三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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蜂屋頼隆(はちや・よりたか)
美濃の人(1534?~1589)
織田信長の重臣。
はじめは土岐家、次いで斎藤道三(さいとう・どうさん)に仕えた。
道三は嫡子の斎藤義龍(よしたつ)に家督を譲ったが、父子の仲は険悪で、道三は下の息子に家督を移そうと考えた。
それを察知した義龍は弟らを暗殺し、激怒した道三は挙兵したものの、そもそも義龍に家督を譲ったのも家臣の信望を失ったからであり、大した兵力は集まらず敗死した。
頼隆は道三に味方したため国を追われ、隣国の織田家に仕えた。
一方でもともと織田軍の黒母衣衆(親衛隊)に蜂屋般若介(はんにゃのすけ)なる人物がおり、それが頼隆と同一人物とする説もある。
その後は織田家の主力へと昇進していき1568年、信長が上洛を果たすと柴田勝家、森可成(もり・よしなり)坂井政尚(さかい・まさひさ)、そして頼隆が先陣を務め、京の政務もその4人が取り仕切った。
主要な戦では柴田勝家、丹羽長秀(にわ・ながひで)、滝川一益(たきがわ・かずます)、佐久間信盛(さくま・のぶもり)ら名だたる重臣に並んで常に名が上がり、特に丹羽長秀とは昵懇で、未亡人となった長秀の妹をめとり、長秀の四男を男子が無かったため養嗣子に迎えている。
1580年、佐久間信盛が信長の勘気を蒙り追放されると、代わって和泉一国を任された。
1581年の京都御馬揃えでは、丹羽長秀に次ぐ二番手で現れるなど織田家での序列は非常に高かったと見られる。
1582年、甲州征伐では信長の指揮下に入り出陣を待ったが、織田信忠(のぶただ)が単独で武田軍を殲滅に追い込んだため出番がなかった。
本能寺の変の際には、四国征伐を命じられた織田信孝(のぶたか)の下に丹羽長秀、津田信澄(つだ・のぶすみ)とともにいた。
信孝と長秀は混乱に乗じ、明智光秀の娘婿で信孝の後継者争いのライバルだった津田信澄を殺したが、頼隆はそれに関与しなかったという。
羽柴秀吉が中国大返しで帰還してくると、信孝らとともにそれに加わり、光秀を討った。
その後は秀吉方に属し越前敦賀4万石や侍従の官位、羽柴姓、豊臣姓を賜るなど厚遇され、1589年に没した。
事績だけ見れば武勇一辺倒の人に思われるが和歌や連歌の才にも秀で、特に和歌は細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)、古田織部(ふるた・おりべ)に並ぶ腕前と讃えられた。
また秀吉の太閤検地に反対した書状を送っており、秀吉に公然と異論を唱えられるだけの地位と信頼を受けていたことがしのばれる。
これだけの大人物でありながら創作その他ではほとんど顧みられていないのは不思議な限りである。
なお蜂屋家は頼隆より先に養嗣子が没していたため、頼隆の死とともに断絶したが、一族の者が江戸幕府の旗本となり存続している。
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津田信澄(つだ・のぶすみ)
尾張の人(1555~1582)
織田信長の弟・織田信勝(のぶかつ)の嫡子。
3歳の時、父が謀叛を企んだかどで信長に殺された。信澄も連座しかけたが、祖母で信長・信勝の母の土田御前(つちだ)の嘆願により助命され、家老の柴田勝家に預けられた。
このこともあり織田ではなく津田姓を称したとされる。
長じると武勇に優れたため信長に目を掛けられ一門衆として遇された。
1578年、近江高島を任されていた磯野員昌(いその・かずまさ)が出奔すると、その養子となり同地を受け継いだ。また同時期に明智光秀の娘をめとっている。
石山本願寺、荒木村重(あらき・むらしげ)、伊賀との戦いでも活躍し1581年の京都御馬揃えでは信長の息子3人、弟の織田信包(のぶかね)に継ぐ5番手に名が挙がり、一門衆での序列も同様だったと思われる。
1582年、四国の長宗我部元親の討伐のため討伐軍が編成され、信長の三男・織田信孝(のぶたか)を総大将に丹羽長秀(にわ・ながひで)、蜂屋頼隆(はちや・よりたか)、そして信澄が副将に配された。また堺に遊覧に来ていた徳川家康の接待役を丹羽長秀とともに務めている。
