三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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はじめは木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)と名乗る。出自は判然としないが、父は足軽か百姓、もしくはさらに下の階級の身分と見られる。
今川家の家臣・松下之綱(まつした・ゆきつな)に仕え、武士の作法や兵法、武術を学んだが、1554年頃から今川家を出て織田信長に仕官した。
ちなみに松下之綱には後年、遠江に1万6千石を与えこの時の恩に報いている。
信長のもとで、冷えた草履を懐で温めたという逸話で知られる草履取りや普請奉行、台所奉行などを務め信頼を勝ち得ていった。その風貌から信長に「猿」、「禿げ鼠」と呼ばれていたらしい。
1561年には後の北政所(きたのまんどころ)・ねねと当時としては稀な恋愛結婚をし、美濃斎藤家との戦いでは墨俣一夜城の建設で大功を立て、竹中半兵衛、蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)ら多くの優秀な家臣を得た。
また1565年頃に木下秀吉(きのした・ひでよし)と改名した。
1570年、朝倉家を攻める織田軍は、金ヶ崎で盟友の浅井家に突如として背後を襲われた。
このとき秀吉は明智光秀とともに殿軍を務め、被害を最小限に留めたため一躍、名を上げた。
浅井家を滅ぼすと北近江の今浜城を与えられ一国一城の主となった。その際に信長の名から一字を拝領し今浜を「長浜」と改め、さらに織田家の重臣・柴田勝家と丹羽長秀(にわ・ながひで)の姓から一字ずつもらい羽柴秀吉(はしば・ひでよし)と改名するなど如才のないところを見せている。
信長からはよほどの信頼を得ていたのだろう、上杉謙信との戦いの際に、指揮官の柴田勝家と仲違いして勝手に兵を引き上げ、勝家は大敗したが、信長は激怒したものの処罰は与えず、かえって秀吉を中国方面の司令官に任じた。
秀吉は黒田孝高(くろだ・よしたか)の助力を得て赤松家、別所家、小寺家、宇喜多家を次々と降したが、摂津の荒木村重(あらき・むらしげ)が反旗を翻すと、別所家、小寺家もそれに同調し、荒木村重の説得に赴いた黒田孝高も捕らえられ、退却を余儀なくされた。
だが荒木村重を破り黒田孝高を救出し、長らく抵抗を続けていた石山本願寺も降伏すると再侵攻に乗り出し、2年に渡る兵糧攻めの末に別所家の三木城を落とすと、鳥取城も兵糧攻め、備中高松城を水攻めと多彩な策で着々と中国地方を攻略していった。
だが1582年、中国最大の勢力を誇る毛利家が大軍を催したため、秀吉は信長に援軍を請うた。信長は自ら援軍を率いて向かおうとしたが、本能寺で明智光秀に討たれてしまった。
信長暗殺の一報を受けた秀吉は、すぐさま毛利家と和睦するとのちに「中国大返し」とうたわれる迅速な全軍撤退で京に取って返し、信長の死からわずか11日後に明智軍と対峙した。
秀吉のあまりに早い動きから明智軍の陣容は整わず、畿内・四国方面軍と合流した秀吉軍の兵力は明智軍の倍に近かった。
秀吉軍は山崎で明智軍を大破し、退却中に明智光秀も落ち武者狩りによって討たれた。
信長の仇討ちを果たした秀吉は一気に発言権を強め、織田家の後継者を決める清州会議では、信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)を推す柴田勝家の意見を抑え、信長の嫡孫に当たる織田秀信(おだ・ひでのぶ)を当主に据え、その後見人の座を得た。
秀吉と勝家・織田信孝は対立し、同年12月には越前の柴田軍が雪で動けない隙をつき、織田秀信を抑留する織田信孝の不行跡を唱え討伐の兵を挙げた。
敗れた織田信孝は人質を差し出して和睦したが、翌年に柴田派の滝川一益(たきがわ・かずます)が挙兵し、雪解けにより柴田軍も南下を始めた。
はじめは中川清秀(なかがわ・きよひで)を討ち取るなど柴田軍が優勢だったが、勝家の副将で秀吉の親友でもある前田利家が戦わずに引き上げると形勢は逆転し、秀吉軍は賤ヶ岳で大勝した。
柴田勝家は正室・お市とともに自害し、織田信孝は切腹、滝川一益は降伏とこれにより秀吉は敵対勢力を一掃した。
しかし1584年、これまで協調していた信長の次男・織田信雄は秀吉に家臣扱いされたことを恨み、親秀吉派の重臣を殺すと、徳川家康、長宗我部元親、雑賀孫市らとともに決起した。
秀吉は織田陣営の池田勝入(いけだ・しょうにゅう)、九鬼嘉隆(くき・よしたか)、織田信包(おだ・のぶかね)を次々と味方につけ、兵力も織田・徳川連合軍の3万に対して秀吉軍は10万と圧倒的に優勢だった。
しかし小牧・長久手の戦いで徳川軍により池田勝入、森長可(もり・ながよし)は討ち取られてしまう。家康を警戒する秀吉は野戦を避け、持久戦を挑んだ。そうなると兵力・財力で劣る家康になす術はなく、織田信雄が勝手に秀吉と和睦すると、家康も次男・秀康(ひでやす)を人質代わりに秀吉の養子として差し出し、和睦した。
秀吉は朝廷に働きかけて官位も得ると、実質的に織田家の支配者となった。大坂城を築いて移り住み、紀伊の雑賀党、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)を破り、中国の毛利家を降伏させ、抵抗する四国の長宗我部家には10万もの大軍を送り込んで討伐した。
1586年には関白・太政大臣の位を受け、豊臣秀吉と名乗り政権を樹立した。
だが九州統一を目前とした島津家の討伐戦では、軍監として派遣した仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により戸次川で大敗し、長宗我部元親の嫡子・長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)や十河存保(そごう・ながやす)が戦死してしまった。
激怒した秀吉は自ら20万の大軍を率いて九州を攻め、島津家を降伏させ西日本の統一を果たした。
秀吉は千利休(せんの・りきゅう)らとともに空前の規模の茶会を催し、黄金の茶室を造り、側室・淀君(よどぎみ)との間に待望の後継者・鶴松(つるまつ)をもうけるなど順風満帆の日々を送った。
そして1590年、全国に号令をかけ地を埋め尽くすほどの大軍で北条家の小田原城を包囲した。
