三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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美濃斎藤家に仕えた竹中家に生まれる。まるで婦人のような容貌で、物静かな性格だった。
1560年に家督を継いだ頃から、今川義元を破った織田信長が美濃への侵攻を開始した。
よく防いでいた斎藤義龍(さいとう・よしたつ)が1561年に没すると、跡を継いだ斎藤龍興(たつおき)は若く、軍才にも恵まれなかったため、次第に信長軍に押し込まれるようになってきた。
それでも重治の奇策でなんとか食い止めていたが、斎藤龍興は政務を顧みず酒色におぼれ、一部の側近だけを重用し、重治や安藤守就(あんどう・もりなり)ら美濃三人衆を冷遇していた。
業を煮やした重治らは1564年、弟・竹中重矩(しげのり)の病気見舞いと称して稲葉山城に入ると、密かに武装しわずか16人で城を乗っ取ってしまった。
重治は行いを改めるよう求めたが、龍興は改心しなかった。重治は信長からの開城要求も断ると、半年後に龍興に城を返還し、斎藤家を去った。
浅井長政の客将として一年余り過ごしたが、やがて21歳の若さで隠居してしまった。
1567年、斎藤家を滅ぼした織田信長は、重治を召し抱えたいと考え、木下秀吉(後の豊臣秀吉)を派遣した。秀吉は三顧の礼で重治・重矩の兄弟を迎え入れた。
1570年にかけて、征夷大将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が信長包囲網を敷くと、その一角を担った浅井家に向け、重治はかつての人脈を活かし調略活動を行い、いくつもの城を寝返らせた。
浅井家が滅びると、秀吉は一国一城の主となり、その頃から重治は秀吉の与力に付けられた。
中国征伐を命じられた秀吉に従い、軍師として策を立て、また多くの城を内応させた。
荒木村重(あらき・むらしげ)が謀反を起こし、説得に向かった黒田孝高(くろだ・よしたか)が捕らえられると、信長は黒田孝高も寝返ったと考え、その息子を処刑しようとした。
すると重治は偽の首を用意して孝高の息子をかくまい、それに感激した孝高は恩を忘れまいと、竹中家の家紋をもらい受け黒田家の家紋とした。
救出された孝高も後に秀吉の家臣となり、孝高の通称・黒田官兵衛にちなみ、重治と孝高は「両兵衛」と並び称された。
1579年、三木城の包囲中、重治は病に倒れた。
秀吉は重治を京に帰し療養させたが、武士ならば戦場で死にたいと重治は前線に戻り、陣中で死去した。
享年36歳。死因は肺病と見られる。
死の前に重治は、三木城攻略のために兵糧攻めを提案しており、それによって三木城は落ちた。
わずか16人で城を占拠した天才軍師ぶりと、早逝したことを惜しまれたためか、民衆に人気があり、江戸時代に講談で盛んに語られ、多くの逸話が作られた。
それが史実と入り交じってしまったため、重治の正確な事績は判然としないが、事実と思われることを見ただけでも、その傑出した才知は明らかである。
秀吉は絶大な信頼を寄せる一方で、重治や黒田孝高の頭脳を恐れ、実権を持たせないために少しの禄しか与えなかったという。
たしかな事実として伝わるのは、1594年、捕らえられた五右衛門は、一族や仲間20人とともに、京で生きたまま釜ゆでとなり処刑された、ということだけである。
以下は伝承として伝わる五右衛門の事績。
出身地は伊賀、遠江、河内、丹後と諸説あり、伊賀の抜け忍とも、大忍者・百地丹波(ももち・たんば)の弟子となり、その妻を寝とって妾を殺し出奔したとも言われる。
丹後の一色家に仕えた石川秀門(いしかわ・ひでかど)の子で、羽柴秀吉の中国征伐の折に、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)によって父を殺され城も落とされ、以来、秀吉を付け狙ったともされる。
権力者、特に豊臣家を標的にした五右衛門は、太閤検地や刀狩り、朝鮮出兵などで苦しめられた豊臣家に不満を抱く民衆に支持された。
金のシャチホコ(大阪城、名古屋城など諸説あり)を盗もうとしたともされるが、これは別の盗賊の逸話が混在したと見られる。
秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)から秀吉暗殺を依頼され、寝室に忍び込んだが、枕元の香炉に付けられた千鳥の飾りが、鳴いて危機を知らせたため、捕らえられてしまい、釜ゆでの刑で殺された。
辞世の句として「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ(たとえ砂浜から砂が無くなることはあろうとも、盗人が世の中から消えることはない)」と詠んだという。
江戸時代になって五右衛門は、歌舞伎や浄瑠璃の演目として盛んに取り上げられ、その中で義賊に描かれたため人気を博した。
秀吉の天敵とされたのは(演目では秀吉の名をもじった架空の人物になっている)徳川政権下において、悪徳の権力者として描かれるには、前政権の長である秀吉が最も適当な存在だったからと見られる。
養父は前田利家の長兄・前田利久(としひさ)。
実父は滝川一益(たきがわ・かずます)の従兄弟とも甥とも言われ、はては慶次が滝川一益の弟ともされるなど判然としない。
1567年、養父の利久は跡継ぎがなく病弱なため隠居させられ、弟の前田利家が家督を継いだ。
慶次は養父とともに居城を出たが、織田信長には仕え続けたようで、いったん歴史から姿を消した後、1581年に前田利家が能登一国を与えられた折に、その家臣となっている。
