三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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真田幸村(さなだ・ゆきむら)
信濃の人(1567~1615)
真田昌幸(まさゆき)の次男。大坂夏の陣の奮戦ぶりから「真田日本一の兵」とうたわれ、創作で盛んに取り上げられたため、戦国時代でも屈指の人気を誇る。
「幸村」の名は江戸時代の軍記物語が出典であり、存命の頃の史料には見当たらず、本名は真田信繁(さなだ・のぶしげ)とするのが正しい。
が、あまりに幸村の名が広まりすぎたため、現在では家系図もさかのぼって幸村と改められているという。
祖父・真田幸隆(ゆきたか)、父・真田昌幸はともに武田家に仕えた。特に真田幸隆は軍師格であった。
真田昌幸は三男であり、武藤家に養子に出されていたが、長篠の戦いで二人の兄が戦死したため、真田家に戻り家督を継いだ。
1582年、武田家が織田信長によって滅ぼされると、真田家は信長に降伏し所領を安堵された。
だが間もなく信長も暗殺されると、武田家の旧臣が蜂起し、織田勢力を駆逐したため、信濃や上野は空白地となり、徳川、北条、上杉の三家がにらみ合いとなった。結局、まず他国侵略を嫌う上杉家が撤退し、北条家も真田軍のゲリラ戦に手を焼いて兵を引いたため、信濃は徳川家の支配下に置かれた。
しかし1585年、真田家は独立を果たすと、信長の跡を継ぎ台頭した羽柴秀吉方についた上杉家に帰属した。このとき、年若い幸村は人質として上杉家に預けられた。
やがて幸村の身柄は秀吉の居城・大坂城に移された。そこで目をかけられ豊臣家の重臣・大谷吉継(おおたに・よしつぐ)の娘をめとり、さらに豊臣の姓を与えられて従五位下左衛門佐に叙任された。
だがこの頃の幸村の足跡は、人質生活のせいかほとんど伝わっていない。
1600年、すでに秀吉は亡く、頭角を現した徳川家康と、豊臣家を守らんとする石田三成との間で決戦の幕が開かれた。
幸村は父とともに西軍(三成方)に加勢し、家康の腹心・本多忠勝の娘(稲姫)をめとっていた兄の真田信之(は東軍(家康方)につき、真田家は二つに分かれて争うこととなった。
東軍は東海道と中山道の二路から西上したが、中山道を進む徳川秀忠軍に対し、真田家は居城の上田城に立てこもって応戦した。
兵力差は10倍以上あったが、城を攻め落とすことはできず、甚大な被害を出したうえに関ヶ原の本戦に間に合わず、家康に叱責されることとなった。
しかし石田三成は大敗し、西軍に加わった諸大名はことごとく処罰された。
幸村父子も本来ならば切腹を命じられるところだったが、真田信之や本多忠勝のとりなしにより、高野山へ蟄居で許された。
1614年、徳川家との仲が険悪となり、討伐を恐れた豊臣家は多くの浪人を集めた。
すでに父・真田昌幸を失っていた幸村のもとにも使者が来ると、幸村は山を脱出し、真田家の旧臣を集めて大坂城に入った。
真田軍は旧主・武田家の名将・山県昌景(やまがた・まさかげ)にあやかってか武装を赤で統一し「真田の赤備え」とうたわれた。
その冬、ついに徳川家との間で戦端が開かれると、幸村は大勢を占める籠城策に反対し、京を制圧し近江まで打って出る強硬策を提案した。しかし多くの浪人たちが支持したものの、結局は籠城策と決まった。
すると幸村は大坂城の唯一の弱点とされる三の丸への布陣を自ら望み、「真田丸」と呼ばれる土作りの出城を築くと、攻め寄せた徳川軍に大打撃を与え、幸村の名は一躍広まった。
業を煮やした家康は攻城戦を諦めると、夜間に大砲で天守閣を狙い撃ち、鬨の声を挙げさせて豊臣軍を眠らせないようにした。
豊臣秀頼(とよとみ・ひでより 秀吉の子で豊臣家の当主)の母・淀君(よどぎみ)ら女官は戦々恐々となり、たまらず和睦を申し出た。
家康は大坂城の堀を埋め立て、真田丸を取り壊すことを条件に和睦を受け入れた。
