三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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百地丹波(ももち・たんば)
伊賀の人(1512~1581?)
伊賀忍術の祖と呼ばれ、国際スパイ博物館でも忍者の祖、ひいてはスパイそのものの元祖として紹介されるなど世界的にも高名な忍者である。
長く百地三太夫(さんだゆう)の別名で知られたが近年の研究では別人で、三太夫は丹波の孫とも言われる。
服部半蔵、藤林長門(ふじばやし・ながと)と並ぶ「伊賀三大上忍」の一人で伊賀忍者を統率した。
1579年、織田信雄(おだ・のぶかつ)が伊賀を攻めると、信雄の拙攻もありそれをさんざんに打ち破った。
伊賀忍者の実力に脅威を覚えた織田信長は1581年、自ら5万の大軍を率いて伊賀を攻め、百地丹波もそれに敗れ討ち死にした。
以来、百地一族は「ももち」の「ち」が「血」に通じるとして忌み「ももじ」と読みを改め、現在も末裔は「ももじ」を名乗っている。
余談だが大泥棒・石川五右衛門は百地丹波の弟子だったという説があるが、五右衛門に妻を寝取られ、そのうえ愛妾を殺されるというさんざんな師弟関係である。
赤井直正(あかい・なおまさ)
丹波の人(1529~1578)
丹波の国人衆。「赤鬼」、「悪右衛門」の異名をとった猛将。
「甲陽軍鑑」には徳川家康、長宗我部元親と並び「名高き武士」と名を挙げられている。
俳優・赤井英和は子孫である。
赤井家の次男として生まれ、荻野家の婿養子となっていたが、1554年、義父を殺害すると城を乗っ取った。
「悪右衛門」の異名はこのことから付いたとも、自称したともされる。
もう一つの異名「丹波の赤鬼」は無論、名字から来ており、同じ丹波の豪族・籾井教業(もみい・のりなり)は直正にちなんで「青鬼」と呼ばれた。
赤井家は丹波の大名である波多野家をもしのぐ勢力を有しており、直正も朝廷に忠誠を誓い、京にほど近い領地ということもあってか、前関白・近衛前久(このえ・さきひさ)の妹をめとるなど(将軍・足利家の娘をめとったとの説もあり)単なる一豪族に留まらない扱いを受けていた。
1557年、戦傷がもとで兄が亡くなると、その幼い息子の後見役として赤井家を率いることとなった。
そのため本名は荻野直正(おぎの・なおまさ)であるが、赤井姓で呼ばれることが普通である。
1558年には荒木家、1565年には兄の仇である内藤家を滅ぼし、着々と勢力を拡大した。
1570年、上洛を果たした織田信長に降伏し、本領を安堵された。
だが翌年、山名祐豊(やまな・すけとよ)に侵攻され、それを返り討ちにし山名家の居城を落としたところ、山名祐豊は信長に救援を求めた。
信長はそれに応じ、赤井直正討伐の名目で、明智光秀に丹波攻略を命じた。
明智軍は籠城した赤井軍を攻めあぐねた。さらに直正に味方する波多野秀治(はたの・ひではる)が、丹波の山深い地形を利したゲリラ戦で翻弄したため、明智軍は何度も撃破され、明智光秀自身も一時は命を落としかけたほどだった。
しかし1578年、直正が病死すると、求心力を失った赤井家は持ちこたえられず、翌年に丹波は陥落した。
数倍の兵力を擁しながら何年も攻略できなかった明智光秀は、信長に叱責され、それが本能寺の変の遠因となったとする説もある。
ちなみに明智光秀は信長の命令で、波多野家に自分の母を人質に出したところ処刑された、という話が知られているが、それは創作である。
雑賀衆を率いて石山本願寺に味方し、織田信長を苦しめた。
1600年、関ヶ原の戦いに先立ち西軍として伏見城を攻め、守将で徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)を討ち取った。
孫市、または孫一は雑賀衆の頭領が代々その名を継承したもので、半ば伝説的な人物であり、雑賀鈴木家の当主である鈴木佐太夫(すずき・さだゆう)やその子の鈴木重兼(しげかね)、重秀(しげひで)、重朝(しげとも)らが名乗ったとされ、彼らの事績が混ぜ合わされて雑賀孫市が誕生したと見られる。
特に前半生は鈴木重秀、後半生は鈴木重朝の事績が色濃く、以下は両者について記す。
鈴木重秀
紀伊の人(??~??)