だが1582年、本能寺で信長が討たれた際には、関東を領していた滝川一益の下にいたことが確認され、慶次の前半生は不明な点が多い。
その後は前田利家の下に戻り、1587年に養父の利久が亡くなると、その領地を慶次の嫡男が継いだ。
小牧・長久手の戦い、小田原征伐にも参戦したが、1590年頃、前田利家と仲違いし、一族を残し単身で出奔した。
しばらくは京都で古田織部(ふるた・おりべ)、細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)、里村紹巴(さとむら・じょうは)ら文人と親しみ、連歌会を催すなどしたが、1598年頃から上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)に仕えるようになった。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、上杉景勝は西軍に味方し、東軍についた最上義光(もがみ・よしあき)を攻めた。
しかし長谷堂城にこもった最上軍は小勢ながらよく耐え忍び、伊達政宗の援軍が駆けつけると上杉軍は撤退した。
激しい追撃を受けたが、慶次や直江兼続の奮闘で退け、無事に撤退したものの、関ヶ原で西軍は敗れ、上杉家は会津120万石から米沢30万石への大減封を命じられた。
慶次も米沢に移り隠棲し、直江兼続とともに『史記』に注釈を入れたり、和歌や連歌を楽しみ悠々自適の余生を送った。
兼続が所有した『史記』は現在も残り国宝に指定されているが、それに慶次の手が入っているかは定かではない。
また伏見から米沢への道中を日記に記しており、道すがらに多くの歌や詩、各地の伝承に個人的な見解を加え、高い教養を持っていたことがうかがえる。
生没年にも諸説あるが、加賀藩の史料によると1605年に73歳で死去した。晩年も傾奇者らしい奇行やいたずら癖は収まらなかったという。
真偽は不明だが、前田利家や豊臣秀吉を相手取り、多くの大胆不敵な逸話を残しており、その多くは『花の慶次』に描かれているため、あえてこの項では採り上げないことにする。
風魔一党は後北条家の初代・北条早雲(ほうじょう・そううん)の時代から仕え、頭領は小太郎の名を受け継いできた。
中でも著名なのは五代目・風魔小太郎で「身長7尺2寸(2m16cm)、筋骨隆々で、眼も口も大きく黒ひげが逆立ち、四つの牙が生え、頭は福禄寿のように長く鼻も高い」という異様な姿を伝えられている。
1580年、武田勝頼(たけだ・かつより)との戦いで、闇夜に紛れて後方撹乱し多大な戦果を挙げた。
しかし1590年、北条家が滅亡すると風魔一党は江戸近辺を荒らしまわる盗賊に成り下がった。
そして1603年、小太郎はやはり武田家の忍者から盗賊になっていた高坂甚内(こうさか・じんない)の密告により捕えられ、処刑されたという。
だが風魔一党の名は『北条五代記』にしか見当たらず、著者の創作の可能性もあるが、風間出羽守(ふうま・でわのかみ)なる人物が北条家の文書にたびたび現れ、警備や諜報を担当し、忍者であるとも言われており、彼が風魔小太郎のモデル、あるいは同一人物と見られる。
祖父・浅井亮政(あざい・すけまさ)は、北近江の守護だった京極家を追い落とし下克上を果たしたが、跡を継いだ浅井久政は南近江の守護・六角家に敗れ、臣従を強いられていた。
幼い長政も六角家に人質として差し出されており、当主・六角義賢(ろっかく・よしかた)の名を受け、浅井賢政(あざい・かたまさ)と名乗らされ、六角家の家臣の娘を妻としていた。
だが不甲斐ない浅井久政へ反発する家臣たちは、久政を強制的に隠居させると、15歳の浅井賢政に家督を継がせた。
1560年、賢政は六角家の妻と名を返上し、浅井長政の名に戻ると挙兵した。
家臣は兼ねてからこの時のために準備をしており、また長政も見事な指揮を振るったため大勝を収め、家臣は一気に長政に心酔したという。
1563年、敗戦を機に隠居した六角義賢の跡を継いでいた六角義治(ろっかく・よしはる)は、宿老の後藤賢豊(ごとう・かたとよ)と仲違いし暗殺した。
これにより六角家を離れ浅井家に仕官する者が相次ぎ、戦にも勝利した浅井家は、南近江へと勢力を拡大した。
この頃、織田信長は美濃の攻略にかかっており、浅井家との同盟を目論んでいた。
信長は浅井家の盟友・朝倉家と険悪だったため、家臣の意見は分かれたが、長政は信長の妹・お市を妻として迎え入れた。
信長は大いに喜び、結婚資金を全て用立ててやったという。(通常は嫁入り先の浅井家が負担する)
お市は茶々(ちゃちゃ 後の淀君)ら三姉妹を産むなど夫婦仲は良好だった。
1568年、京を追われ朝倉家に身を寄せていた足利義昭(あしかが・よしあき)は、一向に上洛の意志を見せない朝倉義景(あさくら・よしかげ)に業を煮やし、美濃を制覇した信長によしみを通じた。
信長はすぐさま上洛を決意し、わずか2ヶ月後に出兵すると、浅井軍とともに六角軍を破り、京に入った。
足利義昭は15代将軍へと返り咲き、信長政権が誕生した。
だが1570年、信長は浅井家と交わした「朝倉家との不戦条約」を破り、朝倉家の越前に攻め入った。
それに激怒した浅井家の家臣団は、隠居していた浅井久政を担ぎだすと、金ヶ崎で信長軍の背後を襲った。
信長は窮地に陥ったが、殿を務めた羽柴秀吉の奮戦と、松永久秀(まつなが・ひさひで)が退路を確保したおかげでかろうじて逃げ延びることができた。
この時、お市が信長に両端を縛った小豆袋を贈り、浅井家の裏切りで逃げ場がなくなることを暗に報せたとされるが、真偽は定かではない。しかしこの急襲に長政が関与していないことは確かなようである。