翌1615年、再び徳川家と豊臣家の間が緊張すると、家康は幸村の叔父・真田信尹(のぶこれ)を派遣し、十万石で寝返るよう幸村を説得させた。
断られると今度は信濃一国(四十万石)を与えると言ったが、幸村は「私が十万石では不忠者にならぬが、一国なら不忠者になるとお思いか」と拒絶した。
そして大坂夏の陣、堀を失い籠城策をとれない豊臣軍は野戦に出向かざるを得なかった。
幸村は毛利勝永(もうり・かつなが)、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)らとともに先陣を務めたが、濃霧のために行軍の足が鈍り、その間に突出した後藤又兵衛は戦死してしまった。
幸村は責任をとって斬り死にしようとしたが、毛利勝永に「ここで死ぬよりも、秀頼様の前で華々しく死のう」と説得され、損害を恐れ及び腰の伊達政宗軍を返り討ちにすると「関東には百万の兵がいても、男は一人もいないのだな」とあざ笑い、悠々と撤退した。
兵力差は圧倒的で、豊臣方の主だった武将も次々と討ち取られた。
幸村は起死回生の策として、秀頼の出陣を乞うたが、淀君や側近の反対によって阻まれた。
ならばと毛利勝永とともに挟撃して家康の本隊を孤立させ、明石全登(あかし・てるずみ)に本隊を狙わせようとしたが、それも毛利隊の前衛が勝手に動いてしまったため、失敗に終わった。
幸村は「戦はこれで終わった。あとは家康の首だけを狙い、快く戦おう」と言うや、家康の本陣に突撃した。
毛利、明石両隊もそれに加わると、あまりに大軍過ぎて連携に難のあった徳川方は対応しきれず、真田勢の数倍の旗本は蹴散らされてしまい、家康の馬印は倒され、二度も自害を覚悟するほどだった。
同時に徳川秀忠の本隊も襲われ、身辺警護を務める柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)が数人を斬り伏せてどうにか退けたほどの窮地に陥れた。
ちなみに家康の馬印が倒されたのは、武田信玄との三方ヶ原の戦い以来のことである。
しかし家康の旗本が態勢を立て直すと、もはや幸村に勝機はなく、負傷兵の手当てをしているところを襲われ、首を取られた。享年49。
この奮闘で幸村ら真田軍は「真田日本一の兵」とうたわれることとなった。
家康は後に「あの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい」と称賛し、諸将は武勇にあやかろうと、幸村の遺髪を奪い合ったという。
幸村の死の翌日、大坂城は落ち豊臣家は滅亡した。
だが幸村は生き延び、豊臣秀頼らをつれて密かに脱出したという噂がまことしやかにささやかれた。
わずかな手勢で天下人の家康を追い詰めた幸村の勇姿は、その後も「真田十勇士」などで民衆の心に残り、現在もなおファンを増やし続けている。
~幸村の人物像~
兄の真田信之によると、幸村は武将らしからぬ柔和で穏やかな性格で、いつも物静かにして怒ることがなく、大坂の陣ではあまりに泰然自若としていたため「浪人の分際で生意気だ」と罵られたほどだという。
また後藤又兵衛の家臣の記録では、体格は小柄であったとされる。
幸村の活躍は江戸時代の早くから講談などで盛んに取り上げられた。敵対した徳川政権も「主君に殉じた忠臣」を描くのを良しとして、それを容認した。
うがった見方をすれば、関ヶ原の戦いの際に徳川秀忠が敗れたことや、大坂の陣でも危機に陥ったことを、幸村が並外れて勇猛だったという理由を付けることで、言い訳としたのだろう。
なお巷に膾炙される大坂の陣での幸村の戦功には、毛利勝永のものが多く含まれており、物語上では二人分の戦功がほとんど幸村のものとなってしまっている。
毛利勝永は現在でも無名で、早くも江戸時代中期の文人にも「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」とその不憫さを哀れまれている。
真田軍は「赤備え」と言われる赤で統一した装備で知られるが、幸村自身も朱色に塗った十文字槍をあやつった。
