三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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六角承禎(ろっかく・じょうてい)
近江の人(1521~1598)
六角家の当主。承禎は隠居後に名乗った号で本名は六角義賢(よしかた)。
父・六角定頼(さだより)の統治を早くから助け、父が没すると32歳で家督を継いだ。
弓馬の技術に優れ、特に弓は吉田重政(よしだ・しげまさ)に習い、紆余曲折あったが日置流の印可をただ一人受けるほどの腕前で、馬術では自ら佐々木流を興すほどだった。
当時の六角家は近江守護を務め、伊賀4郡のうち3郡をも統治し、足利将軍家や細川家を援助する名家で、北近江の浅井家も従属下に置いていた。
だが1560年、浅井長政は六角家から迎えていた妻を離縁すると挙兵し、隠居していた承禎が自ら討伐に赴いたものの大敗を喫した。
承禎の子で家督を継いだ六角義治(よしはる)は父の反対を押し切って斎藤家と同盟し(承禎の姉妹が美濃守護の土岐家に嫁いでいたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)の下克上により土岐家は地位を逐われた)浅井家に対抗したものの戦況は芳しくなかった。
1561年、承禎の姉婿の細川晴元(ほそかわ・はるもと)が、家臣の三好長慶(みよし・ちょうけい)によって幽閉されると、承禎は三好家と敵対する畠山高政(はたけやま・たかまさ)とともに京へ兵を進め、三好家を一時、京から撤退させた。
さらに畠山軍は三好長慶の弟の三好実休(じっきゅう)を討ち取り、六角軍は山城を占領したものの、承禎はなぜかそこで動きを止め、三好軍の逆襲に遭った畠山軍を見殺しにすると、三好家と和睦し山城から引き上げてしまった。
1563年、六角義治は重臣で人望を集めていた後藤賢豊(ごとう・かたとよ)を暗殺し、家中の反発を受けた。
善治は承禎ともども居城を追われてしまうまでに事態は悪化し、重臣の蒲生定秀(がもう・さだひで)の仲介でどうにか復帰できたものの、六角家の凋落は誰の目にも明らかであり、困窮した承禎が蒲生定秀に借金をした証文も残されている。
1568年、織田信長が足利義昭(あしかが・よしあき)を擁し上洛を開始すると、六角家は三好家とともに抵抗したが、たちまち大敗し居城の観音寺城から撤退した。
かつての祖父の戦略にならい甲賀に布陣した承禎は浅井・朝倉家と連携して反撃に乗り出し、一時は信長との和睦を取り付けるまでに至った。
承禎のゲリラ戦は信長を大いに悩ませ、足利義昭や松永久秀(まつなが・ひさひで)も反逆すると一転して織田軍は窮地に立たされた。
しかし1573年、武田信玄の死をきっかけに包囲網は破れ、朝倉・浅井家が滅亡すると形勢は逆転し、足利義昭は逃亡、松永久秀は降伏、三好三人衆は相次いで戦死を遂げた。
その後の承禎は甲賀・伊賀の国人衆を率いて抵抗を続けたとも、石山本願寺に身を寄せたとも、単に隠棲したとも言われるが判然としないまま歴史の表舞台から消えていった。
だが豊臣秀吉の天下統一後、承禎は秀吉の御伽衆としてひょっこり復帰した。
1598年に没するまで悠々自適に暮らし、子の善治もまた豊臣秀頼(ひでより)の弓の師範を務めたという。
斎藤龍興(さいとう・たつおき)
美濃の人(1548~1573)
斎藤家の当主。
斎藤義龍(よしたつ)の嫡子で、母は浅井久政(あざい・ひさまさ)の姉妹とされる。
1561年、父が没し14歳で家督を継いだ。当時は織田信長の侵攻と明智光秀、森可成(もり・よしなり)ら家臣の離反が続いており、重臣の戦死や病没も重なり、さらに龍興も佞臣の斎藤飛騨守(ひだのかみ)を重用したため信頼を失い、背後の浅井長政には織田家と同盟されと、きわめて厳しい情勢にあった。
1563年、織田軍を竹中半兵衛の策略で撃破したものの、半兵衛は兼ねてから険悪だった飛騨守に侮辱された(小便を掛けられたとされる)のを恨み、飛騨守を殺すと斎藤家の居城・稲葉山城をわずか18名で乗っ取ってしまった。