同年6月、浅井・朝倉連合軍は、信長・徳川家康の連合軍と姉川で戦った。
一時は磯野員昌(いその・かずまさ)の猛攻で、織田軍の備え15段のうち13段まで切り崩し、徳川軍の本陣にも迫ったが、反撃にあい浅井・朝倉連合軍は敗走した。
しかし信長と対立した足利義昭による信長包囲網に浅井、朝倉、本願寺、武田、松永久秀、比叡山が加わると、形勢は逆転した。
9月には坂本で織田家の宿老・森可成(もり・よしなり)と信長の弟・織田信治(おだ・のぶはる)を討ち取るも、信長は朝廷を動かして停戦させ、翌年には比叡山を焼き討ちした。
1572年、信長は兵を進め浅井・朝倉連合軍と対峙した。それに対し足利義昭は武田信玄を動かし、徳川領の遠江に侵攻させた。
信長はわずかな援兵しか送れず、信玄は徳川・織田連合軍を三方ヶ原で撃破し、さらに上洛の機会をうかがった。
しかし12月になると積雪を理由に朝倉軍は撤退し、信長も信玄の上洛に備え美濃に引き上げた。激怒した信玄は朝倉軍の再出撃を促したが、朝倉義景は動こうとしなかった。
翌年2月、武田軍は単独で進撃を再開した。だがその矢先、信玄が急死してしまい全軍撤退した。
包囲網の要であった武田家が戦線離脱したことにより、信長は戦力の大半を浅井・朝倉家に向けることができるようになった。
1573年、信長は3万の兵を率い北近江を攻めた。朝倉家の援軍は間に合わず、撤退したところに信長は追撃をかけ、越前を一息に占領し朝倉家を滅ぼした。
さらに反転した信長は浅井家に猛攻を加え、本拠地の小谷城を包囲した。
信長は長政の才を惜しみ、羽柴秀吉らを派遣して降伏を促したが、長政はお市やその子供たちの解放には応じたものの、降伏は拒絶した。
9月、長政は父の浅井久政とともに自害した。享年29歳だった。
信長は長政、久政、朝倉義景の首を並べて酒の肴にしたとも、ドクロに酒を入れて飲んだとも言われるが、実際には信長は酒をたしなまなかったため、創作と思われる。
1632年、長政は徳川家光(とくがわ・いえみつ)の祖父に当たる(家光の母・江姫は長政の三女である)ことから従二位中納言を追贈された。
浅井家を滅ぼした信長や秀吉の血筋が衰亡していった一方で、戦国初期に姿を消した浅井の血が、戦国の覇者・徳川家に連なっているのは、歴史の妙である。
ある日、秀吉は鷹狩りの帰りに観音寺に立ち寄ると、のどの渇きを覚え茶を所望した。応対した小坊主はまず、ぬるめの茶を大きな茶碗に注ぎ差し出した。
おかわりを頼むと、今度は熱めの茶を小振りな茶碗に入れてきた。もう一杯頼むと、熱い茶を小さな茶碗で出した。
最初はのどの渇きを癒すためにぬるくし、それから先は徐々に熱くして茶の味を楽しませようと考えたのだと感心し、秀吉はその小坊主をすぐに召し抱えた。それが三成だというのだが、この逸話は当時の史料には見当たらず、後世の創作と思われる。
1582年、織田信長が本能寺で暗殺されると、その仇を討った秀吉が次の天下人として台頭し、三成も側近として頭角を現していった。
柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正(かとう・きよまさ)、福島正則(ふくしま・まさのり)ら「賤ヶ岳七本槍」にも劣らない活躍を見せ、九州征伐では兵站を担当し、内政でも全国の検地や、堺奉行として辣腕を振るった。
特に困難と思われた九州征伐を短期間で成し遂げられたのは、三成らの働きが大きかったという。
1586年頃には知行の半分(2割とも言われる)を分けるという破格の待遇で島左近を招き、後に佐和山19万石を与えられると「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」とやっかみ半分でうたわれた。
九州平定後には博多奉行として、全国制覇の後には奥州の検地奉行を務めるなど、秀吉の信頼は絶大だった。
小田原征伐の際には、甲斐姫(かいひめ)のこもる忍城を水攻めするも、小田原城の陥落後も落とすことができなかったのが、唯一のつまずきだろうか。
1592年、文禄の役では大谷吉継(おおたに・よしつぐ)、増田長盛(ました・ながもり)とともに総奉行を務めた。
戦況が不利になると、明との講和交渉を担当し無事に退却させたが、本国に残った秀吉との連絡役だったことで、頭ごなしに命令をされていると感じた加藤清正、福島正則らは三成に反発するようになった。
この頃から三成は秀吉の片腕と見なされ、諸大名から一目置かれるとともに機嫌を損ねたらただでは済まないと恐れられており、権力を得た三成も次第に傲慢になっていた。
後方支援を担当し前線に出ない三成と、加藤清正ら武断派の間にあつれきが生じるのは当然だが、先の忍城攻めで失敗していたことで(しかも女に負けている)反感を買っていたのかも知れない。
1595年、秀吉の跡継ぎと目されていた甥の豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)を謀反の嫌疑で糾弾し、最後には切腹させた。
多くの家臣が連座して切腹・改易を命じられたが、諸説あるものの豊臣秀次に謀反の意志はなかったと言われ、またいったんは出家することで許しておきながら改めて切腹を命じ、しかも一族郎党に類を及ぼし首を晒すという非道な行いは、諸大名を動揺させ、豊臣秀次への尋問を担当した三成への反発を強めた。
後の関ヶ原の戦いの際には、この時処罰され、あるいは秀吉の不興を買った大名のほとんどが徳川家康方についている。
同年、蒲生氏郷(がもう・うじさと)を毒殺したともささやかれるが、発病した時には三成は朝鮮におり、これは濡れ衣だろうと思われる。