難攻不落の小田原城も抗すすべはなく、3ヶ月後に開城した。東北の諸大名も派兵して恭順の意を示していたため、ここに名実ともに秀吉の天下統一が成された。
1591年、後継者に指名していた鶴松が死去すると、秀吉は甥の豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)を養子として関白職と家督を譲った。それにより秀吉は前関白の尊称である「太閤」と呼ばれるようになった。
同年には理由は諸説あり判然としないが千利休に切腹を命じ、これにより秀吉の死後に利休の弟子たちの多くが徳川方につくなど禍根を招くこととなる。
1592年、明と朝鮮の征服を目指し全国から集めた16万の兵を派遣した。(文禄の役)
総大将に宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)、副将に実質的な指揮官として黒田孝高を配し前半戦は圧倒したが、やはり外国の統治はうまく行かず、各地で義勇軍が蜂起し、広大な領地を誇る明からの大軍も駆けつけると戦況は膠着し、翌年には和睦を結んだ。
一方で淀君が二人目の子となる豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)を産むと、後継者の座を危ぶんだ豊臣秀次と秀吉との間が険悪となった。
そして1595年、秀吉は無用の殺生を繰り返したという理由で豊臣秀次を廃嫡して高野山へ追放し、のちには謀反の嫌疑をかけて切腹を命じ、腹心や妻子ら数十人を処刑させた。
秀次に謀反の意志はなく、殺生を繰り返したという証言も怪しく、いったん出家させておきながら切腹を命じたこと、死後に首を晒したことはともに異例の事態で、諸大名の反発を招いた。秀次の尋問を担当した石田三成への風あたりも強く、このとき事件に連座して処罰された者、秀次と親しくしていて秀吉の不興を買った者のほとんどが、関ヶ原の戦いに際して石田三成と反対の東軍につくこととなる。
1596年、明との講和交渉が決裂し、秀吉は再び朝鮮出兵を決意した。(慶長の役)
小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)を総大将に14万の大軍で攻め込み、さらなる派兵が検討されたが、秀吉の死により立ち消えとなった。
1598年、醍醐寺に全国から700本の桜を集め、妻子と共に一日限りの花見を楽しんだが、その後に病に倒れ、日増しに病状は悪化した。
徳川家康、前田利家ら五大老や石田三成らの五奉行にくり返し後を頼み、著名な辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」を遺し世を去った。
戦争継続を唱える者はほとんどなかったため、五大老らの協議により朝鮮からの全軍撤退が決定した。この戦いで明は多大な戦費の負担と兵力の損耗を強いられ、滅亡の引き金となった。
秀吉死後の覇権を狙う徳川家康は胎動を始め、唯一の障壁となりえた前田利家も亡くなるとわずか2年後の1600年、石田三成率いる西軍を関ヶ原で破り、実質的に天下人の座についた。
豊臣家が大阪夏の陣に敗れ滅亡するのは1615年のことである。
~人物像~
信長に「猿」、「禿げ鼠」と呼ばれたように容貌は優れず、体格にも恵まれなかった。また右手の指が1本多い「多指症」であった。
だが秀吉は自身の容姿が冴えないことや、出自が貧しいことを気にかける様子もなく、「見ての通り、わしは醜い顔をしており、五体も貧弱だが、わしの成功を忘れるでないぞ」とむしろハンデを克服しての成功を誇らしげに語ったという。
俗に言う「人たらし」で、旧敵であろうともいつの間にか懐に入り、心をつかんで味方につけてしまう術に長けていた。そのため秀吉に惚れ込んで家臣となった者は数多い。
九州征伐の際には島津義久(しまづ・よしひさ)と、小田原征伐では伊達政宗とまだ心服させていないにも関わらず二人きりになった挙句、平然と自分の刀を褒美として与えたが、両者とも秀吉の度量に気圧されて斬りつけることができなかった。
並外れた女好きで、当時の武士の間では衆道(同性愛)がごく一般的に行われていたが、秀吉は男には見向きもしなかった。あるとき家臣が、本当に衆道に興味がないのか確かめようと、美少年を小姓として差し出したが、秀吉は「お前には姉妹はいないのか」と尋ねるだけで、一切手出ししなかった。
多くの側室を抱えたが子宝には恵まれず、確かな史料に残るのは淀君が産んだ二人の子供だけで、秀吉の体質に問題があったと思われる。
一方で正室のねねが母代わりとなって、加藤清正(かとう・きよまさ)、福島正則(ふくしま・まさのり)らのちに豊臣家の中枢となる人材を育て上げている。
「太閤検地」や「刀狩り」が主な政策として歴史の教科書などで採り上げられるが、これは信長時代の政策の延長線上にあり、秀吉独自の政策というわけではない。
死後に自身を神格化しようと画策したのも信長にならったものであろう。
軍事においては優れた兵法家であり、特に城攻めに長けた。野戦も得意で主だった戦で敗れたのは家康との長久手の戦いくらいであり、これも局地戦で池田勝入らを失っただけで(そもそも兵力差がありすぎて戦略的に負けることはありえなかったのだが)結果的には家康を降している。
朝鮮征伐は今日にまで禍根を残す無謀な愚行とされるが、世界的に見れば国内統一を成し遂げた秀吉が、さらなる領地拡大と求心力の維持を求め、海外に乗り出すのは当然であろう。日本の歴史上、それまで他国侵略を実行したことがほぼ皆無で、結果的に失敗に終わったがために無謀、愚行とされるだけである。
人材登用にも優れ、多くの家臣を見出しては適材適所に配した。加藤清正ら武官と石田三成ら文官をはっきり二派に分けて運用したのも、当時としては斬新な考えであった。
秀吉の死後に両者が相争い、文官の台頭を快く思わず、武官のほとんどが家康方についたことを非難するのも結果論である。
私見を述べるならば、豊臣家があっさりと家康に葬り去られたのは、秀吉の遺児・豊臣秀頼があまりに幼すぎて後継者としては求心力に欠けたこと、(だからこそ一家臣にすぎない秀吉が天下人になれたのだが)信長の急死により突如として跡を継ぎ、軍事・政治ともに信長の急進的な路線を引き継いで強引に統治を進めたこと、そしてなにより信長、秀吉の成功と失敗を学習し、慎重に事を運んだ徳川家康という人物の才能が傑出していたことが、原因であろう。
秀吉自身は間違いなく、天下人にふさわしい比類なき大人物であった。
