三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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片桐且元(かたぎり・かつもと)
近江の人(1556~1615)
はじめは片桐直盛(なおもり)と名乗り、且元の名は1600年頃から用いたと見られる。
1573年、仕えていた浅井家が織田信長によって滅ぼされ、その後に長浜城主となった羽柴秀吉に仕えた。
浅井家滅亡の前日、且元の父に宛てられた感状が現存しており、当時18歳の且元も父とともに信長と戦ったと思われる。
1583年、賤ヶ岳の戦いで活躍し加藤清正、福島正則らとともに「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。
その後は主に奉行として検地や街道の整備、都市計画など政治方面に才覚を示し、1595年には摂津茨木1万石を得て大名となり、秀吉の晩年には嫡子・豊臣秀頼(ひでより)の傅役にも選ばれた。
秀吉が没すると徳川家康に接近し、大坂に邸宅のない家康は且元の屋敷に泊まるなど昵懇だった。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、弟の片桐貞隆(さだたか)や家臣を大津城攻めにも派遣したが、戦後に徳川家と豊臣家の間を取り持った功績から大和竜田2万4千石へと逆に加増された。
その後も豊臣家に仕えながら、徳川幕府の検地や寺社統制にも協力し、朝廷との交渉も担当した。
1614年、且元が建立にも携わった方広寺の鐘銘などに幕府への叛逆の疑惑が掛けられた。
且元は弁明に務め、家康から「秀頼の駿府・江戸への参勤」「秀頼の母・淀殿(よど)の江戸詰め」「秀頼の大坂城退去」のいずれかを行えば赦免するとの譲歩を引き出したものの、淀殿らはそれに難色を示し、むしろ且元と家康の内通を疑った。
さらに暗殺も企まれたため、且元は貞隆や家臣らとともに大坂城を去った。
且元は家康方につき、大坂城の攻略(大坂冬の陣)に全面的に協力した。
真田幸村の真田丸での防戦に苦しみ、兵糧も不足すると家康は包囲の輪を下げ、且元らに命じて大坂城を大砲で狙い撃たせた。
昼夜を問わず続けられた砲撃により大坂方は意気阻喪し、淀殿の居室を砲弾が直撃すると、ついに淀殿も肝を冷やし講和を申し入れた。
1615年、且元は隠居を願い出たが許されず、大坂夏の陣にも参戦した。
落城寸前、大野治長(おおの・はるなが)は秀頼の居場所を且元に伝え助命を嘆願したが、且元はそれを徳川秀忠に報せたため、秀頼らは自害を遂げた。
落城から20日後、且元は急死を遂げた。
前年から肺病を患っており、心労も加わっての病死と見られるが、豊臣家への殉死とする説もある。
片桐家は嫡男が継いだが4代目が早逝し無嗣改易となった。しかし大和小泉1万石を領した弟の貞隆の家系は幕末まで大名として続いている。
且元は土壇場で豊臣家を裏切った不忠者として当時から評価は低く、様々な記録で悪し様に書かれている。
しかし創作ではむしろ両家の間で板挟みとなった中間管理職的な悲哀が描かれがちである。
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奥田直政(おくだ・なおまさ)
尾張の人(1547~1608)
幼少期は寺に預けられ、従弟の堀秀政(ほり・ひでまさ)とともに育った。
6歳年下の秀政とは「先に出世した方の家臣になり支え合おう」と誓ったとされるが、同様の逸話が加藤清正らにもあり真偽は怪しいものの、直政は織田信長の小姓として頭角を現した秀政の腹心として実際に支え続けた。