一方で1596年、京都奉行になりキリシタン弾圧を命じられた時には、捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉をなだめて処刑を思いとどまらせようともしている。
1597年、慶長の役では九州に残り後方支援を担当した。秀吉は筑前などの33万石を与えようとしたが、三成は「自分が九州の大名になっては、大坂で行政をする者がいなくなる」と大幅加増を断った。
その後、朝鮮への大規模な出兵の大将を務めることが内定していたが、1598年に秀吉が没して立ち消えとなり、三成は明との講和と全軍撤退のために奔走した。
秀吉の死後、次の覇権を狙う徳川家康は、加藤清正、福島正則らと無断で縁戚関係を結んでいった。
三成は前田利家(まえだ・としいえ)とともに「秀吉がかつて布告した無断縁組禁止に反する」と家康を弾劾し、裏では家康暗殺を企んだ。
家康もまだ時期尚早と謝罪し、三成らと和睦したものの、前田利家が亡くなると、再び蠢動を始めた。
一方で専横を強める三成と対立する加藤清正、福島正則ら武断派は、大坂の三成の屋敷を襲撃した。
佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)の助けを得て脱出したものの、五奉行からの引退を余儀なくされた。
三成と加藤清正らの間を仲裁した家康はますます勢力を強め、婚姻や領地の配分を勝手に推し進めた。
1600年、三成は上杉家の家老・直江兼続とともに打倒家康の策を練った。
会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が家康に宣戦布告し、家康は諸大名を従えて討伐に向かった。
三成のもとにも親友の大谷吉継が派兵を催促に来たが、三成は家康討伐を唱えた。大谷吉継ははじめは不利を訴え反対したものの、押し切られて協力を誓った。
その際には「君は横柄で傲慢だと上は大名から下は百姓にまで噂されていて人望がない。君が表に出れば豊臣家を守ろうとする者まで家康のもとに去ってしまうだろう。だから毛利輝元(もうり・てるもと)を大将に、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)を副将に立て、君は影に徹するといい」と親友らしい辛辣かつ的確な助言をし、三成もそれに従ったという。
三成は兄・石田正澄(いしだ・まさずみ)を奉行として近江に関所を作り、会津討伐に加わろうとする西国の大名を押しとどめ強引に陣営に組み込んだ。
さらに諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、それに反発するものの手引きで逃げられたり、細川忠興(ほそかわ・ただおき)の妻・ガラシャには拒絶された挙句、屋敷に火を放って自害され、断念せざるを得なかった。
毛利輝元を総大将として担ぎ出すことには成功し、鳥居元忠(とりい・もとただ)の守る伏見城を落としたが、家康軍の帰還が予想よりも早く、地盤固めはうまく行かなかった。
当初は美濃・大垣城での籠城戦を目論んでいたが、西軍で最も多い1万5千を率いる小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が松尾山に布陣したまま動かず、やむなく関ヶ原で野戦を挑んだ。
家康の東軍は、徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)が真田昌幸(さなだ・まさゆき)、幸村に足止めされて到着しておらず、兵力では西軍に劣っていた。
陣形も東軍を包み込むように構え、形勢有利だったが、西軍の多くの大名は家康と内通しており、積極的に動こうとはしなかった。
序盤戦で軍師の島左近が負傷(戦死とも言われる)して戦線離脱し、主力の小早川秀秋が裏切り、それに連動して右翼の諸隊がこぞって東軍に寝返ると、もはや勝機はなかった。
大谷吉継は戦死し、西軍は潰走し三成も命からがら逃走した。
3日後には三成の居城、佐和山城が陥落し、父や一族の多くが討ち死にした。
権勢を振るっていた三成の城ならば贅を尽くしているだろうと思われたが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には植木すらなく、金銀の蓄えも全くなかった。
三成は「奉公人は主君より授かる物を使い切って残すべからず。残すは盗なり。使い過ぎて借金するは愚人なり」という言葉を残しており、まさにそれが実践されていたのだ。
三成は自領の近江の村に潜んでいた。旧知の寺を尋ね、住職に「何か欲しいものはあるか」と聞かれ「家康の首が欲しい」と答えて恐れさせ、かつ呆れさせたという。
いったんは三成を慕う百姓の与次郎に匿われたが、彼が死を覚悟で、類の及ばないように妻を離縁してきたと聞くと、心を打たれた三成は与次郎を説得し東軍に密告させた。
捕らえられた三成は、家康に面会すると「敗戦など古今よくあることで少しも恥ではない」と堂々とし、また処刑直前にのどが渇いたと水を所望し「水はないが柿はある」と言われると「生柿は体に毒だ」と断った。「これから処刑されるのに毒も何も無いだろう」と笑われると「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」と気概を保っていた。
敗戦から1月後、三成は刑場の露と消えた。享年41だった。