しかし同年、信長が本能寺の変で討たれると、明智光秀の娘婿という立場が災いし、さらに後継者争いのライバルを除くため信孝によって暗殺された。享年28。
嫡子の織田昌澄(まさずみ)は、一時期父に仕えていた藤堂高虎の家臣を経て豊臣家に仕えた。
1615年、大坂夏の陣では皮肉にも藤堂軍と戦い、奮闘ぶりから一躍名を知られた。
戦後には恩人と矛を交えた責任を取り自害しようとしたが、他ならぬ高虎に慰留され、徳川家からも罪を問われず、旗本として仕え家名は幕末まで続いたという。
信長の事績を記した「信長公記」に信澄は織田家の中で信長、その嫡子の信忠(のぶただ)、次男の信雄(のぶかつ)に次いで登場が多い。
作者の太田牛一(おおた・ぎゅういち)が仕える丹羽長秀と信澄がともに任務に当たることが多かったのと、信澄が信長の側近として仕えていたことが理由と考えられる。
また「日本史」を著したルイス・フロイスは信澄の死に際し「この若者は異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」と記している。
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斯波義銀(しば・よしかね)
尾張の人(1540~1600)
父の斯波義統(よしむね)は尾張守護だが実権は守護代の織田信友(おだ・のぶとも)に奪われており、しかも1554年に信友によって暗殺されてしまった。
義銀はすぐさま信友と敵対する織田信長に討伐を命じ、首尾よく仇討ちを果たし守護の座も継いだものの、信長もまた斯波家を傀儡として尾張支配を進めることとなった。
義銀は三河の吉良家、駿河の今川家など足利将軍家に連なる一門衆との同盟交渉に利用された。
その際、吉良義昭(きら・よしあき)と席次を争い、同盟締結の会席なのに互いに軍勢を並べてにらみ合っただけで引き上げた、というプライドの高さを思わせる逸話が残る。
その後、傀儡の立場に嫌気が差すと、吉良義昭や今川義元と共謀し、密かに今川軍を海路から領内に引き入れようとしたが、信長に露見しあえなく尾張を追放された。
河内の畠山家に逃れ、キリシタンとなり暮らしていたが、信長の勢力圏が畿内に及ぶと和解し、名を津川義近(つがわ・よしちか)と改め、娘を信長の弟・織田信包(のぶかね)に嫁がせ、一門衆として復帰した。
1582年、信長が本能寺で討たれた後は、弟の津川義冬(よしふゆ)が家老を務めていた信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕えたと見られる。
だが信雄は流言に乗せられ義冬を殺し、義銀は居城を羽柴秀吉に攻められ降伏した。
秀吉は織田政権を牛耳るにあたり、旧尾張守護の義銀を大義名分として担ぎ上げ、公家と等しい待遇を与え、足利義昭(あしかが・よしあき)、山名豊国(やまな・とよくに)らそうそうたる名家の末裔とともに御伽衆を務めさせた。
東北の大崎家、最上家ら斯波家の分家筋にあたる大名との折衝も担ったが1590年、小田原征伐で降った北条氏直(ほうじょう・うじなお)の赦免を願い出たところ、増長であると秀吉の怒りを買い失脚した。
その後は罪こそ許されたが表舞台に戻ることなく、1600年に61歳で没した。
斯波家が再興することはなかったが、息子らは徳川幕府や細川家に仕え名を残している。
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坂井政尚(さかい・まさひさ)
美濃の人(??~1570)
織田信長の重臣。
前半生がほとんど不明で「太閤記」にははじめ美濃斎藤家に仕えたと記される。
「信長公記」に姿を現すのは1568年のことで、柴田勝家(しばた・かついえ)、佐久間信盛(さくま・のぶもり)、蜂屋頼隆(はちや・よりたか)、森可成(もり・よしなり)ら名だたる重臣とともに京や畿内を統治し、一手の大将を任されることも多々あった。
1570年、比叡山の包囲戦で僧兵や朝倉軍の猛攻を受け戦死した。
その最期の奮戦ぶりを「一人当千の働き、高名比類なきところ」と「信長公記」は伝えている。
