益(たきがわ・かずます)らは敵を前にして動けなかったが、中国の羽柴秀吉は相対する毛利家と素早く和睦を結ぶと、のちに「中国大返し」とうたわれる迅速な全軍撤退を見せ、本能寺の変からわずか11日後に畿内に引き返し、山崎で明智軍と対峙した。
秀吉軍は畿内の織田信孝(おだ・のぶたか)、丹羽長秀(にわ・ながひで)、池田恒興(いけだ・つねおき)、高山右近(たかやま・うこん)、中川清秀(なかがわ・きよひで)らと合流し、明智軍の倍にも膨れ上がった。
昼夜を徹して引き上げてきた秀吉軍の疲労は濃く、信長急死の直後で統制もとれていなかったが、秀吉の軍師・黒田孝高(くろだ・よしたか)が天王山を占領すると兵力差はいかんともし難く明智軍は敗走した。
同日深夜、居城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓によって光秀は討たれたという。


~本能寺の変~
なぜ信長を裏切ったかという理由は不明で、日本史上の最大の謎の一つである。
光秀の背後には黒幕がいたとされ、まるで事前に暗殺を知っていたかのように迅速な撤退を見せた羽柴秀吉や、京に滞在していた徳川家康、依然として影響力を持っていた足利義昭、信長の台頭を恐れた朝廷、はては濃姫、森蘭丸など多くの名が黒幕の候補として挙げられ、光秀謀反の動機を描くことは作家の腕の見せ所である。

秀吉にあっという間に討たれたことから俗に三日天下と揶揄されるが、光秀が決起するタイミングは決して悪くなかった。
光秀に対抗しうる戦力を持つ柴田勝家、滝川一益、秀吉らはそれぞれ遠く離れた任地で敵を抱え動くことができないはずであった。
徳川家康もほとんど単身で京に滞在中であり、一時は切腹を覚悟するほどの窮地に追い込まれており、服部半蔵らの尽力がなければ帰路に討たれていた可能性も高い。
四国の攻略にかかる前だった織田信孝などは畿内にいたにも関わらず、秀吉が来るまでは光秀討伐に動けず、従兄で光秀の婿である津田信澄(つだ・のぶすみ)を暗殺するなど仲間割れを起こす始末だった。

その間に光秀は着々と畿内を固め、戦力を集める予定だった。最初は挙兵に難色を示した細川藤孝、筒井順慶らもやがては光秀の麾下に参じただろうし、信長の三男・織田信孝や乳兄弟の池田恒興、譜代の重臣の丹羽長秀らはともかくとして、高山右近、中川清秀らが光秀に与する目は十分にあった。
ここは神業とも言える撤退を見せた秀吉を褒めるべきで、たとえばあと数日でも秀吉の到着が遅れていれば、事態がどう動いたか定かではないだろう。


~人物像~
非常に部下思いで、戦死した家臣を丁重に弔い、寺にたびたび寄進米を送ったとされ、このような例は同時代にほとんどないという。
そのためか本能寺の変ののちも、主君を討っておきながら光秀のもとを離れようとする家臣はほとんどいなかった。
愛妻家でもあり正室・熙子(ひろこ)の他に側室は置かなかった。結婚前、熙子は疱瘡を患い顔に醜いあざが残ってしまった。父は熙子にそっくりな妹を光秀に嫁がせようとしたが、光秀はそれをすぐに見抜くと、「私は熙子を妻にしたいのだ」と何事もなかったようにめとったという。
これは同様の話が高橋紹運(たかはし・じょううん)の嫁取りとして伝わるため創作とも言われるが、光秀と親しかった吉田兼見(よしだ・かねみ)の日記(当時の一級史料とされる)に夫妻の仲が睦まじかったことが何度も記されている。
一方でルイス・フロイスは光秀を「裏切りや密会を好む」、「人を欺く手段に長けることを自慢とした」、「余所者であり誰からも信用されなかった」とも記しており、その狷介な性情や織田家中での微妙な立場が透けて見える。

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