余談だが三成は「大一大万大吉」と記された紋を好んで旗印などに用いており、これは「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」といういわゆる「ワンフォアオール・オールフォアワン」という意味だと言われるが、この解釈は近年になってから出てきたものであり、単に縁起の良い文字を重ねただけともされ、鎌倉時代から用いられている古い紋であり、三成のオリジナルというわけではない。
初陣で早くも首級を挙げ、信長の弟・織田信勝(おだ・のぶかつ)との戦いでは宮井官兵衛(みやい・かんべえ)に右目の下を矢で射抜かれながらも討ち取って見せ、戦後の首実検には矢が刺さったまま平然と参加するなど勇猛で、三間半柄(約6m30cm)の朱色の槍をふるい「槍の又左」の異名で呼ばれた。
信長の親衛隊である赤母衣衆の筆頭となり、従妹のまつを妻に迎え、順風満帆かと思われた矢先の1559年、信長の異母弟・拾阿弥(じゅうあみ)と諍いを起こし、信長の面前で斬り殺して出奔した。
柴田勝家らの取りなしで死罪は免れたが、出仕を許されず浪人として各地を渡り歩いた。
1560年、桶狭間の戦いに無断で参加し三つの首を挙げるも帰参はかなわなかったが、翌年の斎藤家との戦いで「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛(あだち・ろくべえ)を討ち取るなどここでも三つの首を挙げ、ようやく出仕を許された。
浪人中に父が亡くなり、長兄の前田利久(まえだ・としひさ)が跡を継いでいたが、前田利久は病弱で子供もいなかったことから隠居させられ、利家が家督を継いだ。
以降は織田軍の主力として重要な戦には必ず参戦し、常に戦功を立てた。
姉川の戦いでは浅井助七郎(あざい・すけしちろう)を討ち取り、信長に「今に始まらず比類なき槍」と讃えられ、石山本願寺との戦いでは味方が敗走する中、ひとり堤の上に踏みとどまって奮戦し「日本無双の槍」、「堤の上の槍」と称賛された。
その戦法は利家いわく「信長流の戦法」で「合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ。わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。信長公がそうであった」と説き、「先手に戦上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」と語っている。
1574年には柴田勝家の率いる北陸方面軍に組み込まれ、越前一向一揆や上杉家と戦ったが、摂津有岡城、播磨三木城、鳥取城攻めなど西国方面の戦にもたびたび駆り出されており、信長の直参という立場にあり続けたようである。
そして1581年、能登23万石の一国を預けられたが、翌1582年に信長が本能寺で横死した。
利家は越中で上杉軍と交戦中で動けず、その間に中国方面から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を討ち、一気に天下人の後継者候補に躍り出た。
織田家の今後を決める清洲会議でも秀吉は主導権を握り、筆頭家老である柴田勝家と対立した。
利家は柴田勝家の与力であったため柴田方についたが、若い頃から隣同士に家を構え、子供のない秀吉夫婦に四女を養女として授けるなど秀吉との親交も深く、板挟みとなった。
1583年、秀吉と柴田勝家はついに賤ヶ岳で激突した。
利家は5千の兵を率いて布陣したが、合戦のさなかに撤退し、秀吉の勝利を決定づけた。
敗走する柴田勝家は利家の城に立ち寄り、撤退には文句を言わず、これまでの労をねぎらい湯漬けを所望しただけで去ったという。
柴田勝家は自害し、秀吉に降伏した利家は、その片腕となった。
北陸方面軍を率い、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)と戦う一方で、紀伊の雑賀攻めや四国征伐にも参加した。
佐々成政が降伏すると、利家は嫡子の前田利長(まえだ・としなが)とあわせ加賀、能登、越中三ヶ国にまたがる百万石となり、越後の上杉家、奥州で台頭する伊達家、関東の北条家との連絡役に任じられ、名実ともに東国方面の総司令官となった。
1588年には関白となった秀吉から、羽柴姓に続き豊臣姓まで与えられている。
秀吉との間柄は表面上は主従関係だったが、互いにお灸を据え合うなど、友人付き合いを続けていた。
1590年、小田原征伐では上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)、真田昌幸(さなだ・まさゆき)を率いて上野、武蔵を攻略した。
派兵の遅れた伊達政宗に対する尋問も利家が担当し、小田原城の開城後には、秀吉は引き上げたが利家は奥州に残り、鎮圧に当たった。
朝鮮出兵では秀吉の母が亡くなり喪に服している間、秀吉に代わって総指揮をとった。
1598年、老齢の利家は前田利長に家督を譲り隠居したが、死の床にあった秀吉に五大老の筆頭に任じられ、表舞台に立ち続けた。
秀吉は死去する際に、利家にくり返し後事を託したという。
翌1599年元旦、利家は病をおして出仕し、幼い秀吉の遺児・豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)を膝に抱き、諸大名の年賀の挨拶に応じ、豊臣秀頼の傅役として大坂城に入るなど、豊臣家の筆頭家老となった。
だが徳川家康は次の天下人の座を狙い、秀吉の禁じた諸大名との婚姻や領地の分配を勝手に始めた。
それに反発する諸大名がそれぞれ、利家と家康の屋敷に集まり、一触即発の空気が流れた。しかし家康は利家健在のうちは不利だと悟り、謝罪して事無きを得た。