また真田家の家紋であり旗印としても用いられた「六文銭(六連銭)」は非常に著名である。
これは三途の川の渡し賃で、棺に入れられる六文の銭のことで、転じて命を惜しまず戦い抜くという意味である。
真田昌幸(さなだ・まさゆき)
信濃の人(1547~1611)
武田家に仕えた真田幸隆(ゆきたか)の三男。真田信之・幸村兄弟の父。
7歳で臣従する武田家への人質となり、早くから武田信玄に才を見込まれた。
後に信玄の母方の一族である武藤家の養子となり武藤喜兵衛(むとう・きへえ)を名乗った。
川中島の戦いにも参戦した、信玄の嫡子・武田勝頼(かつより)に嫡子が生まれると重臣たちと並び祝賀の使者として送られた、などとされるがいずれも確かな史料はない。
また三方ヶ原の戦いでは敗走した徳川軍への追撃に反対したという。
1574年、父が没すると長兄の真田信綱(のぶつな)が家督を継いだ。
だが翌1575年、長篠の戦いで信綱と次兄の真田昌輝(まさてる)が揃って討ち死にしたため、昌幸は真田家に戻り家督を継いだ。
信玄もすでに亡く、跡を継いだ武田勝頼は昌幸ら父の代からの旧臣を厚遇しなかった。
1582年、勝頼も織田軍に敗れて没すると、昌幸は織田信長に降り本領安堵された。しかし同年、信長が本能寺で討たれ甲斐・信濃の旧武田領から織田勢力は撤退し、周囲の徳川・上杉・北条家は激しい領土争いを始めた。
昌幸もこの機を逃さず、武田家の残党を集め勢力を拡大し、織田軍の撤退に協力し恩を売ったり、徳川・上杉・北条の傘下を転々とした末に徳川家のもとに落ち着いた。
1583年には上田城を築き居城に定め、翌1584年、小牧・長久手の戦いが起こると家康の目が西に向いた隙に版図を広げた。
領土を奪われた北条家は同盟者の家康に返還を求めたが、昌幸は代替の領地をもらわなければ承諾できないと断り、ついには次男の真田信繁(幸村)を人質に出し上杉家に鞍替えした。
激怒した家康は鳥居元忠(とりい・もとただ)ら7千の兵に上田城を攻めさせたが、昌幸は1/3足らずの2千の兵力で徳川軍をさんざんに打ち破った。徳川軍の被害は死傷者2千にも及び、この大勝により真田家の名は一躍全国に轟いた。
1585年、昌幸は信繁を上杉家の盟主である豊臣家に送り、豊臣秀吉に臣従した。
家康も豊臣家に膝を屈すると、真田家は秀吉の命により徳川家の与力大名として付けられた。
1590年、北条家が真田領の城を落としたのを契機に、秀吉は全国の大名に小田原征伐を命じた。昌幸は上野攻略を任されると「上野国中にことごとく放火つかまつる」と応じ、北条方の城を次々と奪取。南下し石田三成と合流すると忍城を囲んだが、甲斐姫らの抵抗により落とせなかった。
その後は所領を安堵され、信繁にも別に領地を与えられるなど秀吉からの信頼厚く、関東に移封された徳川家への睨みを利かした。
1598年、秀吉が没すると家康が台頭した。
1600年、それに反発する上杉家が公然と反旗を翻し、家康が討伐に向かうと石田三成が旧豊臣方を結集し蜂起した。
昌幸はかつて三成から「表裏比興(卑怯)の者」と評され(現代では卑怯と書くが老獪・策士という表現に近い)ていたものの縁戚にあり、また家康との長年の宿怨から西軍につくことを決めた。
だが徳川家の重臣・本多忠勝の娘(稲姫)をめとっていた長男の真田信幸(のぶゆき)は東軍につくよう命じた。これは東西両軍に分かれて家名存続を図るための方策でもある。
昌幸は上田城に帰る途中、信幸の治める沼田城に立ち寄り、稲姫に「孫の顔が見たい」と申し出た。稲姫は昌幸が城を奪うつもりだと見抜くと、逆に真田一族を歓待と称して城内に招き人質に取ったため、昌幸は「さすが本多忠勝の娘だ」と笑って引き返した。
なお稲姫は子供を連れてその後を追い、孫の顔は見せてやったと伝わる。
東軍は二手に分かれて進撃し、3万8千を率いる家康の後継者・徳川秀忠は上田城に差し掛かると信幸を送り昌幸に降伏を促した。
だが昌幸はいったんは受け入れる振りで時間を稼ぐと、土壇場になってから約束を反故にした。