龍興は半兵衛に反省を迫られたが応じず、やがて半兵衛は城を返還すると隠居したが、斎藤家の衰退は誰の目にも明らかとなり、美濃は織田家に次々と切り取られていった。
1567年、稲葉一鉄(いなば・いってつ)、安藤守就(あんどう・もりなり)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)ら「西美濃三人衆」の裏切りを機についに稲葉山城も陥落し、龍興は単身で伊勢長島へと落ち延びていった。
その後も龍興は長島一向一揆や三好三人衆、石山本願寺ら信長の敵対勢力と結託しては抵抗を続けた。
畿内に潜伏した際にはルイス・フロイスと交流し、イエズス会の教義を聞くとたちどころに理解し的確な質問を投げたため、フロイスは著書の「日本史」に「非常に有能で思慮深い」と記した。
1573年、縁戚をたどり朝倉家の客将として迎えられていたが、朝倉軍が織田軍に大敗すると、龍興も戦死した。享年26。
一説には氏家卜全の長子・氏家直昌(なおまさ)に討ち取られたという。
越中の興国寺には、龍興が流れ着き、斎藤九右ェ門(きゅうえもん)と改名し付近を発展させ、自身は住持となり87歳まで生きたという話が伝わるが、伝説の域を出ない。
斎藤義龍(さいとう・よしたつ)
美濃の人(1527~1561)
美濃の大名・斎藤道三(どうさん)の嫡子。
六尺五寸(約197cm)の並外れた長身で知勇兼備だったが、重い持病を抱えていたという。
1554年、道三が隠居すると家督を譲られた。道三が家臣の信望を失ったため譲位したとされる。
しかし道三の義龍への評価は低く息子を「老いぼれ」と呼び、下の弟達を溺愛し家督も譲らせようとしたため、父子の仲は険悪となった。
1555年、義龍は叔父と共謀し、日根野弘就(ひねの・ひろなり)に命じて弟達を暗殺した。
道三は逃亡し兵を集めたが、すでに信望を失っていた彼に味方する者は少なく、娘婿の織田信長の援軍が駆けつける前に義龍に討たれた。
死の間際、道三は義龍の用兵の巧みさに唸り、自分の評価の誤りを認めたと伝わる。
義龍は勢力拡大に明け暮れた道三時代とは打って変わった近代的な政治体制を敷き、領国を安定させた。
道三の末子・斎藤利治(としはる)は織田家に亡命すると、信長から一字拝領し斎藤長龍(ながたつ)と改名し、美濃斎藤家の当主を名乗った。
信長は斎藤長龍を正統な道三の後継者として美濃攻略を進め、それに対し義龍は将軍家から一色姓を賜り幕府の直臣になり大義名分を得た。
義龍は道三の実子ではないという噂が当時から流れており、それを逆手に取って正統性の揺らぐ斎藤家から脱却し、同時に父殺しの汚名を逃れたとも言われる。
また1559年には信長を火縄銃で暗殺しようとした。これは記録に残る限り日本最古の狙撃による暗殺(未遂)である。
桶狭間の戦いで今川義元を返り討ちにし、信長の攻勢が強まる中、1561年に義龍は持病により35歳で没した。
14歳で跡を継いだ嫡子の斎藤龍興(たつおき)は傲慢で人望薄く、竹中半兵衛や美濃三人衆の離反を招き、1567年に信長に美濃を奪われた。
その後も織田家の敵対勢力の下を転々としながら信長と戦い、1573年に朝倉家の滅亡と運命をともにした。
斎藤長龍はその後も織田家で活躍したが1582年、本能寺の変で信長の嫡子・織田信忠(のぶただ)とともに奮闘むなしく戦死した。
長龍を討ったのは皮肉にも同族で明智光秀に仕えた斎藤利三(としみつ)である。
美濃斎藤家は大名として再興することはなかったが、子孫は他家の家臣として存続している。
織田信長の小姓。本名は森成利(なりとし)。
また「信長公記」などでは「乱」と記され著名な「蘭丸」の字はあまり使われていない。
信長の家老・森可成(もり・よしなり)の三男として生まれる。
13歳で弟の坊丸(ぼうまる)、力丸(りきまる)とともに小姓として召し抱えられ、長じると信長の使者や事務官の役割も担った。