この直後、利家の病状は悪化し、臨終の床についた。家康が見舞いに訪れたが、このとき利家は布団の下に抜き身の太刀を忍ばせ、場合によっては家康と刺し違える覚悟だったという。
ほどなく利家は61歳で亡くなった。
家康はすぐに前田家を攻めようとした。前田利長は籠城し援軍を求めたが、拒絶されたため一転して降伏し、本領を安堵された。
天下獲りの最大の障壁となる利家亡き後、家康が表立って動き始め、関ヶ原の戦いを制し覇権を手にするのは翌年のことである。
~利家の人物像~
前田家の決済はすべて利家が自身で行ったといい、愛用のソロバンが家宝として伝わっている。ソロバン自体が当時の日本に伝わったばかりで、それを使えた利家は非常に先見的だったと言える。
織田家を出奔した際の浪人生活で金の大切さを身をもって知ったため「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」と口癖のように言っていた。
そのため妻のまつにはたびたび「吝嗇」とからかわれていたが、秀吉の天下統一後、貧窮する多くの大名に金を貸してやり、遺言では「こちらから借金の催促はするな。返せない奴の借金は無かったことにしてやれ」と命じており、ただの吝嗇漢というわけではない。
浪人暮らしの苦労を思い出しては「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真に信用できる人物だ」と語ったといい、また死の前には「お家騒動はいつも先代の不始末が原因だ。自分の死後、奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ」と言ってありとあらゆる書類に対し花押を押してから没しており、豊臣家中をまとめ上げた気配りの細やかさがしのばれる。
秀吉とは友人付き合いをし、後事を託されもしたが、利家の遺言には織田家への感謝と忠義が記されただけで、豊臣家に対しての言及はない。若い頃に信長と衆道の関係(同性愛のこと。当時の武家の間ではごく一般的に行われていた)にあったことを自慢し、戦法も信長を踏襲するなど、利家の忠義はあくまでも織田家と信長に向いていたと思われ、豊臣秀頼の後見役を請け負ったのも、秀頼が信長の甥に当たるからであろう。
臨終に際して、妻のまつは自ら経帷子を縫い、「あなたは多くの戦でたくさんの人を殺めてきましたから、地獄に落ちるかも知れません」と利家に着せようとした。すると利家は「確かに多くの命を奪ったが、理由なく人を殺したり、苦しめたことはない。だから地獄に落ちるはずがない。もし地獄へ落ちたら、先にあの世に行った者どもと、閻魔を相手に戦ってくれよう。その経帷子はお前が後からかぶって来い」と拒んだ。
また一説によると死の床であまりの苦痛に腹を立て、切腹して果てたとも言われる。
数々の武功から加藤清正(かとう・きよまさ)ら武断派はもちろんのこと、内政手腕も高く、石田三成ら官僚にも慕われ、また畏敬の念を持たれていたため、徳川家康も利家の人望と才覚を恐れ、利家が没するまでは天下獲りの野望を表に出すことができなかった。
もし利家の存命中に挙兵していれば、家康は豊臣家の全てを敵に回し、孤立していたに違いないだろう。
利家は天下人となれる器ではなかったが、群雄割拠の戦国時代でも、天下をまとめ上げることのできる、数少ない大人物の一人であった。
駿河の守護代・今川氏親(いまがわ・うじちか)の五男として生まれる。すでに兄の今川氏輝(いまがわ・うじてる)が跡継ぎと決められていたため、義元は4歳にして出家させられ、京で太原雪斎(たいげん・せっさい)の薫陶を受けた。
だが1536年、今川氏輝ともう一人の兄が相次いで亡くなり、義元に継承権がめぐってきた。
家督争いが起こったが、義元は太原雪斎ら多くの家臣に擁され、北条家の支援も受けて優勢となり、対抗馬の兄を自害に追い込み今川家を継いだ。
1537年、義元は甲斐の武田信虎(たけだ・のぶとら 武田信玄の父)の娘を正室に迎え、武田家と同盟を結んだ。
しかし義元の家督相続に協力し、もともとの盟友でもある北条家の不興を買ってしまい、両家は激しく争うこととなった。
さらに尾張から織田信秀(おだ・のぶひで 織田信長の父)が来襲し、窮地に陥った義元は、北条家と敵対する上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)と同盟し、武田家とともに北条家を挟み撃ちする策に打って出た。
あわてふためいた北条家は今川家と和睦した。
東方の脅威を退けた義元は、三河の攻略に乗り出した。
松平広忠(まつだいら・ひろただ 徳川家康の父)を降伏させ、松平竹千代(まつだいら・たけちよ 後の徳川家康)を人質として預かろうとしたが、護送する戸田家が裏切り、竹千代を織田家に送り届けてしまった。
激怒した義元は戸田家を滅ぼし、さらに織田軍を撃破して三河から駆逐した。
1549年、松平広忠が死去すると、松平家の居城・岡崎城を接収した。さらに織田信秀の子を捕らえ、人質交換で松平竹千代を奪回した。
1551年に織田信秀が死去し、織田家は家督争いを始めたため、その隙に義元は着々と三河の地盤を固め、尾張への侵攻の機会をうかがった。
1554年には北条家と縁組し、今川・武田・北条の三国同盟を結成し後顧の憂いを断つと、1558年、嫡子の今川氏真(いまがわ・うじざね)に家督を譲り駿河・遠江を任せ、義元自身は三河の経営と尾張攻略に専念するようになった。
1560年、義元は2万5千の大軍を率い尾張に攻め込んだ。
織田軍に包囲された大高城を松平元康(まつだいら・もとやす 後の徳川家康)に奪回させ、主力を大高城に移し、義元の本隊は悠々と後方を進んだ。