激昂した秀忠は軍師・本多正信(ほんだ・まさのぶ)の忠告を無視して全軍に城を攻めさせたが、昌幸の備えは万全で、時には籠城を、時には奇襲を仕掛けと翻弄し、徳川方の史料にさえ「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」とまで記される大損害を与えた。
家康が送った上洛を促す使者が利根川の増水で足止めされ秀忠への連絡が遅れたことや、また戦力温存のために当初から本戦には遅れて行く予定だったともされるが、ともあれ昌幸の抵抗が秀忠の進軍を遅れさせたことは疑いない。
西軍敗退の連絡を受けてもなお真田家は抗戦を続けたが、ついに諦め降伏開城した。
家康は昌幸・幸村父子に死を命じたが、信幸と本多忠勝の嘆願により、高野山への蟄居と引き換えに助命し、旧真田領は信幸に与えられた。
昌幸は高野山に発つ際、号泣しながら「家康をこのような目にあわせてやるつもりだったのに」と信幸に語ったという。
高野山での暮らしは困窮していたが、真田信之と改名した長男からの援助もあり、また昌幸・幸村や家臣の屋敷を別々に造られるなど他の流人よりは厚遇され、京や紀伊への外出も監視付きで許されていた。
しかし10年あまり続いた配流生活は昌幸の気力・体力を次第に奪っていき、病を得て1611年に65歳で没した。
1614年、大坂冬の陣で家康は、豊臣家に真田軍が加わったと聞くと「親の方か? 子の方か?」と震えながら尋ねたとされる。
謀将・真田昌幸の死をそれすらも謀略の一環と疑っており、無名の幸村の方だと聞くと安堵したという。
だが大坂の陣で幸村は父に勝るとも劣らない謀略と采配で「真田日本一の兵」とうたわれるほどの活躍を見せ、家康の心胆を寒からしめるのだった。
武田勝頼(たけだ・かつより)
甲斐の人?(1546~1582)
平安時代から続く甲斐武田家の最後の当主。武田信玄の四男。
母の生家の諏訪家は武田家に滅ぼされており、旧臣に対する懐柔策として信玄は諏訪家から側室を迎えたと思われる。
庶子ということもあり幼少期の記録はほとんど残されていない。
1562年、諏訪家を継ぎ諏訪勝頼(すわ・かつより)を名乗る。
初陣で敵将を自ら組み伏せて討ち取り、その後も主要な戦のほとんどに参戦しては一騎打ちをたびたび行うなど武勇に優れた。
1565年、信玄の嫡子・武田義信(よしのぶ)の家臣が信玄暗殺を企んだ罪で処刑され、義信も自害に追い込まれた。
次男の海野信親(うんの・のぶちか)は生まれつき盲目で出家しており、三男は夭折していたため四男の勝頼が代わって嗣子に立てられた。
1573年、信玄が西上作戦のさなかに急死すると、勝頼は武田姓に復し家督を継いだ。だが信玄の遺言で数年はその死を伏せ、信玄の隠居による家督相続と触れ回ったという。
信玄の死により窮地を脱した織田信長・徳川家康は反撃に転じ、武田家も加わっていた「信長包囲網」を打ち破った。
対する勝頼も積極的に勢力拡大に努め、東美濃や東遠江に版図を広げた。
1575年、勝頼は1万5千の大軍で、徳川家に寝返った奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)の長篠城を囲んだ。
だが信昌はわずかな兵で持ちこたえ、ついに信長自ら率いる織田・徳川連合軍3万8千が設楽原に到着した。
兵力差と、連合軍が設楽原に築いた強固な陣に危機を感じた重臣らは撤退を進言したが、勝頼はそれを退け正面から戦いを挑んだ。
しかし武田軍は連合軍の防御壁を破れず、馬場信春(ばば・のぶはる)、山県昌景(やまがた・まさかげ)、原昌胤(はら・まさたね)、真田信綱(さなだ・のぶつな)・昌輝(まさてる)兄弟、土屋昌次(つちや・まさつぐ)、三枝守友(さえぐさ・もりとも)ら多くの重臣が戦死した。その多くは撤退戦のさなかに討ち取られ、武田軍の退路に沿って点々と戦死地が記録されている。
死傷者1万人とも言われる壊滅的な惨敗を喫した武田家は以降、劣勢を強いられる。
