三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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織田秀信(おだ・ひでのぶ)
美濃の人(1580~1605)
織田信忠(のぶただ)の嫡子で織田信長の嫡孫に当たる。母は森蘭丸の姉妹から武田信玄の娘まで諸説あり判然としない。
1582年、本能寺の変で祖父と父が揃って戦死すると、岐阜城にいた秀信は前田玄以(まえだ・げんい)に匿われた。父とともに二条城におり短刀を授けられたという説もある。
同年、明智光秀を破り仇討ちを果たした羽柴秀吉は、わずか3歳の秀信を織田家の当主として迎え傀儡政権を築いた。
その後は交渉材料として使われ叔父の織田信孝(のぶたか)や織田信雄(のぶかつ)、重臣の丹羽長秀(にわ・ながひで)らの下を転々とした。
1588年、9歳で元服した。
1590年には小田原征伐にも参戦し、兵は堀秀政(ほり・ひでまさ)が指揮した。
1592年、秀吉の計らいで美濃岐阜13万石に移され、織田家や斎藤家、土岐家らかつて美濃を統治した家の旧臣が秀信のもとへ集まった。
秀吉にはもはや主君として仰がれることは無くなったが、従三位中納言に叙せられるなど他の大名家よりは数段上の扱いを受けた。
1600年、関ヶ原の戦いでは石田三成に美濃・尾張2ヶ国を約束され西軍に参戦。
福島正則、池田輝政(いけだ・てるまさ)ら東軍の先鋒を迎え撃ったが圧倒的な兵力差に屈し、岐阜城に撤退。
激しく抵抗したが援軍のあてはなく、また池田輝政はかつて岐阜城を治め弱点を熟知していたため、説得により開城降伏した。
福島正則は秀信の巧みな用兵に感心し、降伏後の振る舞いも堂々としており、また容貌が祖父の信長に酷似していたともされ「さすが信長公の嫡孫」と讃え、自らの武功と引き換えに助命を嘆願したため、秀信は改易されたものの高野山へ送られた。
秀信の旧臣は福島家、池田家に多くが招聘されたという。
しかし祖父・信長が高野山を攻撃した因縁から秀信はなかなか入山を許されず、ようやく出家がかなった後も様々な迫害を受けた。
そして1605年、山を降りて麓に移り住み、その19日後に26歳で没した。
自害説と病死説(山を降りたのも療養のためとする)が囁かれるが詳細は不明である。