だがその途上、桶狭間の山上で休息中に織田信長自ら率いる一軍に強襲され、本隊は壊滅し義元も討ち取られた。
このとき、義元に一番槍をつけた服部一忠(はっとり・かずただ)、義元の首級を上げた毛利良勝(もうり・よしかつ)はともに信長の身辺警護をする馬廻りや小姓であり、信長自身が義元に肉薄していたと思われる。
死後、松平元康は三河で独立を果たした。
今川氏真に駿・遠・三の大国を切り回す才覚はなく、今川家は瞬く間に勢力を衰えさせ、わずか8年後に滅亡することとなる。
~義元の人物像~
義元はゲーム『戦国無双』などで代表されるように、公家趣味の惰弱な人物として描かれがちである。
たしかに京で若い頃を過ごした義元は公家文化に通じており、都の戦乱を逃れた公家を保護し、自身もお歯黒や公家の化粧を好み、連歌に親しんだという。
だがそれは義元の文化的素養の高さを示していることであり、当時は戦場に臨む武士が死んで首だけになっても恥をかかないようにと化粧を施すことも珍しくなかった。
出家していたため訓練を受けられず武勇に優れなかったというが、桶狭間での最期の折には(火事場の馬鹿力という側面もあるだろうが)、一番槍をつけた服部一忠の膝に斬りつけて撃退し、首を取られた毛利良勝の指を食いちぎるなど激しい抵抗を見せている。
義元の時代に今川家は最大勢力を誇っており、駿・遠・三にまたがるこれほどの大勢力は同時代にほとんど見当たらない。
人質時代の家康に辛く当たったともされるが、義元は織田家からわざわざ家康を奪回し、自身の師でもある太原雪斎を教育係につけ、さらには自分の姪を家康に嫁がせ、長じると松平家を率いさせており、むしろ従属勢力としてそれなりの待遇を与えていたように思われる。
家康も没落した今川氏真を保護して扶持を与え、晩年には人質時代を過ごした駿府城に隠居しているなど、今川家に対する敵意は薄いように思われる。
おそらくは織田信長、徳川家康が英雄として美化されていく過程で、信長飛躍のターニングポイントとなった桶狭間の戦いで敗れた義元の人物像がおとしめられていったのだろう。
~桶狭間の戦い~
旧来、義元は桶狭間の盆地に布陣していたところに、本隊の居所の情報を得た信長の奇襲を受けたと言われてきたが、近年の研究から、信長の攻撃は奇襲ではなく正面攻撃であったと考えられている。
義元は上洛を目指して大軍を催したともされるが、これも大高城の奪還と、その周囲の砦を落とし国境線を固めることが目的で、上洛の意図はなかったようだ。
また義元の本隊は山上に布陣しており、信長軍の動きに気づかなかったわけがない。信長も相手が義元の本隊だったと知っていた節もなく、信長としては目の前の一軍を叩けば、今川軍は無理をせず撤退するだろうと考え、強襲をかけたと思われる。
対する今川軍はまさか兵力で劣る相手が(このとき信長軍はせいぜい3千程度であり、義元の本隊よりも少なかっただろう)、それも山上に向かって攻撃を仕掛けてくるとは思わず、油断していた面はあっただろう。
今川軍は混乱を起こし、やがて相手が義元の本隊だと気づいた信長が一気呵成の攻めに転じ、首尾よく義元の首を上げた、というのが桶狭間の戦いの本当の姿ではなかろうか。
服部保長(はっとり・やすなが)の四男として生まれる。服部家は伊賀の土豪だったが、家康の祖父・松平清康(まつだいら・きよやす)が上洛した折に服部保長と知り合い、意気投合して家臣となり三河に移り住んだという。
半蔵は服部家を継ぐと、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど多くの戦で戦功を立て、やがて伊賀衆を預けられるようになった。
1579年、織田信長に家康の嫡男・松平信康(まつだいら・のぶやす)が切腹を命じられた際、半蔵は介錯役となった。だが半蔵は「祖父から三代仕える主君に刃は向けられない」と号泣し、介錯することができなかった。
それを聞いた家康は「鬼の半蔵でも主君は斬れぬか」と心を打たれ、より一層、信頼を置くようになった。
1582年、本能寺で織田信長が暗殺された時、家康は信長の招きで京を旅しており、わずかな供しか連れていなかった。
すでに明智光秀の手が回り、退路を失った家康は切腹を覚悟したが、本多忠勝らの説得で伊賀を越えて脱出することを決意した。
半蔵は地の利を生かし、茶屋四郎次郎(ちゃや・しろうじろう)とともに伊賀・甲賀の土豪と交渉して退路を確保し、無事に家康を逃した。この時、家康に同行した伊賀・甲賀衆はのちに同心として取り立てられている。
半蔵は小牧・長久手の戦い、小田原征伐でも功を立て、遠江に8千石の知行を得て、伊賀忍者を統率する立場となった。
ちなみに以降、服部家の跡取りは、忍者の統率役とともに半蔵の名を継いでいる。
1596年、半蔵は没すると江戸の西念寺に葬られた。そこは半蔵が生前に松平信康の菩提を弔うために創建した寺の後身である。生涯を通じて徳川家に忠誠を尽くした半蔵にふさわしい、安住の地であった。
美濃の出身で、斎藤道三(さいとう・どうさん)に仕え、その息子の斎藤義龍(さいとう・よしたつ)との争いが起こった時、斎藤道三に味方して敗れたため、国を追われたとされるが、前半生はよくわからない。
その後は越前の朝倉義景(あさくら・よしかげ)に仕える。京を追放された足利義昭(あしかが・よしあき)が朝倉家を頼ってくると、縁戚関係にある光秀が接待役となった。
足利義昭は復権のため朝倉義景に再三、上洛を促したが、良い返事はもらえなかった。業を煮やした足利義昭は、美濃を落とし台頭しつつあった織田信長によしみを通じようとし、信長の正室・濃姫の従兄でもある光秀を遣わせた。