長男は姉川の戦いで戦死していたため次男が跡を継いだが、彼もまた本能寺の変に際し織田信忠(おだ・のぶただ)とともに戦死を遂げ、政尚の血統は途絶えた。
※アイコンは劉禅
織田秀信(おだ・ひでのぶ)
美濃の人(1580~1605)
織田信忠(のぶただ)の嫡子で織田信長の嫡孫に当たる。母は森蘭丸の姉妹から武田信玄の娘まで諸説あり判然としない。
1582年、本能寺の変で祖父と父が揃って戦死すると、岐阜城にいた秀信は前田玄以(まえだ・げんい)に匿われた。父とともに二条城におり短刀を授けられたという説もある。
同年、明智光秀を破り仇討ちを果たした羽柴秀吉は、わずか3歳の秀信を織田家の当主として迎え傀儡政権を築いた。
その後は交渉材料として使われ叔父の織田信孝(のぶたか)や織田信雄(のぶかつ)、重臣の丹羽長秀(にわ・ながひで)らの下を転々とした。
1588年、9歳で元服した。
1590年には小田原征伐にも参戦し、兵は堀秀政(ほり・ひでまさ)が指揮した。
1592年、秀吉の計らいで美濃岐阜13万石に移され、織田家や斎藤家、土岐家らかつて美濃を統治した家の旧臣が秀信のもとへ集まった。
秀吉にはもはや主君として仰がれることは無くなったが、従三位中納言に叙せられるなど他の大名家よりは数段上の扱いを受けた。
1600年、関ヶ原の戦いでは石田三成に美濃・尾張2ヶ国を約束され西軍に参戦。
福島正則、池田輝政(いけだ・てるまさ)ら東軍の先鋒を迎え撃ったが圧倒的な兵力差に屈し、岐阜城に撤退。
激しく抵抗したが援軍のあてはなく、また池田輝政はかつて岐阜城を治め弱点を熟知していたため、説得により開城降伏した。
福島正則は秀信の巧みな用兵に感心し、降伏後の振る舞いも堂々としており、また容貌が祖父の信長に酷似していたともされ「さすが信長公の嫡孫」と讃え、自らの武功と引き換えに助命を嘆願したため、秀信は改易されたものの高野山へ送られた。
秀信の旧臣は福島家、池田家に多くが招聘されたという。
しかし祖父・信長が高野山を攻撃した因縁から秀信はなかなか入山を許されず、ようやく出家がかなった後も様々な迫害を受けた。
そして1605年、山を降りて麓に移り住み、その19日後に26歳で没した。
自害説と病死説(山を降りたのも療養のためとする)が囁かれるが詳細は不明である。
※アイコンは滕胤
ルイス・フロイス
ポルトガルの人(1532~1597)
ポルトガルのカトリック宣教師。
リスボンに生まれ10歳で宮廷に仕え、17歳でイエズス会に入った。
同年、インドのゴアに移され教育を受け、そこで日本への布教に向かう直前だったフランシスコ・ザビエルと日本人宣教師のヤジロウに感化され、日本への深い興味を抱いた。
ゴアで司祭に上り、語学と文才を買われ宣教地での通訳や、イエズス会への報告書を記す仕事に従事した。
1563年、32歳で念願だった日本での布教活動を開始。
2年後に京へ入るも交渉していた将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)が三好三人衆らに暗殺されたため、堺へ落ち延びた。
1569年、義輝の弟・足利義昭(あしかが・よしあき)を擁した織田信長が、三好三人衆を撃破し上洛を果たした。
フロイスが布教を願い出ると、長らく一向一揆と戦うなど仏教界に辟易しており、異国文化にも興味を持っていた信長はそれを認めた。
1583年、イエズス会からフロイスは、布教の第一線から離れ日本での布教活動を記録に残すことに専念するよう命じられた。
フロイスは喜び勇んで執筆に勤しみ、自ら日本全国をめぐっては見聞を広め「日本史」を著した。
イエズス会の活動のみならず、当時の日本で起こった大小の事件や出来事、日本各地に残る歴史、面会した人物の事績、印象などを詳細に記し、あまりに微に入り細を穿つ内容に上司は添削するよう苦言を呈したほどだったといい、戦国から安土桃山時代の研究資料としてきわめて重要な書物である。
また表音文字のアルファベットで書かれているため、人物名や地名の正確な発音も読み取れ、言語学上でも貴重であり、戦国時代の人物の読みがわかるのはひとえにフロイスのおかげである。