1582年、戦死した父・長兄に代わり家督を継いでいた次兄の森長可(ながよし)が武田征伐で大功を立て信濃20万石に栄転したため、それまで治めていた美濃5万石が蘭丸に与えられた。
だが蘭丸は信長のもとを離れず、森長可の家老が城代として統治した。
そして同年6月、本能寺により信長が討たれると蘭丸・坊丸・力丸もそろって討ち死にした。
その最期は信長に傷を負わせた安田国継(やすだ・くにつぐ)に討たれたとも、腕に銃弾を受け切腹して果てたともされる。
~~織田信長との関わり~~
蘭丸は眉目秀麗で信長に寵愛されたが、後に使者や事務官も務めたように才知に長けており、それを窺わせる信長との逸話をいくつか紹介する。
ある時、信長は小姓を集め自分の刀の鍔にいくつ模様があるか尋ね、当てたら褒美として与えようと言った。
各々が答える中、蘭丸だけは答えず、信長が不審に思い尋ねると、以前に数えたことがあるから答えを知っていると蘭丸は告白した。
信長は正直さを褒め、蘭丸に刀を与えた。
またある時、信長は隣の座敷の障子を閉めてくるよう命じた。蘭丸が向かうと障子はすでに閉まっていたが、わざと一つ開けると音立ててそれを閉めた。
帰って障子が閉まっていたと報告すると、信長はそれならなぜ音がしたのかと尋ねた。
蘭丸は「殿がうっかりしたと他の者に思われぬよう、閉めた音を周囲に聞かせたのです」と答え信長を感心させた。
別の折、献上品のみかんを皿に盛り運んでいると、信長が「そんなに盛っては転ぶぞ」と注意するやいなや、蘭丸は転んでしまった。
だがこれも障子の時と同じように信長の言葉が正しいと証明するため、わざと転んだのだという。
戦国乱世の話とは思えないほどほのぼのした逸話ばかりだが、信長と蘭丸の親密さと、信長が諸大名に自慢の宝物として「一に白まだらの鷹、二に青い鳥、三に蘭丸」と述べたのにふさわしい、彼の才知が垣間見える。
斎藤利三(さいとう・としみつ)
美濃の人(1534~1582)
美濃の大名へと下克上した斎藤道三(さいとう・どうさん)とは異なり、正統な美濃斎藤家の出で、明智光秀の甥(妹の子)とされる。
もとは道三の子・斎藤義龍(よしたつ)に仕え、後に稲葉一鉄(いなば・いってつ)に従い織田家に鞍替えした。
だが一鉄と仲違いし、伯父の光秀に仕え筆頭家老として用いられた。当初、織田信長は一鉄の抗議を受け利三の返還を命じたが、光秀は「30万石をいただくよりも、良き士を得て信長様に報いたい」とそれを拒絶し、強引に認めさせたという。
その際に信長ははじめは激怒し光秀を折檻したともされるが、本能寺の変の遠因として絡めたいだけの創作に思える。
1582年、光秀は本能寺の変を計画し、利三ら数人の重臣にだけ打ち明けた。
光秀の娘婿の明智秀満(あけち・ひでみつ)と利三は無謀だと反対したという説と、信長と敵対し討伐軍を向けられる直前だった長宗我部元親が利三の妹婿に当たることから、むしろ利三が元親を救うため計画を主導したという説がある。
いずれにしろ利三は本能寺の変で中心的役割を果たしたが、明智軍は中国大返しで現れた羽柴秀吉に大敗し、光秀は落ち武者狩りに討たれ、利三も捕縛され斬首となった。
なお彼の末娘は後に三代将軍・徳川家光の乳母となり大奥で権勢をふるう春日局である。
叛逆者の光秀の血脈が将軍家を事実上、牛耳ることになったのは歴史の皮肉だが、それが光秀生存説(=南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)と同一人物説)の傍証とされることもある。
九鬼嘉隆(くき・よしたか)
伊勢志摩の人(1542~1600)
戦国時代屈指の水軍を率い「海賊大名」の異名をとった。
嘉隆は三男で、1551年に父が死去すると長兄の九鬼浄隆(きよたか)が家督を継いだ。
だが1560年、北畠家の援助を受けた国人衆に攻められ、防戦のさなかに浄隆が急死した(戦死したともされる)ため、嘉隆はその遺児の九鬼澄隆(すみたか)を連れ逃亡した。後に伊勢の出身ともされる滝川一益(たきがわ・かずます)の仲介を得て織田信長に仕えた。
1569年、信長が北畠家を攻めると、嘉隆は水軍を率い地の利を活かして活躍した。