勝頼は北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の娘を後室に迎えるなどし北条・上杉との三国同盟を狙った。
1578年、上杉謙信が没すると氏政の弟で謙信の養子になっていた上杉景虎(うえすぎ・かげとら)と、やはり養子で謙信の甥・上杉景勝(かげかつ)との間で後継者争いが起こった。
勝頼は北条家に要請され景虎を支援する兵を出したが、景勝に上杉領の割譲を条件に和睦を申し込まれるとそれを受諾し、兵を引き上げ中立の立場をとった。
結果、勝利した景勝が後継者の地位をつかみ、景虎は自害に追い込まれたため北条家は激怒し、同盟を破棄すると徳川家と結び、武田家を挟撃した。
勝頼は妹を景勝に嫁がせ上杉家と同盟し、さらに北条家の背後を脅かす佐竹・里見家らと連携し対抗した。
織田家との関係修復のため、信玄時代に人質にとっていた信長の五男・織田勝長(かつなが)を返還したが、信長はすでに武田家征伐の準備を進めていたためこれを拒絶した。
1581年、徳川軍に包囲された高天神城を勝頼は見殺しにし、岡部元信(おかべ・もとのぶ)ら城兵は皆殺しとなった。
家康は勝頼の無慈悲さを強調するためあえて降伏を許さなかったとされ、事実これにより勝頼の名は地に落ちた。
勝頼は侵攻に備え防備を整えたが、これも労役を強いられた国人衆の反発を招き、織田・徳川方への寝返りが続発した。
1582年、木曽義昌(きそ・よしまさ)も寝返ると勝頼は激怒し討伐軍を送り込んだが、大雪に道を阻まれ、地の利に勝る木曽軍に大敗を喫した。
これを好機と見た織田・徳川・北条連合軍は一斉に武田領に攻め込み、さらに折悪しく浅間山が噴火した(東国で異変が起こる前兆とされていた)ため、武田軍は浮足立った。
勝頼の叔父・武田信廉(のぶかど)はろくに抵抗もせず要害を捨て逃亡、下条家は家老が当主を追放して織田軍に降伏し、小笠原家・依田家らも相次いで寝返り、ついには一族の重鎮だった穴山信君(あなやま・のぶきみ)まで裏切ると、武田軍は戦わずして崩壊した。
抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟・仁科盛信(にしな・もりのぶ)と母の実家の諏訪頼豊(よりとよ)くらいで、特に諏訪頼豊は勝頼から冷遇され、家臣からはこの機に諏訪家を再興するよう促されていたにも関わらず、果敢に木曽軍に戦いを挑み討ち死にしたという。
勝頼は多大な労役を課し国を傾けてなお未完成だった新府城に火を放ち、重臣・小山田信茂(おやまだ・のぶしげ)のもとへ逃亡した。
だが信茂もまた織田家に寝返り退路を塞がれたため、勝頼は天目山で自害を遂げた。享年37。
その後、江戸時代になり武田家は勝頼の兄・海野信親の子孫によって高家(貴族)として再興された。
徳川家康に仕え忍者を統率した服部正成(まさなり)の父。いわゆる初代服部半蔵。
当時の伊賀忍者は千賀地(ちがち)、百地(ももち)、藤林(ふじばやし)の「伊賀三大上忍」が統率していたが、生活に困窮しており、保長は旧姓の服部に復すと伊賀を出て第12代将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)に仕えた。
だが将軍家もまた権威を失い、京の都は荒れ果てており、見切りをつけた保長は三河へと下り松平清康(まつだいら・きよやす)に仕えた。
清康は優れた軍才で三河を統一し、尾張へと兵を進めたものの1535年、家臣に暗殺され松平家は一気に衰退した。
その間の保長の動向は不明で、そもそも千賀地家の伝承では松平家に仕えず伊賀に戻ったと記されるなど、確かな事績はわからない。
その後、服部家が再び世に出るのは、清康の孫・徳川家康のもとで服部正成が活躍してからのことである。
太原雪斎(たいげん・せっさい)
駿河の人(1496~1555)
今川家の軍師にして臨済宗の僧侶。
今川義元は5男のため幼くして寺に預けられ、雪斎のもとで修行を積んだ。