堀姓を与えられたため堀直政とも呼ばれ、息子らも奥田ではなく堀姓を踏襲している。
だが1590年、秀政は38歳の若さで急死してしまう。
豊臣秀吉は秀政の嫡子・堀秀治(ひではる)が15歳と若いため相続を渋り、あわよくば落ち度を見つけ所領を没収しようと考えた。
直政はそれを察すると自身の次男の堀直寄(なおより)を秀吉のもとへ送った。弱冠14歳の直寄の堂々たる抗議に感心した秀吉は、直寄を自身の小姓に取り立てるとともに秀治の家督相続を認めた。
秀吉は秀政の急死にも屈せずよく堀家を支えた直政を高く評価し、直江兼続、小早川隆景とともに「天下の仕置ができる三人」に挙げた。
一方で「家臣の身ながら天下を狙える三人」としては直政を外し鍋島直茂(なべしま・なおしげ)を代わりに入れているが、仮定の話としても直政に天下を狙う野心は無いと考えてのことだろうか。
1598年、越後の上杉景勝が会津へ転封となり、代わって堀家が越後に移ることになると、この時も直寄が秀吉のもとへ向かい、直政が老齢であること、長年にわたり上杉家に支配された土地で反乱の懸念があることを訴えた。
秀吉ももっともだと考え、直寄や堀家の重臣を付近の大名に任じ、地盤を固めさせた。
ところが上杉家の家老・直江兼続は親友の石田三成と共謀し、年貢米を全て持ち去っており(半分は残しておく慣習だった)堀家はいきなり財政難に見舞われたという。
堀家は上杉家の監視役も担ったが、秀吉が没すると早々に上杉家は軍備を整えだした。
秀吉の死後に台頭した徳川家康は上杉家の討伐を命じ、全国の大名に号令を掛けると、石田三成が蜂起し、関ヶ原の戦いが幕を開いた。
堀家でも東西両軍のどちらにつくか意見が分かれ、直寄は「豊臣家の恩に報い家康と戦うべきだ」と主張したが、直政が「堀家の発展はそもそも織田家によるものだ。秀政も織田家の衰退を嘆いていたし、三成の蜂起は織田家や豊臣家のためになることでもない。戦えば家康が必ず勝つ」と言うと、一同も納得し堀家は東軍につくと決まった。
間もなく三成から「隣国の前田家、丹羽家はすでに西軍についた」とする書状が来たが、直政は即座に嘘だと見抜き、三成に味方する返事を送る一方で前田家に事の真偽を確かめさせた。
直江兼続は年貢米の持ち去りを逆手に取って領民の反感を煽り、一揆を起こさせたが、直政は巧みな用兵で速やかにこれを鎮圧した。
その手腕を見込んでか、翌年に徳川領の佐渡で一揆が起こると、家康は直々に直政に鎮圧を命じている。
直政は堀家の安定のため、徳川家の娘を孫(秀治の息子)の堀忠俊(ただとし)の妻に迎えたいと家康に働きかけた。家康は本多忠勝の孫娘を徳川秀忠の養子にした上で嫁がせたが、堀家は後に改易になったこともあり、親藩の扱いは受けなかった。
1606年に秀治が31歳の若さで没し、直政も1608年に62歳で死去した。
秀治の跡は忠俊が、直政の跡は直寄の兄・堀直清(なおきよ)が継いだが、それに不満を抱いた直寄は家督争いを起こし、兄が僧侶を虐殺した事件を告発した。
かねてから外様大名の勢力削減に動いていた幕府は、渡りに船とばかりに堀家を改易し(忠俊は15歳と若く実質的に直清が統治していたため、直清の罪はそのまま堀家が被った)醜い争いを演じた直寄も減封された。
堀秀政から続く堀宗家はこれにより滅亡したが、堀直寄はその後、功を立て越後村上10万石にまで復帰し、皮肉にも秀政を支え続けた直政の家系が堀家の嫡流となるのだった。
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小川祐忠(おがわ・すけただ)
近江の人(??~??)