嘉隆は志摩の国人衆にも復讐を果たすと、信長に志摩の領有と九鬼家の家督相続を認められた。(一説には信長死後に甥の澄隆を殺し家督を奪ったともされる)
1576年、嘉隆は300隻の軍船で石山本願寺を攻めたが、毛利家の村上・小早川水軍600隻に惨敗し船を焼き払われ、多くの将も戦死した。
信長はこの報に激怒し、嘉隆にただちに燃えない船を造るよう命じた。嘉隆は船体に鉄板を貼った鉄甲船を考案し、6隻を建造した。
そして1578年、嘉隆の率いる鉄甲船団はわずか6隻で100倍もの毛利水軍を打ち破り、制海権を手に入れた。
実際に鉄板を貼っていたのか、本当に100倍の敵に勝利したのか、これだけの大戦果を上げながらその後ほとんど実戦に用いられなかったのはなぜか、と疑問は多く残るが、いずれにしろ嘉隆の水軍が大勝利を収め、石山本願寺との戦いを優勢に導いたのは確かである。
1582年、信長が本能寺で討たれるとその次男・織田信雄(のぶかつ)に仕えたが、2年後に滝川一益の誘いで羽柴秀吉に寝返る。
その後も織田家と同様に水軍の主力として重用され、1592年からの文禄の役では日本水軍を率いた。
だが同じく水軍の指揮官に任じられた脇坂安治(わきさか・やすはる)が抜け駆けの末に敗北すると多くの損害を出したため、秀吉は海戦を避けて陸・水軍連携による沿岸警備を命じた。この策はあたり攻め寄せた朝鮮水軍を何度も撃退した。
1597年、嘉隆は家督を子の九鬼守隆(もりたか)に譲り隠居した。
1600年、関ヶ原の戦いにあたり嘉隆は自らは西軍に、守隆は東軍に属させ、東西両軍どちらが勝っても家名存続できるように講じた。
嘉隆は守隆が抜け手薄になった鳥羽城を奪い、伊勢での戦いも有利に進めたが、関ヶ原で西軍が敗走すると城を放棄して逃げ出した。
守隆は徳川家康に戦功と引き換えに父の助命を願い出て、無事に許されたものの、それが嘉隆に伝わるより先に、嘉隆は家臣のすすめで切腹してしまった。
悲報を聞いた守隆は激怒して、その家臣の首を生きながらノコギリで少しずつ斬らせたという。
江戸時代、嘉隆は軍記物などで脚色され「海賊大名」として大いに名を馳せた。
柴田勝家(しばた・かついえ)
尾張の人(1522~1583)
織田家の筆頭家老。「鬼柴田」とうたわれた家中でも屈指の名将。
若い頃から織田信秀(のぶひで)に仕え、織田信秀が亡くなり嫡子の織田信長が跡を継いだ頃には、織田家の重鎮となっていた。
信長の弟・織田信行(のぶゆき)の家老として戦功を重ねたが、奇行が多く「うつけ者」と評されていた信長に代えて、織田信行を当主に据えようと、家老の林秀貞(はやし・ひでさだ)とともに画策した。
しかし「うつけ者」の仮面を捨て去った信長は連戦連勝で勝家を追い詰め、ついには降伏させた。
以来、勝家は信長に心酔し、織田信行が再び謀反を企んだ時にはそれを密告し、切腹させている。
しばらくは干されていたが、足利義昭(あしかが・よしあき)の要請による上洛戦から頭角を現し始めた。
信長の信頼も得て、三好三人衆、長島一向一揆、石山本願寺、朝倉家、浅井家、長篠の戦いなど重要な戦には必ず駆り出された。
六角家との戦いでは水の手を断たれたが、勝家は様子を探りに来た間者の目を欺くため、わざと大量の水で馬を洗ったり、水瓶を割って余裕を見せつけた。
そうして後がないぞと味方の奮起を促し、水の手を断ったはずなのにと動揺した六角軍を打ち破り「瓶割り柴田」の異名で知られるようになった。
朝倉家を滅ぼすと、越前ははじめ前波吉継(まえなみ・よしつぐ)に預けられたが、富田長繁(とみた・ながしげ)の扇動した一揆により前波吉継は殺され、さらに富田長繁も動乱のさなかに命を落とし、越前は守護不在の一向一揆が支配する国になってしまった。
すると信長は総力を率いて越前を奪回し、勝家に預けた。与力として前田利家、佐々成政(さっさ・なりまさ)、不破光治(ふわ・みつはる)らが付けられ、勝家は上杉家に対する北陸方面軍の総司令官となった。
1577年、上杉謙信は加賀に進出し、畠山家の七尾城を囲んだ。