元服すると今川義元から一字もらい、松平元康(まつだいら・もとやす)と名乗った。
今川義元の姪をめとり、今川家の軍師・太原雪斎(たいげん・せっさい)から薫陶を受けるなど目をかけられたが、岡崎城は最前線に配置された捨て石にも等しく、また今川家の家臣からも手酷い扱いをされており、忍従の日々を送った。
1560年、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、元康は素早く前線から岡崎城へと帰り、独立を果たした。
2年後には旧友の信長と同盟を結び、さらに名を家康と改めた。
同盟は信長が没するまで続き、両軍はたびたび連合軍を催すなど、この時代には珍しく鉄の結束を保った。
大半の家臣が参加した三河一向一揆に悩まされながらも、1566年には三河統一を成し遂げ、三河守の叙任を受けると、姓も徳川に改め徳川家康となった。
1568年からは今川家に見切りをつけた武田信玄と結び、遠江の攻略にかかった。
今川義元の跡を継いだ今川氏真(いまがわ・うじざね)は軍才に乏しく、遠江、駿河を失い今川家はあえなく滅亡した。
家康は信長の上洛や、浅井長政・朝倉義景(あさくら・よしかげ)連合軍との姉川の戦いに加勢した。
信長と敵対した将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は各地の大名に呼びかけて「信長包囲網」を敷き、家康にも副将軍の地位と引き換えに包囲網に加わるよう促したが、家康はこれを黙殺し、信長との同盟を維持した。
だが武田信玄は包囲網に加わり、信長・家康との同盟を破棄すると、徳川領に侵攻した。
信長はわずかな援軍しか送れず、家康は連敗し浜松城にこもった。しかし武田軍が浜松城を素通りしようとするのを見ると、家臣の反対を押し切って追撃したが、これは武田信玄の罠であり、迎撃されて大敗した。
多くの重臣や信長から送られた将までも失い、影武者に助けられてかろうじて浜松城に逃げ込んだが、恐怖のあまり脱糞していた。
後年、家康はこの時の恐怖に怯える自分の姿を滑稽に描かせ、その肖像画を手元に置いて自らへの戒めとしたという。
勢いに乗る武田軍はこのまま信長との決戦に臨むかと思われたが、武田信玄が急死したため撤退した。
信長包囲網の主力だった武田家の脱落により、信長は反撃に転じると包囲網に加担した大名を一掃した。
家康も信長の大規模な援軍と、当時類を見ないほど多数の鉄砲隊の助力を得て、長篠で武田軍を大破した。
この戦いで武田家は古参の重臣のほとんどを失い、一気に勢力を衰えさせた。
しかし1579年、信長から家康の正室・築山殿(つきやまどの 今川義元の姪)と嫡男・松平信康(まつだいら・のぶやす)に対して、武田家との内通疑惑がかけられた。
家康は釈明に務めたが嫌疑は解けず、信長との同盟維持を優先し、築山殿を殺害し松平信康を切腹させた。
この一件には諸説あり、近年では家康と信康父子との間の仲違いが原因とも言われている。
1582年、織田・徳川連合軍は武田領に侵攻し、武田勝頼(たけだ・かつより)を自害に追い込み武田家を滅亡させた。
家康はその功により駿河を手に入れ、さらに密かに武田家の旧臣を集め、着々と力を蓄えた。
しかし6月2日、信長は本能寺で明智光秀に討たれた。
家康はちょうどその頃、信長に招かれて堺に滞在していた。わずかな配下しかつれておらず、一時は切腹を考えたが、本多忠勝に説得されて翻意すると、服部半蔵の進言により伊賀の険しい山を越えて三河に帰った。その途上に同行していた武田の旧臣・穴山梅雪(あなやま・ばいせつ)が討ち死にしており、家康は九死に一生を得たに等しい。
家康は信長の仇討ちの兵を挙げたが、明智光秀はいちはやく中国地方から帰還した羽柴秀吉によって討たれた。
一方、武田家の旧領・甲斐と信濃では、武田家の旧臣による大規模な一揆が巻き起こり(家康が扇動したという説もある)、さらに越後の上杉家、関東の北条家が信長の死に乗じて侵攻の構えを見せた。
攻略したばかりの甲斐も信濃も治まらず、関東方面を任されていた織田家の滝川一益(たきがわ・かずます)は北条軍に敗れ尾張まで撤退し、河尻秀隆(かわじり・ひでたか)も戦死した。
このため甲斐・信濃・上野は主不在の空白地帯となり、徳川・北条・上杉の三家がこぞって侵攻にかかった。
三つ巴の争いになるかと思われたが、上杉謙信以来、他国への侵略策をとらない上杉家は争いを嫌って帰国し、北信濃の真田昌幸(さなだ・まさゆき)が徳川家につくと、巧みなゲリラ戦法に悩まされた北条家は戦意を喪失し、和睦を申し出た。
それにより甲斐・信濃は徳川家が、上野は北条家が領することで決着した。
信長の死後、織田家では明智光秀を討った秀吉が台頭し、信長の嫡孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を当主に据えて傀儡政権を樹立した。
最大の対抗馬だった柴田勝家も秀吉に敗死すると、不満を抱いた信長の次男・織田信雄(おだ・のぶかつ)は家康とともに打倒秀吉の兵を挙げた。
小牧・長久手の戦いで池田勝入(いけだ・しょうにゅう)、森長可(もり・ながよし)を討ち取ったものの、秀吉軍の兵力は圧倒的であり、恐れをなした織田信雄が勝手に和睦を結んでしまったため、大義名分を失った家康も秀吉と和睦した。
家康は次男・秀康(ひでやす)を秀吉の養子として差し出したが、徳川家の内部では秀吉に対する姿勢の相違から争いが生じ、最古参の重臣・石川数正(いしかわ・かずまさ)は秀吉のもとに出奔してしまった。
これにより徳川家の機密が秀吉に筒抜けとなったため、家康は軍制を改め武田信玄の戦法を踏襲するようになった。
さらに北信濃の真田昌幸が上杉家(秀吉方)に寝返ってしまうと、家康は秀吉自らの説得により臣従を受け入れ、秀吉の妹・朝日姫(あさひひめ)を正室に迎え入れ、再び忍従の日々を強いられることとなる。
1590年、最後に残った関東の北条家も滅ぼされ、豊臣秀吉による天下統一が成された。
家康は秀吉の命によりこれまで領していた三河など5ヶ国150万石に代わって、北条家の旧領・相模など8ヶ国250万石に転封させられた。
見かけ上の石高は跳ね上がったものの、故郷の三河を失い、まだまだ未開の関東一帯には北条家の残党が跋扈し、さらに北条家の非常に低い税率を踏襲せざるを得ず、国力は著しく低下した。
しかし家康は小田原城ではなく江戸城に拠点を据えると、順調に開発を進め、今日の首都東京(江戸)の発展に大きく寄与した。