布教を許可した信長に関する記述は全体的に好意的ながら、戦を好み癇癪を起こしやすく他人の話に耳を貸さない、など負の面も余さず記し、今日における一般的な信長像はフロイスの記述によるところが非常に大きいと言えるだろう。
信長の跡を継ぎ天下人への道を歩む豊臣秀吉も当初はイエズス会を支持していたが、次第に迫害へと傾いていき、1587年にはバテレン追放令を出したが、フロイスはその後も変わりなく活動していた。
1592年に一時マカオに渡ったものの、1595年に長崎へ戻り、同地で1597年に没した。享年66。
「日本史」の他にも日本に関する著作をいくつも残しており「日欧文化比較論」では「欧州では明瞭な言葉を求め、曖昧な言葉を避けるが、日本では曖昧な言葉が最も重んぜられている」と、現代の日本人と変わりない戦国時代の人々の姿を伝えている。
※アイコンは孟節
本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)
京の人(1558~1637)
刀剣の鑑定や研磨を生業とする家に生まれ、光悦も家業を継いだと見られるが、実際に光悦が手掛けた刀剣はほとんど確認できず、残された多くの書状でも刀剣に関してはめったに触れられていないという。
一方で茶人、書家、陶芸家など多彩な才能を持ち、無数の作品を残しており、特に書は「寛永の三筆」に数えられ、光悦流を開いている。
また1615年に徳川家康から土地を拝領し、いわゆる芸術村とでも呼ぶべき「光悦村」を築き、一族や芸術の才に恵まれた人々を各地から集めた。
その中にはかの俵屋宗達(たわらや・そうたつ)や、尾形光琳(おがた・こうりん)の祖父がおり、諸国を放浪中の宮本武蔵も寄宿したという。
もっともこれは朝廷と深いつながりを持ち、多大な影響力を持つ光悦を一ヶ所に押し込め監視するのが目的だったとも言われているが、真相は定かでない。
いずれにしろ我が城を得た光悦は意気揚々と芸術に人生を捧げ、後世の芸術家に計り知れない影響を与えたことは疑いない。
京で公儀の呉服屋を営む豪商。
当主は代々「茶屋四郎次郎」の名を襲名し戦国期には3世代にわたって四郎次郎が存在するため、創作はもちろん歴史書などでもしばしば事績が混同しがちである。
信濃守護の小笠原長時(おがさわら・ながとき)に仕えた中島明延(なかじま・あきのぶ)が、武士を辞め京に上り呉服屋を始めたのが成り立ちとされる。
時の将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)がたびたび明延の屋敷を訪れ一服したことから「茶屋」の屋号を用いだした。
以下、三世代の四郎次郎を簡単に紹介する。
茶屋清延(きよのぶ)
京の人(1545~1596)
初代茶屋四郎次郎。明延の子で、若い頃は徳川家康に仕え三方ヶ原の戦いにも出陣し、家康から家紋を褒美に得るほどの活躍をした。
1582年、本能寺の変が起こると堺に滞在していた家康に危急を告げ、本拠地の三河への逃避行、俗にいう「伊賀越え」に同行した。
清延は物資の調達を務め、また野盗・山賊や付近の民衆に惜しげもなく金をばらまくことで、危機を未然に防いだという。
その功績から徳川家の御用商人に取り立てられ、茶屋家の後の発展の布石となった。
茶屋清忠(きよただ)
京の人(??~1603)
二代茶屋四郎次郎。清延の長男で、家康からも続けて信任を受けた。
豊臣秀吉が没し、徳川家の権力が増すにつれてさらなる発展を遂げ、京・大坂の物流を一手に担った。
また1600年、関ヶ原の戦いに際し、混乱する京の情勢をつぶさに家康に報せ、廃止されていた京都所司代の復活のきっかけとなったという。
茶屋清次(きよつぐ)
京の人(1584~1622)
三代茶屋四郎次郎。清延の次男で、長谷川藤広(はせがわ・ふじひろ)の養子になっていたが、兄が急逝したため幕府の命令により20歳の若さで当主の座を継いだ。
1612年、朱印船貿易の許諾を得て茶屋家の最盛期を築いた。莫大な富に恵まれ、本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)ら芸術家の後援にも勤しんだが、彼も兄と同じく39歳の若さで没した。
また家康の死因として有名な鯛の天ぷらを勧めたのは彼である。