柴田勝家は救援に向かうが、その前に七尾城は陥落し、上杉軍は勝家の迎撃に乗り出した。
その直前、友軍につけられた羽柴秀吉が、勝家と仲違いし、勝手に軍を引き上げるなど指揮系統は混乱しており、七尾城が陥落した報告もまだ届いていない有様だった。
ようやく陥落を知りあわてて撤退したものの、上杉軍に手取川で追いつかれ、勝家軍は大敗を喫した。
波に乗る上杉軍は越後へ凱旋すると、大規模な出兵の準備を進めたが、上杉謙信が急死したため頓挫した。
上杉家は家督争いを始め、著しく勢力を弱めた。90年にわたり加賀を治めていた一向一揆も、石山本願寺が信長に降伏したことによって衰退しており、勝家はその隙をつき加賀、能登、越中まで版図を拡大した。
またこの頃に佐久間信盛(さくま・のぶもり)が信長の勘気をこうむって失脚し、勝家は名実ともに織田家の筆頭家老となった。
しかし1582年、越中の攻略中に信長が本能寺で討たれてしまう。
勝家は仇討ちに戻ろうとしたが、上杉家をまとめた上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の反撃にあい撤退することができず、その間に羽柴秀吉が仇討ちを果たした。
織田家の後継者と今後を決める清洲会議で、勝家は信長の三男・織田信孝(のぶたか)を推したが、発言権を強めた羽柴秀吉によって、後継者は信長の孫・織田秀信(ひでのぶ)と定まり、秀吉はその後見人の座に収まった。
信長の遺領配分でも、秀吉が畿内に多くの所領を得る一方で、勝家はわずかな加増にとどまり、織田家中での立場は完全に逆転してしまった。
ちなみにこの後、懐柔策だろうか、勝家は秀吉の仲介により信長の妹・お市をめとっている。
不満を募らせた勝家は織田信孝や、信長の死後に関東を失った不手際で失脚した滝川一益(たきがわ・かずます)らと組み、秀吉に対抗した。
しかし秀吉の外交戦略に翻弄されて立場を失い、賤ヶ岳で決戦を挑むも、主将の勝家と、親友である秀吉の間で板挟みとなった前田利家が撤退したのをきっかけに大敗した。
勝家は逃げる途上、前田利家の居城に立ち寄ると、今までの労をねぎらい、勝手に撤退したことを一切責めず、秀吉に仕えるとよいと忠告し一杯の茶漬けを所望しただけで去ったという。
勝家は居城の北ノ庄城にこもったが、秀吉軍に包囲された。
妻のお市に秀吉が懸想していたこともあり、降伏するよう促したが、お市は前夫・浅井長政の死の折にも城を出て降伏したことを持ち出し、「また落城の折に逃げ出せというのか」と拒絶し、勝家に殉じた。
勝家は天守閣に登ると「勝家の腹の切り様を見て、後学にしたまえ」と叫び、腹を十文字に割いて自害した。享年62歳だった。
板倉勝重(いたくら・かつしげ)
三河の人(1545~1624)
徳川家に仕え「名奉行」とうたわれた。
幼少期に出家していたが、1561年に父が、さらに1581年に家督を継いだ弟が戦死したため、徳川家康の命で37歳にして還俗し板倉家を継いだ。
僧侶として前半生を過ごしていながら内政手腕に優れ、家康が駿府に拠点を移すと駿府町奉行に、関東に移封されると関東代官・江戸町奉行として辣腕を振るった。
1601年、関ヶ原の戦いを制した家康は勝重を京都所司代に任じた。京の維持と朝廷との交渉、大坂城に居を構える豊臣家への監視を担い、またこの頃に家康の孫・徳川家光の乳母を公募したとの説があり、それに応じた春日局が後に大奥を牛耳ったのは周知の通りである。
1603年、家康が征夷大将軍に就き江戸幕府が開かれると、勝重は伊賀守に任じられた。このため板倉伊賀守の名で多くの記録や創作に登場する。
1609年には1万石を超えて大名に列し、大坂の陣に先立つ「方広寺鐘銘事件」では本多正純(ほんだ・まさずみ)とともにこれを好機と豊臣家の撲滅を図った。
豊臣家の滅亡後は「禁中並公家諸法度」の制定に関わり、朝廷への指導と監視を一手に任された。
1624年、79歳で没した。嫡子の板倉重宗(しげむね)が京都所司代を継ぎ、父にも劣らぬ手腕を見せ、父子そろって名奉行とうたわれた。