小川家は近江の国人衆で、もともと佐和山城を領していたが、主家の六角家の衰退により城を追われ、祐忠の代では浅井家に従属していた。
1571年、柴田勝家らの率いる織田軍に攻められ降伏し、織田信長の旗本となった。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると明智光秀に従うも山崎の戦いで敗北し、羽柴秀吉に降った。
戦後の清州会議で北近江が柴田勝家の傘下に置かれると、勝家の甥・柴田勝豊(かつとよ)の家老になった。
だが冷遇されていた勝豊は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に寝返り、祐忠もそれに従った。
勝豊が没すると秀吉に仕え、1590年の小田原征伐で武功を立てると、かつて信長から名前だけもらった土佐守に正式に叙任された。
1598年、文禄・慶長の役の戦功により伊予今治7万石に上り、同年の醍醐の花見では三番茶屋を立てるなど豊臣政権で厚遇された。
1600年、関ヶ原では2500の兵を率い西軍に属するも、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りを目にするや脇坂安治(わきさか・やすはる)ら付近の3部隊とともに連鎖的に寝返り、大谷吉継に襲いかかった。
勇猛で名高い平塚為広(ひらつか・ためひろ)を討ち取り、石田三成の居城でかつての小川家の居城でもある佐和山城攻めでも活躍したが、戦前に寝返りの約束をしていた脇坂安治を除く3人は処罰され、祐忠もあえなく改易された。
改易の理由は他にも領内で悪政を敷いていた、嫡子の小川祐滋(すけしげ)が石田三成と昵懇だったためとも言われる。
祐忠は京に隠棲し(武士をやめ帰農したとも言われる)間もなく没したと見られる。
小川祐滋も刀を捨て京で両替商となり、大成功を収め豪商に名を連ねた。
また子孫には後に大岡越前の肝いりで作られた小石川養生所の開祖「赤ひげ先生」こと小川笙船(しょうせん)がいる。
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池田輝政(いけだ・てるまさ)
尾張の人(1564~1613)
織田信長の乳兄弟・池田恒興(つねおき)の次男。輝政の名で著名だがこれは死の4年前に改名したもので、それまでは「照政」の字を使っていた。
幼い頃は活発だったが、長じると思慮深く寡黙な人物に育ち、父や兄・池田元助(もとすけ)と同様に武勇に優れ、若くして多くの戦功を挙げた。
1584年、小牧・長久手の戦いで父と兄が揃って戦死すると家督を継ぎ、豊臣家の重臣として主要な戦のほとんどに参戦した。
父らの戦死を聞いた時、輝政も斬り死にしようとしたが家臣の番藤右衛門(ばん・とうえもん)が必死に馬の口を抑え押し留めたといい、輝政はそれを終生恨みに思い、彼を褒めることも加増することもなく、輝政の死後にようやく加増されたという。
秀吉からの信頼は厚く、一門衆に準じる扱いを受け、1594年には秀吉の仲介により徳川家康の娘・督姫(とく)をめとった。
翌年に豊臣秀次(ひでつぐ)が失脚し、秀次に嫁ぐ直前だった最上義光(もがみ・よしあき)の娘すら死罪を命じられるなど妻妾のほとんどが厳罰に処される中、秀次の正室だった輝政の妹は特別に助命されている。
またこの頃、父を討ち取った徳川家の家臣・永井直勝(ながい・なおかつ)を召し出し、父の最期の様子を尋ねた。
輝政は直勝が5千石の小身と聞くと「あの父の首がたった5千石か」と不機嫌になり、家康に口を利いてやり1万石へ加増させたという。
1598年、秀吉が没すると加藤清正、福島正則らとともに石田三成と対立し、翌年に前田利家が没し抑えが無くなると三成の屋敷を襲撃し暗殺未遂事件を起こした。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき先鋒として岐阜城を落とした。だが本戦では西軍に付きながらも裏で内応していた吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の抑えに回されたため戦闘に参加できなかった。
それでも岐阜城攻略を高く評価され戦後は播磨姫路52万石に加増された。先に受けていた三河15万石から3倍以上の大加増で、諸大名からは家康の娘婿だからと七光り扱いされた。