1592年からの朝鮮出兵には、関東の多くの諸大名と同じく派兵は見送られ、戦力・財力の損耗は避けられた。
秀吉が病に倒れると、五大老の筆頭に任じられ、遺児の豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)が成人するまで後見役となるよう、くり返し頼まれた。
しかし秀吉が亡くなるや暗躍を始め、禁じられていた諸大名との婚姻を推し進め、徐々に味方を増やしていった。
こうした動きに前田利家や石田三成が反発し、一度は婚姻禁止の誓約書を出したものの、前田利家が亡くなり、石田三成もまた武断派と対立して失脚すると、再び婚姻を再開した。
家康は石田三成と武断派の間を仲裁して、武断派とわたりをつけると、暗殺未遂の嫌疑をかけ、豊臣家の中枢に位置する浅野長政(あさの・ながまさ)、大野治長(おおの・はるなが)、土方雄久(ひじかた・かつひさ)らを次々と追放し、前田利家の跡を継いだ前田利長(まえだ・としなが)も兵力を盾に降伏させた。
さらに後見役の座を利用し、豊臣秀頼の名をもって諸大名に加増を行い、島津義久(しまづ・よしひさ)、細川忠興(ほそかわ・ただおき)らも味方に引き込んだ。
1600年、会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の家臣が出奔し、上杉家に謀反の兆しがあると家康に注進した。
家康が問責の使者を送ると、上杉家の重臣・直江兼続は「直江状」として名高い挑発的な返書を送り、激怒した家康は全国に号令を掛け、会津征伐の兵を挙げた。
すると石田三成は、家康を挟撃する好機として、大坂城を占拠し、打倒家康のため決起した。
一説によると、家康は豊臣家でも最たる不穏分子の石田三成の挙兵を誘うために、わざと会津征伐に乗り出したと言われるが、真偽は定かではない。
三成は毛利輝元(もうり・てるもと)を総大将に据え、会津征伐に加わろうとする西国の大名を関所で足止めして味方に引き込むと、伏見城を攻め落とし、徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)の首を上げた。
三成挙兵の一報を受けた家康は会津征伐に向かう兵をつれすぐさま反転した。
次男・結城秀康(ゆうき・ひでやす)を上杉家への備えとして残し、三男・徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)には軍師の本多正信(ほんだ・まさのぶ)をつけて中山道を、福島正則(ふくしま・まさのり)には東海道を進ませ、自身は江戸城に戻ると常陸の佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)ににらみを利かせつつ、全国の諸大名に書状を送り外交戦を展開した。
しかし徳川秀忠の部隊は北信濃で真田昌幸・真田幸村父子に足止めされてしまう。
一方、先行する福島正則らは織田秀信のこもる岐阜城を落としたが、三成の腹心・島左近と宇喜多家の軍師・明石全登(あかし・てるずみ)の奇襲により敗れ、緒戦は一進一退の攻防を繰り広げた。
そして9月15日、局地戦としては世界史的にも類を見ない、両軍あわせ20万とも言われる大軍が関ヶ原で対峙した。
午前8時頃から始まった戦は、序盤こそ高所に陣取り、家康の東軍を包囲するように布陣した三成の西軍が優勢に見えたが、まず三成の軍師・島左近が銃撃により早々と戦線を離脱してしまう。
また家康の外交戦略が功を奏し西軍の右翼の部隊はほとんど動かず、優位に立っていたはずの布陣も意味をなさなくなった。
正午頃、それまで様子見に徹していた、西軍で最大の兵力を持つ小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が東軍に寝返ると、右翼の部隊も次々とそれに準じ、西軍は総崩れとなった。
孤立した西軍の島津義弘が敵中突破で退却を図った際に、本陣近くまで迫られたものの、それ以外は危なげない勝利であった。
戦後すぐに石田三成ら西軍の主だった将は捕らえられ、処刑された。
西軍に加担した諸大名はことごとく処罰され、代わって東軍の諸大名は各地に所領を与えられた。これにより家康の息のかかった者が全国の要所に配置されたこととなる。
豊臣秀頼、淀君に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」と処罰や減封はなかったものの、豊臣家の直轄地を取り上げられたため、わずか3ヶ国65万石の一大名に落ち、関ヶ原の戦いから3年後の1603年には征夷大将軍を与えられ、家康が実質的な天下人の座についた。
1605年、家康は将軍職を徳川秀忠に譲ったが、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として依然、実権は掌握していた。
豊臣家は没落したものの、まだまだ秀吉の威光は生きており、忠誠を誓う者は多かった。
家康もその影響力を無視できず、水面下でのつばぜり合いは続いており、晩年になると豊臣家の存在は最後の心残りとなっていた。
また将軍・徳川秀忠と弟の松平忠輝(まつだいら・ただてる)の仲は険悪であり、松平忠輝の義父・伊達政宗はいまだ天下取りの野心を抱き、不安材料となっていた。
徳川秀忠の跡取りも不透明であり、もし豊臣家、伊達政宗、後継者問題の3つの懸念材料が絡みあったとしたら、徳川家の天下も安泰ではなかった。
はじめは家康も孫の千姫(せんひめ)を豊臣秀頼に嫁がせるなど懐柔策を取っていたが、家康を警戒する豊臣家は積極的に浪人を雇い入れ、武力を増強した。
秀吉の養子だった結城秀康、豊臣恩顧の大名である加藤清正(かとう・きよまさ)、堀尾吉晴(ほりお・よしはる)、浅野長政(あさの・ながまさ)、池田輝政(いけだ・てるまさ)らが没すると、豊臣家はますます孤立していった。
そして1614年、豊臣家が方広寺に寄進した鐘に書かれた「国家安康」の文字が家康の名前を分断しているとして、大問題となった。
豊臣家からは片桐且元(かたぎり・かつもと)が弁明を試みたが家康は面会すら拒否し追い返した。
片桐且元は豊臣秀頼の大坂城退去を勧めたが、逆に秀頼は家康との内通を疑い片桐且元を追放してしまった。
11月、家康は豊臣家に宣戦布告し大坂城を包囲した。(大阪冬の陣)
秀吉自ら手がけた天下の名城を力攻めすることは避け、城外の砦を次々と落としたが、真田丸にこもった真田幸村には大敗を喫した。