だが父、長兄、次兄が相次いで没し、3男と義元の間で家督が争われると、雪斎は義元の片腕として活躍し、ついに3男を自害に追い込み、義元は還俗して今川家を継いだ。
雪斎は軍事・政治・外交など全面的に義元を支え、武田家との関係を修復し、東では北条家の侵攻を防ぎ、西では織田家を破るなど大車輪の活躍を見せた。
また織田信長の庶兄・織田信広(おだ・のぶひろ)を捕縛し、織田家の人質に取られていた松平竹千代(まつだいら・たけちよ 後の徳川家康)を人質交換で取り戻したのも雪斎である。
1550年には武田信玄の子・武田義信(たけだ・よしのぶ)に義元の娘を嫁がせ、1554年には北条家を交えて今川・武田・北条の三国同盟を締結させた。
その際には義元、信玄、北条氏康の三者が雪斎が住持を務める善得寺に集まったとされるが、これは伝承の域を出ない。
今川家の軍師として働く一方で雪斎は新たに寺院を開いたり、京都妙心寺の住持に収まるなど僧侶としても活躍し、法制定にも関わるなど今川家の最盛期を築き上げ、1555年に没した。
雪斎と縁戚関係にあったと思われる武田家の伝説的軍師・山本勘助(やまもと・かんすけ)は「今川家は雪斎が無くてはならぬ家」と、家康も「義元は雪斎とのみ議論して国政を執っていたため家老の力は弱く、雪斎の亡き後には国政は整わなかった」と評したように雪斎の役割はあまりに大きく、また義元も雪斎に依存しすぎたがために、雪斎亡き後の今川家は著しく衰退し、5年後の桶狭間の戦いで義元が戦死を遂げると、なすすべも無く家康や武田家への侵攻を受け滅亡へと突き進むのだった。
なお創作では家康の師とされることも多いが、これもまた伝承の域を出ない。
里見義堯(さとみ・よしたか)
安房の人(1507?~1574)
安房から房総にかけて一大勢力を築いた大名。
軍事・政治手腕に優れ、故事に明るく義堯の「堯」は古代中国の皇帝から採られたもので、嫡子の里見義弘(さとみ・よしひろ)の初名である義舜(よしたか)は堯の跡を継いだ舜にちなんでおり、故事を用いて良政を布き民にも慕われた。宿敵の北条家からも「仁者必ず勇あり」と称えられていたという。
1507年、または1512年に生まれる。
1533年、父の里見実堯(さとみ・さねたか)は本家を脅かす権力を握り、また北条家と内通していたため義堯の従兄で本家当主である里見義豊(さとみ・よしとよ)によって暗殺された。
翌年、義堯は北条家の援助を得て義豊を破り自害に追い込んだ。
長らく父の実堯は無実で、後見人をしていた義豊に裏切られたとされていたが、近年の研究では義堯の下克上を正当化するための創作だと考えられている。
義堯は北条家と正面から戦えば勝機はないと考え、下総や上総へ勢力を伸ばし里見家の最盛期を築いた。
北条氏康は武田家・今川家と三国同盟を結び、さらに上総の国人衆に調略を仕掛けたが、義堯は遠くは上杉家、近くは佐竹家・宇都宮家と結び対抗した。1556年には水軍を率いて北条水軍に大勝したが、これは暴風雨による被害が勝因だったと伝わる。
1562年、嫡子の里見義弘に家督を譲り隠居したが実権は握り続けた。
1564年、北条方の太田康資(おおた・やすすけ)の内通に応じ下総に攻め込んだ。
遠山綱景(とおやま・つなかげ)、富永直勝(とみなが・なおかつ)の重臣二名を討ち取ったが、戦勝に油断した隙をつかれ、翌朝に氏康と北条綱成(ほうじょう・つなしげ)の挟撃を受け大敗した。
重臣の正木信茂(まさき・のぶしげ)が戦死し、上総の大半を失った義堯は安房に撤退したが、1567年には北条綱成、北条氏照(ほうじょう・うじてる)らに大勝し上総の奪回に成功した。
1574年、義堯は没した。
武田信玄、上杉謙信も没し里見家への援軍も滞ると、北条家は攻勢を強め、1577年に里見家と和睦を結ぶに至った。
愛洲元香斎(あいす・げんこうさい)
出身地不明(1519~1590)
陰流の始祖・愛洲移香斎(いこうさい)の子。名は宗通(むねみち)。
父が没すると跡を継いだ。移香斎が67歳の時に生まれた計算になるため養子説もある。