中でも福島正則は辛辣で「我々は槍で国を取ったが、お前はイチモツで国を取った」と皮肉ると、輝政は平然と「いかにもイチモツで国を取ったが、槍を使えば天下を取れたろう」と言い返したという。
ちなみに岐阜城攻めで輝政と正則は一番乗りを競ったが、実際には輝政が一番乗りを飾ったものの正則に功を譲った経緯があり、それなのに正則の皮肉はいささか大人げない。
輝政は姫路城を改修し城下町を大いに発展させ、息子らや弟もそれぞれ大名に列し、池田家はあわせて92万石の大身となり、1612年に正三位参議に叙されると参議の唐名にちなみ「姫路宰相」や「西国将軍」と呼ばれた。
だが1613年、輝政は50歳で急死した。同時期に豊臣家と縁深い加藤清正や浅野幸長(あさの・よしなが)も若くして没しており、しかもいずれも同じ病と記されることから、徳川家康による暗殺説が根強いものの、輝政の場合は家康と昵懇なことから「秀吉の呪い」ともささやかれた。
家督は嫡子の池田利隆(としたか)が継ぎ、池田家は徳川幕府の親藩に準じる扱いのまま、明治期まで続いた。
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浅野幸長(あさの・よしなが)
近江の人(1576~1613)
豊臣政権で五奉行筆頭を務めた浅野長政(ながまさ)の嫡子。
父は秀吉の妻ねねの義弟で一門衆でも重きを置かれ、幸長も将来を嘱望された。
武勇に優れ多くの戦功を挙げたが1595年、豊臣秀次(ひでつぐ)が失脚すると連座し能登に配流された。
しかし舅の前田利家(ただし妻は祝言を前に早逝している)や徳川家康にとりなされ間もなく復帰を許された。
1598年、秀吉が没すると加藤清正、福島正則らとともに石田三成と対立し、翌年に前田利家が没し抑えが無くなると三成の屋敷を襲撃し暗殺未遂事件を起こした。
1600年、関ヶ原の戦いでは父とともに東軍につき、幸長は先鋒として活躍し戦後には紀伊37万石に加増転封された。
関ヶ原こそ三成憎しの思いもあり東軍についたものの、豊臣家への忠誠は依然として厚く、加藤清正や池田輝政(いけだ・てるまさ)ら旧豊臣家臣とともに陰に日向に豊臣家に尽くしていたが1613年、急逝した。
幸長、清正、輝政は同時期に相次いで(しかも同じ病名で)急死しており、徳川家康による暗殺説も根強い。
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浅野長政(あさの・ながまさ)
尾張の人(1547~1611)
豊臣政権の五奉行筆頭。長政の名で著名だがそれは秀吉死後に改名した晩年の名乗りで、浅野長吉(ながよし)を名乗っていた時期の方がはるかに長い。
安井家に生まれたが叔父の浅野長勝(ながかつ)に男子が無かったため、婿養子になり浅野家を継いだ。
長勝の養女のねねが木下藤吉郎に嫁ぐと、親族の少ない後の豊臣秀吉は、義兄弟の長政を一門衆の筆頭格として重用した。
秀吉からの信頼は絶大で、1583年には近江大津2万石を与えられ大名に列し、翌年には京都奉行、そして五奉行筆頭として行政手腕を活かし、全国の太閤検地や金銀山の管理を任された。太閤にまで上った秀吉に対し意見を言える数少ない人物だったともいう。
また秀吉の妹・朝日姫(あさひ)が徳川家康に嫁ぐ際には同行したり、天下統一の最後の仕上げとなる奥州仕置も担当。
伊達政宗から絶縁状を叩きつけられたり、宇都宮家を讒言で取り潰しに追いやったりと個人の感情で動く一面もあったが、豊臣政権の重鎮として揺るぎなく、石高も甲斐21万石に上った。
秀吉没後の1599年、前田利長(まえだ・としなが)とともに謀叛の嫌疑を掛けられたため隠居し、嫡子の浅野幸長(よしなが)に家督を譲った。
だが1600年、関ヶ原の戦いでは時勢を見極め家康方につき、自らは徳川秀忠を補佐、幸長は東軍の先鋒として活躍し、幸長は戦後に紀伊37万石へ加増転封となった。
1606年、隠居料として常陸5万石を与えられた。
1611年、常陸で65歳で没した。次男の浅野長晟(ながあきら)はすでに備中に2万石を受けていたため、常陸は三男の浅野長重(ながしげ)が継いだ。
浅野家は1613年に幸長が急死すると(家康による暗殺説も根強い)男子が無かったため長晟が跡を継ぎ、後に改易された福島正則に代わり安芸42万石に転封され幕末まで続いた。