すると家康は、夜間に2時間おきに鬨の声と大砲射撃を交互に行わせ、淀君ら女官を心理的に追い込む策をとった。
これが当たり、淀君は和睦を申し出た。家康は大坂城の堀を埋め立て、二の丸・三の丸を破壊することを条件に受け入れ、大坂城は本丸だけを残し裸同然となった。
翌1615年、豊臣家では主戦派と穏健派が対立し、主戦派は埋め立てられた大坂城の堀を掘り返す強硬策に出た。
家康はすぐさま豊臣家が戦争の準備をしていると詰問し、浪人の追放と移封を命じた。
これを拒絶されると再び大坂城に15万もの大軍を進めた。(大阪夏の陣)
豊臣家は先制攻撃を仕掛けたが兵力の差は圧倒的で、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)、塙直之(はなわ・なおゆき)、木村重成(きむら・しげなり)、薄田兼相(すすきだ・かねすけ)ら猛将を一気に失った。
しかし徳川軍は大軍ゆえに連携がうまくとれず、その間隙をついて真田幸村に家康の本陣まで突入され、毛利勝永(もうり・かつなが)には6万もの旗本が一時は撃退された。
家康も切腹を覚悟したがなんとか踏みとどまると、次第に形勢は逆転し、真田幸村も討ち取られた。
大坂城は落城、千姫は解放されたが豊臣秀頼、淀君、毛利勝永らは自害し、かくて豊臣家は滅亡した。
同年、家康は武家諸法度と一国一城令を制定し、全国支配を成し遂げ、徳川幕府264年の天下の礎を築いた。
そして翌1616年、鷹狩りに出た先で倒れ、そのまま病床に伏すと4月に没した。75歳だった。
タイの天ぷらによる食中毒と広く知られているが、天ぷらを食べたのは1月であり、食中毒が死因としては時間が空きすぎており、現在では胃ガンが死因だと考えられている。
家康は遺訓として「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、 心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久のもと、怒りは敵と思え。 勝事ばかり知りて、負ける事をしらざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな。 及ばざるは過ぎたるより勝れり」と残し、特にはじめの一節は非常に著名である。
~家康の人物像~
剣術、馬術、弓術、砲術、水術など多くの武芸を師匠について学び、一流の腕を持っていた。
特に剣術には熱心で柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)、小野忠明(おの・ただあき)ら剣豪を指南役として召し抱え、息子の徳川秀忠にも学ばせた。
しかし家康自身は「家臣が周囲にいるのだから、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を斬る剣術は不要である」と言っている。
俗に言う健康オタクで、自ら薬を調合し服用していた。そのため家康の葬られた東照宮には薬師如来が祀られている。鷹狩りを好み生涯を通じて適度な運動を欠かさず、一方で食事は出世後も貧窮していた頃と同じ質素なものだったという。様々な武芸も健康のためにたしなんでいた節もある。
しかし徳川家代々の将軍は早死にした者が多く、一説によるとあまりに質素すぎる食事で栄養が不足したとも言われている。
非常に多趣味で、特に碁は自らでたしなむのみならず、家元を保護したため現在も囲碁殿堂に顕彰されている。
織田信長と同様に南蛮趣味もあり、関ヶ原の戦いには南蛮具足を着込んで臨み、家臣にも下賜していた。
読書、能、書道、絵画も好みそのいずれもが一定以上の力量を備えていたが、茶の湯だけは好まなかったようで、多くの名物が周りに集まっていたが、自身は質素なものしか用いず、豊臣秀吉のように大々的に茶会を催すこともなかった。
並外れた倹約家で、フンドシは汚れが目立たないように薄黄色のものを用い、洗濯の回数を減らした。
決算の報告は代官から直接聞き、貫目単位までの大金は蔵に納め、匁・分単位の余りだけを私用に使った。
家臣が座敷で相撲をとっていると、傷まないように畳を裏返らせた。
馬小屋が壊れると、そのほうが丈夫な馬が育つと直させなかった。
漬物の味を薄くさせ、ご飯のおかわりを減らした。
などなど倹約どころか吝嗇と言って差し支えない逸話が数多くあり、その甲斐あって莫大な遺産を遺している。
織田信長、豊臣秀吉の成功と失敗を間近で観察し、長く耐え忍ぶ日々を送った家康は、二人の先駆者をあるいは手本に、あるいは反面教師として学び、ついに江戸幕府の繁栄を築き上げた。
今川家の没落、武田信玄の急死、当時としては稀な長寿など幸運に恵まれた面もあったが、それも家康が耐えに耐え忍んだがために、好機がめぐってきたと考えられよう。
遺訓に「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし」とあるように、着実に一歩ずつ天下人への道を歩んだ家康は、やはり戦国一の大人物だろう。
1578年、最上家の分家である上山満兼(かみのやま・みつかね)が伊達家の支援を受け最上領に侵攻。義光は撃退し伊達輝宗の本陣に迫るが、そこに妹で輝宗の妻である義が現れ、義兄弟での争いをやめるよう求めた。最上・伊達両家に強い発言権を持つ義の意向を無視できず、最上家は伊達家と和睦を結んだ。
1580年から義光は謀略を用いて勢力拡大をしていく。まず上山満兼の重臣を調略して満兼を暗殺させ、上山城を落とした。
つづいて鮭延秀綱(さけのべ・ひでつな)を内応させ小野寺家を、東禅寺義長(とうぜんじ・よしなが)を内応させ大宝寺家を戦わずして破った。
さらに仮病で白鳥家の当主を見舞いに越させて暗殺。猛将・延沢満延(のべさわ・みつのぶ)の奮戦で天童家に敗れると、満延に娘を嫁がせて引き抜き天童家も下し、ついに最上郡全域を支配下に収めた。
1588年、伊達政宗が義光の義兄・大崎義隆(おおさき・よしたか)を攻撃したため、義光は救援に赴いた。
だがまたも義が現れ、対峙する両軍の間に駕籠を止めた。義光は戦を続けようとしたが、子供たちが叔母の義になつくのを見て虚しさを覚え、再び伊達家と和睦を結んだ。
それを見た上杉景勝は、伊達家を警戒し最上家が動けないと読み、本庄繁長(ほんじょう・しげなが)と大宝寺義勝(だいほうじ・よしかつ)に最上領の庄内への侵攻を命じ、庄内は大宝寺家のもとへ奪回された。
義光は懇意にしていた徳川家康に庄内侵攻の不当性を主張したが、上杉家は直江兼続の友人である石田三成を通じ豊臣秀吉に接近し、秀吉の裁定により庄内の統治を認めさせた。