父が開いた陰流を継ぎ、後に前勝坊(ぜんしょうぼう)という異人が猿に秘剣を授ける様を見て(夢で見て?)猿飛陰流と改名したとされるが、公式文書では陰流のまま変わっていない。
1564年、常陸の佐竹家に仕え、後に姓を平澤(ひらさわ)に改めた。
元香斎が没すると、息子が早逝していたため孫が後を継ぎ、以降も佐竹家に仕え続け、平澤家は現代まで続いているという。
弟子の(父の弟子ともされる)剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)が開いた新陰流が柳生新陰流、タイ捨流と分派を輩出し隆盛を極める一方で、陰流は衰退しついに途絶えてしまった。
愛洲移香斎(あいす・いこうさい)
伊勢の人(1452~1538)
陰流の始祖。名は久忠(ひさただ)、惟孝(これたか)、勝秀(かつひで)と諸説ある。
剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)は弟子(または孫弟子)とされる。
死後、息子の愛洲元香斎(げんこうさい)が跡を継いだ。
幼少より剣術の才能を見せ、長じると武者修行の旅に出た。
九州や関東、はては明にまで渡航し武芸を磨き、36歳の時、日向の岩屋に籠もり霊験を得て陰流を開いたという。
それにあやかってか日向守を名乗り、当地で没したとされる。
半ば伝説上の人物で、実際には近畿を出ていないとも、六角定頼(ろっかく・さだより)らに弓術を教えたとも、海賊だったとする説もある。
佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)
常陸の人(1570~1633)
佐竹義重(よししげ)の嫡子。
20歳前後で家督を継いだが、隠居後も父は表舞台から退かず、二頭体制をとった。
この頃の佐竹家は、南の北条家とは和睦を結んでいたが、北は台頭する伊達家に南奥州の基盤を奪われており、豊臣家や上杉家と同盟しそれに対抗していた。
1589年、豊臣秀吉が小田原征伐の兵を起こし、全国の大名へ参戦を呼びかけたが、義宣はちょうど伊達政宗と対峙しておりすぐには動けなかった。
だが秀吉も京を発ったという一報を聞くと、参陣しなければ改易されると危ぶみ、義兄弟の宇都宮国綱(うつのみや・くにつな)とともに小田原へ進軍した。
豊臣軍に加わると石田三成の指揮のもと、忍城を攻めたが甲斐姫らの抵抗にあい落とすことはできなかったものの、所領安堵と伊達家と争う南奥羽の統治を認められた。
当時の佐竹家は直轄領の石高と、従属大名らの石高が拮抗しており、立場が弱かったため、義宣は豊臣家に積極的に貢献することで力を蓄えていき、やがて徳川・前田・島津・毛利・上杉ら百万石クラスの大名と並び「六大将」と呼ばれるまでになった。
秀吉の後ろ盾を得た義宣は父とともに常陸統一に乗り出し、1591年には支配権を確立した。
1592年、文禄の役では出征を命じられ名護屋まで進駐したが、先陣の佐竹義久(よしひさ)が1500人あまりを率いて渡海しただけで、義宣は前線に出なかった。
1597年、宇都宮国綱が改易されると、佐竹家も危ぶまれたが義宣と親交深い石田三成のとりなしで事なきを得た。
1599年、前田利家が没すると三成ら文治派と加藤清正、福島正則ら武断派の対立は深刻化し、ついに三成の屋敷が襲撃された。
急報を受けた義宣は三成のもとに駆けつけると、女性用の輿に乗せて三成を密かに脱出させた。
その際に「三成のいない世はつまらない」と語ったり、茶の湯の師匠である古田織部(ふるた・おりべ)に釈明するよう勧められたが「三成は命令に背いたわけでもないのに殺されかけた。私は三成に恩返しをしただけだ。釈明せよと言うならあなたがよきにはからってください」と答え、織部が弟子で襲撃グループの一員だった細川忠興(ほそかわ・ただおき)にとりなしを依頼し、忠興から伝え聞いた徳川家康も「義宣が命を賭して旧恩に報いたのは、まさに義と言うべきだ」と咎めなかったとされるが、義宣が三成を救ったという確かな史料は存在しない。