勝重・重宗の公平かつ明快な裁きは敗訴した者も納得させたといわれ、庶民にも広く慕われ後に父子の裁定や逸話をまとめた「板倉政要」が編まれた。
あまりに父子の声望が高かったため、事実だけではなく創作や海外の判例・逸話も「板倉父子の裁き」として描かれており、さらに時代が下ってかの名奉行・大岡越前の逸話として流用されたものも数多くある。その中で最も著名なのはあの「三方一両損」である。
奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)
三河の人(1555~1615)
はじめは奥平貞昌(さだまさ)と名乗った。
もともと奥平家は今川家に仕えていたが、1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死したのを機に徳川家に鞍替えした。
しかし1570年頃、武田家の侵攻を受けてやむなく降った。徳川家康は武田家の勢力を削るため奥平家を引き抜きたいと考え、織田信長に方策を相談した。
信長は家康の長女・亀姫(かめ)を奥平家の嫡子・貞昌に嫁がせるよう命じ、それを受け奥平家は徳川家に帰参した。
1575年、武田勝頼(たけだ・かつより)は1万5千の大軍で貞昌の守る長篠城を包囲した。
貞昌はわずか5百の手勢でよく防ぎ、家臣の鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を家康のもとへ送り援軍を要請。駆けつけた織田・徳川連合軍は武田軍を大破した。
信長は貞昌の働きを激賞し、自身の名から一字を与え「信昌」と名乗らせた。織田家以外で一字拝領した者は他にもいるが、友好の証として贈られた儀礼的なものばかりで、戦功を称えられ拝領したのは信昌だけである。
家康も労をねぎらい、名刀を与えた他、籠城戦に貢献した奥平家の重臣12名に子々孫々まで待遇を保証するなどしたという。
また創作はおろか歴史系サイトや出版物などでも、長篠の戦いの活躍で亀姫の婿になったと書かれることがあるが、先に記したように嫁入りは戦前のことである。
その後も信昌は徳川家の重臣として活躍した。
1585年、徳川家の宿老・石川数正(いしかわ・かずまさ)が出奔すると、家康は軍事機密の漏洩を恐れ、軍制を武田信玄流に改めたが、その際に武田家の旧臣だった信昌は大いに貢献したという。
主要な戦のほとんどに参加し、1600年の関ヶ原の戦いでは潜伏していた安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)を捕らえ、また京都所司代として統治に当たった。
美濃10万石の他、長男にも下野10万石を与えられ、末子の松平忠明(まつだいら・ただあき)は家康の養子となり、一門衆の扱いを受け、奥平家は明治期まで続いた。
松平忠明は二代将軍・徳川秀忠に、変事が起こった時には後を託すとまで言われたほど信頼され、また一級史料の「当代記」を遺している。
北条幻庵(ほうじょう・げんあん)
相模の人(1493~1589)
北条家の最長老。北条早雲の三男で本名は北条長綱(ながつな)。
幼い頃に出家し宗哲(そうてつ)と名乗り、後に箱根権現社の別当となる。箱根権現は東国の武士に崇められる軍神で、それを抑えるため早雲は息子を送り込んだと見られる。
長じると北条家の政治・外交にも関わり、家中で二位の松田憲秀(まつだ・のりひで)の倍近い最大の所領を得た。
僧侶ながら馬術・弓術にも優れ、若い頃には戦で一軍を率いることもあり、一門衆の長老格として絶大な影響力を持った。
小机城主だったが家督や城主を譲った息子や甥が次々と亡くなったため、1569年、北条氏康の七男・北条三郎(後の上杉景虎(うえすぎ・かげとら)を養子に迎えた。またこの頃に幻庵と号した。
文化的素養も高く、和歌、茶道、連歌、造園などを良くし、また手先が器用で尺八や鞍、あぶみを自ら作製した。
史料の信憑性に疑問は残るが長寿で、記録上は北条家五代に仕えた唯一の家臣で、彼の死からわずか9ヶ月後に豊臣秀吉によって北条家は滅亡した。