1590年、秀吉の小田原征伐の召集に応じ、本領を安堵された。ちなみにこの時、遅参して処刑される一歩手前だった伊達政宗よりもさらに遅く到着したが、父・最上義守の葬儀のためと家康に根回ししておいたため、咎められなかったという。
義光は次男を家康、三男を秀吉に仕えさせ、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)に迫られてやむなく三女・駒姫(こま)を側室に出すなど豊臣政権下で着々と地位を固めていく。
だが1595年、豊臣秀次が謀叛の嫌疑をかけられ切腹すると、まだ15歳の駒姫も連座して処刑された。
悲嘆に暮れて駒姫の生母も亡くなり、義光も伊達政宗とともに秀次への関与を疑われ謹慎させられたため、秀吉への憎悪を募らせた義光は以降、家康への傾倒を強めていく。
1598年、上杉家が東北の諸大名と関東の家康を監視するため、隣の会津に転封された。犬猿の仲に加え上杉領が最上領で分断されており、両家の衝突は時間の問題となった。
1600年、家康は軍備の増強を進める上杉家を詰問するが、直江兼続は事実上の宣戦布告と言える「直江状」を返し、家康は上杉討伐を決断する。
義光もそれに加わるが、石田三成が上方で挙兵したため家康軍は反転。義光は結城秀康(ゆうき・ひでやす)、伊達政宗、南部利直(なんぶ・としなお)とともに上杉軍の牽制を命じられた。
だが南部軍は領内での一揆を口実に撤退。伊達家は上杉家と和睦してしまい、最上軍は孤立した。義光は息子を人質に差し出して上杉家と和睦しようと見せかけつつ奇襲を狙ったが、見抜かれてしまいついに両家は激突した。
直江兼続率いる2万の大軍が最上領に侵攻。対する最上軍は3千ほどしか投入できなかったが2千挺もの鉄砲を配備していたため善戦した。
畑谷城では江口光清(えぐち・みつきよ)が義光の撤退命令を無視して350人で籠城を続け、才を惜しんだ兼続も降伏を勧告するが、上杉軍に1000名近い死傷者を出させて玉砕した。
一方の長谷堂城では志村光安(しむら・みつやす)と鮭延秀綱、湯沢城では楯岡満茂(たておか・みつしげ)らがわずかな兵で上杉軍を防ぎ、戦線を膠着させる。
義光は各地に援軍を要請し、南部家は駆けつけたものの、伊達政宗はその隙に南部領で一揆を煽動するなど勢力拡大を企み、留守政景(るす・まさかげ)にたった3千を預けて出撃させるだけにとどめ、しかも戦闘には参加させなかった。(これでも母の義が最上家にいることから、いちおう重い腰を上げたらしい)
苦戦は続いたが関ヶ原での西軍の敗戦が伝わると、上杉軍は長谷堂城の包囲を解き撤退にかかった。義光は家臣が止めるのも構わず「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか」と自ら先頭に立って追撃したが、兼続や前田慶次の反撃により兜に被弾し、あと一歩のところで取り逃がしてしまい、兼続の鮮やかな撤退戦に賛辞を惜しまなかったという。
義光は上杉家が混乱する中、庄内の奪回に成功し、戦後には計57万石に加増された。
その後は内政に注力し、善政を布いたため領民に非常に慕われ、存命中には一揆もほとんど起こらなかった。
だが家康が自分のもとに出仕していた義光の次男・最上家親(もがみ・いえちか)に最上家を継がせたいと考えたため、嫡子の最上義康(もがみ・よしやす)との間にあつれきが生じた。家親と義康を擁するそれぞれの家臣団の対立に発展し、義光も義康と反目し合う中、1603年(1611年?)義康が何者かによって暗殺された。義光もこの時ばかりはいたく悲しみ、駒姫の際と同等の盛大な葬儀を催したという。
1614年、義光は69歳で没した。
跡を継いだ最上家親もそのわずか3年後に急死し、跡目争いが起こったため1622年、最上家は改易となった。
1582年、信長の嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)、河尻秀隆(かわじり・ひでたか)、森長可(もり・ながよし)とともに武田家攻略の主力を担い、武田勝頼(たけだ・かつより)の首級を挙げた。
この功で上野一国と北信濃の一部、さらに関東管領を任されたが、一益は信長秘蔵の茶器・珠光小茄子を所望したのにかなわなかったため、少しも喜ばなかったという逸話が、戦国期の茶器の重要性を語る一例としてよく引かれている。
一益の関東統治は順調に進み、北条家、佐竹家、里見家はよく指示に従い、北の伊達家、蘆名家も恭順の姿勢を見せていた。
だが信長が本能寺で横死し事態は一変する。
一益は家臣の反対を押し切って上野の諸侯に信長の死を知らせ「私の首を獲り北条家に降る気ならば相手になろう」と言い放った。
武田家の旧領では残党による一揆が相次ぎ(北条家はもちろん徳川家も煽動したという)、北信濃の森長可、南信濃の毛利秀頼(もうり・ひでより)は領地を捨てて逃亡。甲斐の河尻秀隆は武田家残党に襲われて戦死し、織田家の東部戦線は崩壊した。
北条家は書状の上では織田家への恭順を見せかけつつ、上野に6万近い大軍を発した。一益は1万8千で迎え撃ち緒戦は制したものの、後続の上野勢の大半が現れず、多くの腹心を失い敗走した。
一益は関東からの撤退を決断すると、上野勢に人質を返還し、刀や金銀を与えこれまでの労をねぎらい、居城を発った。
しかし明智光秀を討った羽柴秀吉の主導で行われた清州会議には間に合わず、関東も失った一益の織田家での地位は急落した。
間もなく信長の孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を擁する秀吉と、信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)を擁する柴田勝家との間で戦端が開かれ、一益は柴田方についた。
一益は北伊勢で秀吉方の大軍を5ヶ月にわたり釘付けにし勝家、信孝が敗死した後も2ヶ月抵抗を続けたが、援軍を得られず降伏。所領は没収され、出家し同僚の丹羽長秀(にわ・ながひで)のもとへ落ち延びた。
1584年、徳川家康が織田信雄(おだ・のぶかつ)を擁し挙兵すると、隠居していた一益は秀吉に呼び出され、信雄方の調略を命じられる。(ちなみに信雄の家老は娘婿の滝川雄利)
かつての同僚だった九鬼嘉隆を寝返らせ、水軍で信雄・家康の居城の中間に位置する蟹江城を占拠。後に奪回されたが戦いに貢献したことから次男・滝川一時(たきがわ・かずとき)に1万2千石を与えられ、滝川家は大名に復帰した。