その他、清延の三男の茶屋長吉(ながよし)は尾張に居を構え、やはり公儀の呉服屋として一家を築いた。
しかしその後の茶屋家は、鎖国を機に貿易特権も失うと、次第に衰退し始め、明治維新後には間もなく廃業したという。
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前田まつ(まえだ・まつ)
尾張の人(1547~1617)
前田利家の正室。法名の芳春院(ほうしゅんいん)でも著名。
篠原家に生まれたが4歳で父を亡くし、母は高畑家に再嫁したため、叔母が嫁いだ前田利昌(としまさ)に預けられた。
12歳で利昌の子・利家に嫁ぎ、早くも翌年に長女を、4年後には長男の前田利長(としなが)を授かった。
夫婦仲は睦まじく2男9女、計11人の子宝に恵まれ、記録に残る限り戦国最多タイ記録である。
羽柴秀吉・ねね夫妻とは家が隣同士で、夫妻ともに親友の間柄だった。
秀吉が天下人になっても関係は変わらず、秀吉と利家はお灸を据えあい、まつとねねも親しく話し込んだという。
また三女の摩阿姫(まあ)は秀吉の側室に、四女の豪姫(ごう)は秀吉の養女となった。
1583年、賤ヶ岳の戦いで利家は柴田勝家に味方したが、秀吉との間で板挟みになり中立を保った。
勝家は敗戦後、利家の城に立ち寄ると今までの労をねぎらうだけで恨み言を口にせず立ち去り、まつは秀吉に直談判して降伏の約束を取り付けた。
1584年、佐々成政(さっさ・なりまさ)の軍に城を囲まれたが、倹約家で知られる利家はろくに兵を養っておらず城に籠る他なかった。
その際、まつは「銭に槍を持たせて戦わせたらどうですか」と皮肉を浴びせたという。
1599年、利家が没すると利長が跡を継ぎ、まつは出家し芳春院と号した。
1600年、徳川家康に謀叛の嫌疑をかけられた利長は、いったんは謀叛を決意したものの、まつが慰留に努め、また自ら家康のもとへ人質として赴いたため前田家は処罰されなかった。
だが次男の前田利政(としまさ)は西軍についたため所領を没収され(所領は利長に与えられた)隠居に追い込まれた。はじめは赦免を約束されていたこともあり、まつは心痛から重病にかかり、京や伊勢での保養と、本領の金沢への帰国を禁じられたため14年間を外地で過ごした。
1614年、利長が没するとようやく帰国を許された。後に制定された諸大名の妻子の江戸居住制の実質的な第一号である。
1617年、金沢で没した。享年71。
たびたびの危機を献身的に救ったまつ無くして、加賀百万石の栄華はありえなかった。
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千姫(せんひめ)
山城の人(1597~1666)
豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)の正室。
徳川秀忠と江姫(ごう)の長女で、秀頼の母・淀殿(よど)は伯母(江の長姉)にあたる。
1603年、7歳で秀頼に嫁ぎ豊臣家に入った。
夫婦の間に子は産まれなかったが、1615年に豊臣家が滅亡すると、逃がされた千姫は秀頼の側室の子である天秀尼(てんしゅうに)の助命嘆願をし、養女として迎え入れた上で出家させ、命を救った。
1616年、本多忠勝の孫・本多忠刻(ほんだ・ただとき)に再嫁した。
この時、坂崎直盛(さかざき・なおもり)が千姫の強奪を企んだものの、事前に露見したため直盛は自害(殺害されたとの説もある)した。
直盛は燃え落ちる大坂城から千姫を助け出した人物で、徳川家康は千姫を助けた者に嫁がせる口約束をしていたのだが、醜男で救出時に顔に火傷も負った直盛を千姫は嫌い、美男の忠刻を選んだとされる。
忠刻との間には一男一女に恵まれたが、夫・母・姑・息子を数年のうちに相次いで亡くし、直盛の呪いとささやかれた。
千姫は娘とともに本多家を出ると、出家して家族の菩提を弔った。
娘は1632年に池田家に嫁いだが千姫は寺に残った。
1644年には弟・徳川家光の厄年を避けるためその側室と三男が千姫とともに暮らしたため、その縁で大奥への強い影響力を持つようになったとされ、事実1655年には妹の依頼を受け越前松平家の婚姻に介入したとされる。
1666年に70歳で没した。