1600年、会津の上杉家が公然と家康に反旗を翻すと、会津征伐のため東国の諸大名が召集された。
義宣は他の諸大名と同様に人質を出すよう求められたが、自分は豊臣家に逆らうつもりはないと拒み、裏ではかつての同盟相手である上杉家と通じていた。
そして上杉家に呼応した石田三成が豊臣方の大名を糾合し決起すると、父の義重は徳川方優勢と読み東軍につくよう勧めたため義宣は、父・家康と三成・上杉の間で板挟みとなり、身動きがとれなくなった。
8月、義宣は兵を引き上げて居城へ帰った。
一方で家康には釈明の使者を、西軍についた真田家と戦う徳川秀忠にはわずか300の援軍を送り、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、自ら家康のもとに出向き家名存続を懇願した。
家康は全国の大名が東西両軍に真っ二つに割れた中で、義宣だけが義を重んじ中立を保ったことを「今の世に稀な困ったほどの律義者」と評したという。
1602年、佐竹家は54万石から20万石へ減転封となった。
他の大名の処分からは大幅に遅れての決定で、佐竹義久が奔走し一時は減封無しの約束を取り付けたが、義久の急死により反故にされたとも、上杉家との密約がこの頃に発覚したとも、島津家への対処を優先したため後回しにされた、とも伝わる。
秋田に移った義宣ははじめ僻地に飛ばされ不満気だったが、未開墾で石高は低いものの広大な領地を坂の上から見るや機嫌を直したとする「御機嫌坂」という地名が今も伝わる。
また父の義重が常陸の美女を選りすぐって連れて行ったため、現在の秋田美人の礎になったとの説もある。
転封後の義宣は家柄にとらわれず能力主義で人材を登用した。浪人上がりの渋江政光(しぶえ・まさみつ)を抜擢し、それを妬んだ家臣らが暗殺未遂を起こすなどあつれきは生じたが、広大な土地を切り開いていき石高を倍増させた。
1614年、大坂冬の陣では自ら軍を率い、上杉軍とともに西軍主力の木村重成(きむら・しげなり)や後藤又兵衛(ごとう・またべえ)と激戦を繰り広げた。
この戦により渋江政光は戦死したものの佐竹軍の働きはめざましく、幕府が発した感状12通のうち5通を佐竹家の家臣が得たという。
1633年、64歳で没した。
男子が2人いたがいずれも夭折したため末弟の佐竹義直(よしなお)を嗣子にしていたが1625年、江戸城で行われた猿楽のさなかに居眠りし、義宣が伊達政宗に注意される失態を演じたため廃嫡し、代わりに甥の岩城吉隆(いわき・よしたか)を嫡子とした。
すでに亀田藩の藩主だった吉隆を継嗣にするのは異例の事態だが、義宣が将軍・徳川秀忠から全幅の信頼を得ていたため、特別に許されたという。
鬼小島弥太郎(おにこじま・やたろう)
越後の人(??~??)
上杉家。本名は小島貞興(こじま・さだおき)。
鬼神のような勇猛ぶりから鬼小島の異名を取った。しかし上杉家の記録にしか名前が見えず架空の人物と考えられる。
幼少の頃から上杉謙信に仕えた。謙信が上洛した際、将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)が豪傑で知られる謙信を試そうと、大猿をけしかけると、即座に弥太郎が殴り殺してしまった。
また武田信玄のもとへ使いした時、信玄は評判の鬼小島の胆力を試そうと猛犬をけしかけた。犬は弥太郎に噛み付いたが、彼は平然とそのまま使者の務めを果たすと、片手間に犬を叩き殺して去っていったという。
さらに武田軍と戦った時、弥太郎は猛将・山県昌景(やまがた・まさかげ)と一騎打ちした。
だがそのさなかに信玄の子・武田義信(たけだ・よしのぶ)が窮地に陥るのを見ると、昌景は「主君の御曹司を救うため勝負を預けたい」と願い出た。弥太郎は快諾して槍を引いたため、昌景は「花も実もある勇士」と彼を讃えた。
小島弥太郎戦死の地として新潟県長岡市の天神山に石碑が建つが、その没年は1547年説、1560年説、1582年説と諸説あり、討ち取った相手も無名の兄弟から柴田勝家まで幅広い。