その後は滝川雄利を通じ信雄方に和睦を働きかけたり、経験を活かし東国との外交を手掛け1586年、62歳で没した。
鉄砲術一本から始まり関東管領にまで昇りつめた、信長政権の重鎮らしい異色の経歴だった。
滝川家は滝川一時が若くして没したため大名から転落したものの、旗本として存続を果たしたという。
1582年からの武田家征伐でも先鋒として活躍。だが高遠城攻めでは城の屋根に上ると、屋根板を引き剥がして城内へ女子供の区別なく無差別射撃を浴びせたり、軍規を無視してたびたび抜け駆けしたり、他人の家来を勝手に無礼討ちするなど無法な振る舞いが目立ったが、小言をもらうだけで重い処罰は与えられないほど信長に寵愛されており、戦後には信濃に20万石を与えられた。
それから間もなく上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が柴田勝家の攻める越中へ救援へ向かったと聞くと、長可は5千の兵を率いて出撃し、上杉家の本城・春日山城に迫ったため景勝は退却し、越中は織田家の手に落ちた。
だが6月2日、信長が本能寺で討たれると事態は一変し、敵中深くに進入していた長可は窮地に陥る。
越後から撤退し、明智光秀との戦いを決意するが、信長死すの一報を受けた信濃の国衆はほぼ全員が敵に回り、長可を討つため軍勢を集めていた。
唯一、甲州透波の頭領・出浦盛清(いでうら・もりきよ)だけが長可に味方し信濃国衆の蜂起を伝えたため、長可は海津城にとらえていた信濃国衆の人質を逃がさぬよう厳命すると、迅速に海津城に帰り、人質を盾にして撤退を開始。松本まで逃げ延びると足手まといだとばかりに人質を残らず殺した。
さらに木曾義昌(きそ・よしまさ)が長可を迎え入れるふりをして暗殺しようと企んでいるという情報をつかむと、あえて木曾城を迂回せず、木曾義昌に到着日を記した書状を送りつけた。
そして到着日より一日早く、深夜に城へたどり着くと、一気に城内に乱入し木曾義昌の息子で6歳の木曾義利(きそ・よしとし)を人質にとった。悠々と木曾を脱出した長可は、行く先々で木曾義利を盾に使い、東美濃の遠山友忠(とおやま・ともただ)も暗殺を狙っていたが、木曾家からの懇願で手出しできなかった。(ちなみに木曾義利は長可の居城の近くで無事に解放された)
どうにか美濃の居城に帰り着いた長可だが、遠山友忠ら付近の国衆は残らず離反しており、信長の仇討ちに出るどころではなかった。
だが長可は並外れた武勇に加え、暗殺、兵糧攻め、光秀を討った秀吉への取り入りなどあらゆる手を尽くし次々と東美濃国衆を討ち果たし、1年足らずで平定してみせた。
この時の苦労からか、長可は領内に多すぎる城のいくつかを廃城とし、また武蔵守を自称するようになり「鬼武蔵」の異名をとった。
ちなみに武蔵守を自称した理由として、瀬田の橋の関所を、番人を殺して強引に通過したところ信長が「まるで五条橋で暴れた武蔵坊弁慶のようだ」と笑い、武蔵守を名乗るよう勧めたという逸話が知られる。
1584年、秀吉と織田信雄(おだ・のぶかつ)・徳川家康との間で戦(小牧・長久手の戦い)が始まると、長可は舅の池田恒興(いけだ・つねおき)とともに秀吉方についた。
織田信雄の本拠地・尾張への海路を塞ぎ、池田軍は犬山城を落とし、長可は小牧山へ急行した。だが小牧山はすでに徳川軍の手に落ちており、逆に奇襲を受けてしまう。
なんとか持ち堪えていたものの、背後に回った酒井忠次(さかい・ただつぐ)に対処すべく後退したところ、それを敗走と勘違いした一部の兵が混乱をきたし、長可は撤退を強いられた。
次いで本戦では羽柴秀次(はしば・ひでつぐ)につづき第二陣の総大将として進撃。長可は鎧の上から白装束を羽織り、不退転の覚悟を示したという。
各地の城に放火して回ったが、徳川軍の奇襲を受け羽柴秀次の本隊が敗走。第三陣の堀秀政(ほり・ひでまさ)が抗戦するも、家康の本隊が第二陣と三陣の間に割って入り、長可と池田恒興は孤立した。
長可は井伊直政(いい・なおまさ)、水野勝成(みずの・かつしげ)を相手に奮戦するも、水野軍の鉄砲隊の狙撃を眉間に受け即死した。享年27歳。池田恒興とその嫡子・池田元助(いけだ・もとすけ)も戦死し、兵力で圧倒的に勝っていたはずの秀吉軍は一敗地に塗れた。
大将を失った森軍は崩壊し、長可の遺体も打ち捨てられた。大久保家の本多八蔵(ほんだ・はちぞう)が遺体に気づいたが、突出し独りで奮戦していた彼がまさか大将とは思わず、鼻だけを削ぎ(大将ならば首を斬るが、小者は鼻を削いで首の代わりにする)脇差を奪い立ち去った。
そこにさらに別の武者が近づくと、長可の首を斬り、羽織っていた白装束に包み「大将首を奪った」と叫びながら悠々と去っていった。実はこの武者は敵中に残っていた森家の兵で、彼の機転によって長可の首は無事に遺族のもとへ戻った。
戦後、長可の遺言状が家老によって秀吉に届けられた。「15歳の弟・森忠政(もり・ただまさ)は秀吉に奉公すること」「跡継ぎの忠政が幼いので信頼のできる者に居城を任せること」と書かれていたが秀吉は裁量に困り、忠政に跡を継がせ居城を任せる折衷案で済ませた。
6歳の頃に祖父が暗殺されたため父とともに放浪したという。長じると備前の大名・浦上宗景(うらがみ・むねかげ)に仕え、祖父の仇の島村盛実(しまむら・もりざね)や舅の中山信正(なかやま・のぶまさ)らを次々と暗殺。
さらに1566年、備中の大名・三村家親(みむら・いえちか)を浪人に射殺させ、娘婿の松田元賢(まつだ・もとかた)を攻め殺し(夫の戦死を聞いた直家の娘は自害した)、金光宗高(かねみつ・むねたか)が毛利家と内通していると偽って自害させ岡山城を奪い取るなどし、浦上家でも随一の実力者に成り上がった。
まず娘や姉妹、親族の娘を嫁がせ油断させたところを暗殺するその手管は恐れられ、実弟の宇喜多忠家(うきた・ただいえ)でさえ、直家の前に出るときは密かにくさりかたびらを着込んでいたという。
そして1569年、織田信長や赤松政秀(あかまつ・まさひで)と裏で手を結び、ついに浦上家をも乗っ取るために蜂起した。
しかし織田軍は朝倉義景(あさくら・よしかげ)と戦うため引き上げてしまい、赤松軍も黒田官兵衛に敗れて降伏すると、孤立した直家はやむなく浦上家に出戻った。
だが1574年、小寺政職(こでら・まさもと)のもとにいた浦上宗景の兄を担ぎ出し、直家は再び蜂起した。