信長はすぐさま上洛を決意し、2ヶ月後には出陣して京に入り、足利義昭を征夷大将軍に返り咲かせた。
だが傀儡の立場に嫌気がさした足利義昭は信長と対立し、各地の大名に号令を掛け「信長包囲網」を敷いた。
その頃から光秀は足利義昭のもとを離れ、信長に仕えることとなる。
比叡山焼き討ち、石山本願寺、荒木村重(あらき・むらしげ)、松永久秀(まつなが・ひさひで)ら近畿勢との戦いで武功を立て、丹波を攻略すると近江の一部と丹波一国のあわせて34万石を与えられた。
それと同時に丹後の細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)、大和の筒井順慶(つつい・じゅんけい)ら近畿の諸大名の指揮も務め、計240万石もの所領を任された。そのため近年では「関東管領」になぞらえ光秀を「山陰・畿内管領」と呼ぶこともある。
京から東海道と山陰道へ至る分岐点を領地としたことからもわかるとおり、織田家での地位は重きを置かれ、信長の直属部隊、親衛隊の立場にあった。
しかし1582年、中国地方の征伐を進める羽柴秀吉(はしば・ひでよし)の援軍として行軍する途上、「敵は本能寺にあり」と突如として本能寺に泊まった信長を襲撃する。
このとき、雑兵には攻撃相手を知らせず、謀反とは気づかせなかったと言われ、京に滞在していた徳川家康を信長の命令で暗殺するのだと考えた者もいるという。
光秀軍1万3千に対し信長軍はわずか100人足らずで、抗すすべはなかった。奮戦の末に信長は火を放ち自害したが、遺体は見つからなかった。
濃姫、森蘭丸らも最期を共にし、二条御所にいた信長の嫡男・織田信忠(おだ・のぶただ)や京都所司代・村井貞勝(むらい・さだかつ)も討ち取られた。
光秀は京をおさえたが、与力であり縁戚関係にもある細川藤孝、筒井順慶らは事態の様子見に徹し、挙兵要請に応じなかった。
北陸の柴田勝家、関東の滝川一益(たきがわ・かずます)らは敵を前にして動けなかったが、中国の羽柴秀吉は相対する毛利家と素早く和睦を結ぶと、のちに「中国大返し」とうたわれる迅速な全軍撤退を見せ、本能寺の変からわずか11日後に畿内に引き返し、山崎で明智軍と対峙した。
秀吉軍は畿内の織田信孝(おだ・のぶたか)、丹羽長秀(にわ・ながひで)、池田恒興(いけだ・つねおき)、高山右近(たかやま・うこん)、中川清秀(なかがわ・きよひで)らと合流し、明智軍の倍にも膨れ上がった。
昼夜を徹して引き上げてきた秀吉軍の疲労は濃く、信長急死の直後で統制もとれていなかったが、秀吉の軍師・黒田孝高(くろだ・よしたか)が天王山を占領すると兵力差はいかんともし難く明智軍は敗走した。
同日深夜、居城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓によって光秀は討たれたという。
~本能寺の変~
なぜ信長を裏切ったかという理由は不明で、日本史上の最大の謎の一つである。
光秀の背後には黒幕がいたとされ、まるで事前に暗殺を知っていたかのように迅速な撤退を見せた羽柴秀吉や、京に滞在していた徳川家康、依然として影響力を持っていた足利義昭、信長の台頭を恐れた朝廷、はては濃姫、森蘭丸など多くの名が黒幕の候補として挙げられ、光秀謀反の動機を描くことは作家の腕の見せ所である。
秀吉にあっという間に討たれたことから俗に三日天下と揶揄されるが、光秀が決起するタイミングは決して悪くなかった。
光秀に対抗しうる戦力を持つ柴田勝家、滝川一益、秀吉らはそれぞれ遠く離れた任地で敵を抱え動くことができないはずであった。
徳川家康もほとんど単身で京に滞在中であり、一時は切腹を覚悟するほどの窮地に追い込まれており、服部半蔵らの尽力がなければ帰路に討たれていた可能性も高い。
四国の攻略にかかる前だった織田信孝などは畿内にいたにも関わらず、秀吉が来るまでは光秀討伐に動けず、従兄で光秀の婿である津田信澄(つだ・のぶすみ)を暗殺するなど仲間割れを起こす始末だった。
その間に光秀は着々と畿内を固め、戦力を集める予定だった。最初は挙兵に難色を示した細川藤孝、筒井順慶らもやがては光秀の麾下に参じただろうし、信長の三男・織田信孝や乳兄弟の池田恒興、譜代の重臣の丹羽長秀らはともかくとして、高山右近、中川清秀らが光秀に与する目は十分にあった。
ここは神業とも言える撤退を見せた秀吉を褒めるべきで、たとえばあと数日でも秀吉の到着が遅れていれば、事態がどう動いたか定かではないだろう。
~人物像~
非常に部下思いで、戦死した家臣を丁重に弔い、寺にたびたび寄進米を送ったとされ、このような例は同時代にほとんどないという。
そのためか本能寺の変ののちも、主君を討っておきながら光秀のもとを離れようとする家臣はほとんどいなかった。
愛妻家でもあり正室・熙子(ひろこ)の他に側室は置かなかった。結婚前、熙子は疱瘡を患い顔に醜いあざが残ってしまった。父は熙子にそっくりな妹を光秀に嫁がせようとしたが、光秀はそれをすぐに見抜くと、「私は熙子を妻にしたいのだ」と何事もなかったようにめとったという。
これは同様の話が高橋紹運(たかはし・じょううん)の嫁取りとして伝わるため創作とも言われるが、光秀と親しかった吉田兼見(よしだ・かねみ)の日記(当時の一級史料とされる)に夫妻の仲が睦まじかったことが何度も記されている。
一方でルイス・フロイスは光秀を「裏切りや密会を好む」、「人を欺く手段に長けることを自慢とした」、「余所者であり誰からも信用されなかった」とも記しており、その狷介な性情や織田家中での微妙な立場が透けて見える。