鈴木佐太夫の次男。病弱な長男・重兼に代わり雑賀衆を統率した。
石山本願寺に味方し織田信長と戦い、文武両道の僧兵・下間頼廉(しもつま・らいれん)と並び「大坂之左右之大将」と呼ばれた。
1575年、天王寺の戦いでは織田軍の指揮官・塙直政(はなわ・なおまさ)を戦死させ、織田軍に大損害を与えた。
信長は重秀の首級と称したものをさらし首にして戦意高揚を図るなど、その武名は両軍に轟いていた。
重秀は石山に留まらず毛利家に援軍を請うため播磨へ、織田軍が雑賀衆の本拠地に迫れば紀伊へ、荒木村重(あらき・むらしげ)が織田家に反乱すれば摂津へと各戦線を飛び回った。
しかし織田軍の鉄甲船により制海権を奪われ、徐々に戦況が不利に傾くとついに石山本願寺は降伏した。この時に仲介役を務めたのが重秀だとされる。
雑賀衆は反織田と親織田に二分され、重秀は仲介を機に織田方へと傾倒した。
1582年、信長が本能寺で討たれると重秀も命を狙われ、紀伊を離れ潜伏した。
1584年、小牧・長久手の戦いで雑賀衆・根来衆の多くが徳川家康に味方する中、重秀は羽柴秀吉方についた。
翌年、秀吉が紀伊を攻めると降伏勧告の使者を務めた。その後は歴史から姿を消すが、紀伊には生涯帰らず大坂で没したと思われる。
また陽気な性格で酒色を好み若者から大いに慕われ、派手な服装を好み、魚鱗の具足に身を包みヤタガラスの旗指し物を掲げ「愛山護法」と名づけた火縄銃を携え、右肩から血を流す仏像画(重秀が負傷した時に身代わりになって血を流したという)を持ち戦に臨んだという姿は、ゲーム「戦国無双」での孫市のキャラに重なるものが多い。
鈴木重朝
紀伊の人(1561~1623)
鈴木重秀の弟、または子。
重秀が歴史から姿を消すのと入れ替わりに現れ、豊臣秀吉に仕えた。
1590年、小田原征伐では石田三成らとともに忍城を攻め甲斐姫と戦った。
1600年、関ヶ原の戦いに先立ち西軍として伏見城を攻め、守将で徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)を討ち取った。
戦後は浪人したが伊達政宗に拾われ、彼の口利きで1606年、徳川家康に仕えた。
家康は十一男の徳川頼房(よりふさ)の旗本に重朝を任じ、重朝の子孫は水戸徳川藩の家老として仕えていった。
後に重朝の子孫は姓を雑賀に改め、当主は孫一を名乗ったため代々「雑賀孫一」が生まれたという。
下間頼廉(しもづま・らいれん)
出身地不明(1537~1626)
石山本願寺の坊官。僧侶ながら知勇兼備の名将で、さらに政治面でも活躍した。
織田信長との石山合戦では雑賀孫市とともに本願寺軍の主力として戦い「大坂之左右之大将」とうたわれた。
1580年、劣勢に立たされた本願寺が勅命による講和を受け入れると、法主の顕如(けんにょ)に従い石山本願寺を退去した。
信長が没すると豊臣秀吉、徳川家康らは一向宗に派兵を要請したが、頼廉は頑として断り続け、中立を保った。
1593年、顕如の子で反体制派の教如(きょうにょ)が秀吉の命により石山から退去させられ、親豊臣派の准如(じゅんにょ)が即位すると、それに対し異議を唱えた。
秀吉は激怒したが、後に赦免すると頼廉は以降、一貫して准如を補佐したという。
1626年、90歳で没した。子孫も代々、准如の西本願寺に仕えた。
余談だがSLG「信長の野望」では当初、武力ばかり高い脳筋武将に設定されていたがシリーズを重ねるごとに智謀も高まっていき、武力は福島正則・柴田勝家にも匹敵する最高96を記録。
さらに最新作「創造」では政治も急上昇し全能力が90近いチート武将に仕上がっている。
本願寺第11世。ゲーム「信長の野望」の影響で本願寺(ほんがんじ)顕如、本願寺光佐(こうさ)の名でも著名だが、あくまで正式名として用いたのは「顕如」のみで、本願寺は姓ではなく本名も大谷(おおたに)光佐である。
1554年、父の死により12歳で本願寺を継ぎ、祖母の補佐を受けて教団を切り回した。
当時、本願寺勢力は父の代に進めてきた一向一揆が全国ではびこり、京の公家や細川家ら名門とも通じ大名にも匹敵する力を蓄えていた。
だが足利義昭(あしかが・よしあき)を擁し上洛を果たした織田信長は、僧侶が武士よりも権力を持った状態を厭い、強く迫害したため1570年、両者は激突した。
やがて信長の傀儡にされた足利義昭が全国に呼びかけ「信長包囲網」を布くと、本願寺もそれに加わり織田軍を大いに苦しめた。
しかし1573年、主力を担っていた武田信玄(ちなみに信玄の正室の妹が顕如の正室であり、顕如と信玄は義兄弟にあたる)が急死すると包囲網は崩壊し、反織田勢力は次々と駆逐されていき、1580年、朝廷の仲介により顕如は信長と和睦し、本拠地の石山本願寺を退去した。
その後、信長も没すると後継者となった豊臣秀吉と顕如は和解し、石山に戻った。
1592年に顕如は没したが、石山退去に反対した嫡子の教如(きょうにょ)ではなく三男の准如(じゅんにょ)に後を継がせたため、教如派と准如派は対立した。
1602年、徳川家康が教如に寺地を寄進したため、教如派は独立し東本願寺を建立した。
准如の率いるもともとの本願寺は西本願寺と呼ばれるようになり、21世紀の現在もなお両派は分裂したままであり、三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の力を弱めるため分裂をそそのかしたとも言われている。
有吉立行(ありよし・たつゆき)
京の人?(1558~1607)
細川家の家老。
幼い頃から細川家に仕えた。細川忠興(ほそかわ・ただおき)が少年の折、立行は彼を肩車して川を渡ろうとした。
ところが川は深く、立行は頭まで水に浸かってしまった。忠興はあわてたものの立行は川を渡り切り、無事に岸に下ろすやいなや昏倒した。
周囲の者が腹を踏んで水を吐き出させると、どうにか息を吹き返した。立行は愚鈍だと蔑まされていたが、忠興は幼心に只者ではないと感じ入ったという。
長じると立行は頭の冴えを見せ始め、家老として重んじられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは遠征に出た忠興の留守を預かり、攻め寄せた大友義統(おおとも・よしむね)の軍を撃破した。
戦後、忠興が戦の様子を尋ねると、同じく家老の松井康之(まつい・やすゆき)は事細かに語って聞かせたが、立行は何も言わなかった。
二人が退出すると忠興は「戦場で周囲の様子を事細かに見ているのは集中できていない証拠だ。立行は流石である」とむしろ立行を評価したという。