長重の継いだ領地は息子の代に播磨赤穂に移され、長重の曾孫が赤穂浪士で著名なかの浅野内匠頭である。
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赤座直保(あかざ・なおやす)
越前の人(??~1606)
もともとは朝倉家に仕えていたと思われる。
1573年、織田信長が朝倉家を滅ぼすと織田家に仕えた。
1582年、本能寺の変で織田信忠(のぶただ)の麾下にいた父が戦死すると家督を継いだ。
その後は豊臣家に仕え、1590年の小田原征伐では石田三成とともに忍城を攻める。
その功で越前今庄2万石に加増され、今庄を北国街道の宿場駅として発展させた。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍についたものの、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りを目にするや脇坂安治(わきさか・やすはる)ら付近の3部隊とともに連鎖的に寝返り、大谷吉継に襲いかかった。
だが戦前に寝返りの約束をしていた脇坂安治を除く3人は処罰され、直保も改易された。
その後は前田家に仕えたが1606年、氾濫した川の視察中に濁流に落ち、あえなく溺死した。
子孫は永原(ながはら)に改姓し、前田家の家臣として存続している。
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毛利秀頼(もうり・ひでより)
尾張の人(??~1593)
織田信長の家臣。初名は毛利長秀(ながひで)。
出自ははっきりしないが、「信長公記」の記述から斯波義統(しば・よしむね)の子で、毛利良勝(よしかつ)に養育されたと推測される。
1560年、桶狭間の戦いで活躍し赤母衣衆に抜擢され、着々と出世を遂げた。
信長の嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)の与力に付けられ、1582年に甲州征伐を果たすと信濃伊那郡を与えられた。
しかし同年、信長が本能寺の変で討たれると、反乱を恐れ領地を捨てて逃亡した。
その後は豊臣秀吉に仕え、多くの戦で手柄を立て、旧領の信濃飯田城主に返り咲いた。
1588年には豊臣姓を与えられたため、もう一人の豊臣秀頼でもある。
1593年に没すると、遺領10万石のうち子の毛利秀秋(ひであき)には1万石しか与えられず、娘婿の京極高知(きょうごく・たかとも)が9万石を継いだ。
確たる理由は不明だが、高知の姉の京極竜子(たつこ)が秀吉の側室として寵愛を受けていたことと関わりがあるかも知れない。
秀秋は1600年、関ヶ原の戦いで西軍につき伏見城の戦いに加わったため改易となった。
その後は豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)に仕え1615年、大坂夏の陣で戦死した。
※アイコンは李儒
村井貞勝(むらい・さだかつ)
出身地不明※太閤記は近江の人と記す(??~1582)
早くから織田信長に仕え、行政手腕に優れた。
戦に出陣した記録はほとんどなく、もっぱら外交や政務全般を担った。
1573年、信長が将軍・足利義昭を追放すると京都所司代に任じられた。
信長からの信頼は厚く、安土城の天守閣が完成した時、筆頭家老の佐久間信盛(さくま・のぶもり)と貞勝にだけ披露したという。
1582年、朝廷は信長に「太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたい」という意向を伝え、信長はそのいずれも拒絶したが、これは貞勝のほうから官位授与を打診したとする説がある。
翌月、明智光秀が本能寺の変を起こした。貞勝は本能寺の向かいの家に住んでいたが、変事を察するともはや本能寺は封鎖されていたため信長の嫡子・織田信忠が泊まる寺へと駆け込んだ。
信忠に二条御所での籠城戦を勧め、攻め寄せる明智軍と戦ったが貞勝と二人の息子、そして信忠はそろって討ち死にした。
年齢は不詳だが60歳は過ぎていたと見られ、ルイス・フロイスは彼を「都の総督」と呼び「尊敬できる異教徒の老人で、甚だ権勢あり」と評している。