前回の反省を活かし、事前の根回しで多数の重臣を離反させ、さらに毛利家とも同盟を結んでいた直家は、浦上宗景を播磨へ追放することに成功。備前のみならず備中、美作の一部にまで版図を広げた。
浦上宗景も備前国内の残党と連絡し合い抵抗を続けたが、1579年には鎮圧された。
同年、信長の命を受けた羽柴秀吉の大軍が攻め寄せると、直家はいち早く織田家に臣従し毛利家と戦うが、1581年末、悪性の腫瘍を臀部に患い病没した。
しばらくその死は伏せられたため、公式な没日は翌1582年の1月とされる。
暗殺の材料とするなど親族には酷薄だったが、一方で家臣には温情をもって接し、陥れることは無かった。
また暗殺した相手は手厚く弔い、暗殺者も使い捨てにせずその遺族を保護したため、広く慕われたという。
後継者の宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の代にお家騒動が持ち上がっても離反する者は少なく、宇喜多家が滅亡した後も花房正成(はなぶさ・まさなり)ら援助を続ける旧臣も多かった。
松平家の譜代の家に生まれる。幼い頃の徳川家康が今川家の人質となった際に同行した家臣の中で最も年長だった。
1560年、今川義元が桶狭間で敗死し、家康が今川家より独立して以来、忠次は常に重んじられた。
1563年、三河一向一揆の際には酒井家のほとんどが一揆に加担したが、忠次だけは家康に従った。翌年には吉田城を与えられ、東三河の国衆を統括する立場となり、武田家や織田家との交渉も担当した。
姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど徳川家の主要な戦のことごとくに参戦し、特に長篠の戦いでは別働隊を率いて武田軍の背後に回り、勝利のきっかけを作り織田信長には「背に目を持つごとし」と激賞された。
だが1579年、信長から家康の嫡男・松平信康(まつだいら・のぶやす)の素行について詰問された際、うまく弁護できず信康とその母に死を命じられてしまう失態を演じた。
そのため後年、次代になって酒井家は他の徳川四天王と比べ低い石高しか与えられず、忠次がそれに対して不満を述べると、家康に「お前も息子がかわいいのか」と皮肉られたという逸話が知られるが、近年になって信康の切腹は忠次の失態や信長の意向ではなく、家康と信康の確執が原因であるという説が有力になり、俗説の域を出ない。
1582年、信長が本能寺で斃れると忠次は空白地帯となった信濃・甲斐の掌握を狙うが、信濃国衆の抵抗にあい失敗した。
だが1585年に、忠次に並ぶ重臣だった石川数正(いしかわ・かずまさ)が豊臣秀吉のもとへ出奔すると、忠次はますます重用された。
1588年には息子の酒井家次(さかい・いえつぐ)に家督を譲って京で隠棲し、そのまま三河に帰ることなく1596年、70歳で没した。
その後も酒井家は譜代の大名の筆頭格として、紆余曲折ありながらも幕末まで長らえた。
~海老すくい~
忠次の特技として「海老すくい」がよく知られている。
これは忠次独自の滑稽な踊りとされ、徳川家の筆頭家老である大身でありながら大真面目に演じることで、なおさら周囲の者の笑いを誘ったというが、どのような踊りだったか詳細はわかっておらず、創作などでは作者によって解釈がまちまちである。
その後、大久保忠世(おおくぼ・ただよ)の取り成しで家康のもとへ帰参した。これも時期が定かではないが、早ければ姉川の戦い(1570年)の頃か、遅くとも本能寺の変(1582年)の前と思われる。
本能寺の変に際しては、堺に孤立した家康に同行していたとされるが、確かな記録には残っていない。
家康一行が無事に三河へ戻ると、正信は武田家の残党を参集させ、信濃と甲斐を統治した。
1598年、豊臣秀吉が死去した頃から正信は家康の軍師格として辣腕をふるいだす。
前田利長(まえだ・としなが)への謀略など、家康が放った策の大半は正信によるものだという。
1600年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の参謀を務めたが、信濃で真田昌幸(さなだ・まさゆき)・真田幸村の抵抗にあい、本戦に間に合わなかった。この時、正信は真田家との戦闘を回避するよう進言したが容れられなかったという。
このことがあってか、後に家康の後継者問題が持ち上がった時には、正信は秀忠ではなく結城秀康(ゆうき・ひでやす)を支持している。
関ヶ原で勝利した家康が覇権を握ると、正信はさらに頭角を現していく。策謀により本願寺の内紛に乗じて東西に分裂させ、江戸幕府が開かれると幕政の中心人物となった。
だが武断派には忌み嫌われ、同族の本多忠勝からは「腰抜け」「同じ本多一族でもあいつは別」と、徳川四天王に数えられる榊原康政(さかきばら・やすまさ)からは「はらわたの腐った奴」と罵られ、かつての豊臣政権での石田三成と武断派の確執のように、激しい権力闘争が繰り広げられた。
しかしその手の暗闘では正信に一日の長があり、大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)事件で権勢をほしいままにした大久保派を一掃し、最大の政敵だった大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)をも失脚させた。(ちなみに忠隣は正信を家康のもとへ帰参させてくれた大久保忠世の息子である)
大坂の陣の頃には老齢のため起居もままならなかったが、それでも衰えぬ頭脳で多くの献策をして、家康を助けた。
1616年4月、家康が没するとようやく家督を息子の本多正純(ほんだ・まさずみ)に譲り、わずか2ヶ月後、家康の後を追うように79歳で亡くなった。
家康からは家臣ではなく友と呼ばれるほどの間柄で、正信の言葉が余人には伝わらなくても、家康にだけ伝わることがたびたびあったという。それでいて石高はわずか2万2千石に過ぎなかった。
だがこれは秀吉が黒田官兵衛の才知を警戒して多くの石高を与えなかったのとは異なり、正信が嫡子の本多正純に「3万石までは受けてもいいが、それ以上の石高は辞退しろ。さもなくば身を滅ぼす」と言い遺し、徳川秀忠にも「私の奉公をお忘れなく、本多家の存続を願ってくれるなら、これ以上の石高は与えないで欲しい」と頼んでいたように、自ら断りを入れていたと思われる。
しかし本多正純は家督を継ぐと15万5千石への加増を受け入れ、後に「宇都宮釣り天井事件」で徳川秀忠の暗殺疑惑をかけられ、失脚を余儀なくされたのだった。
そして1573年、高山父子は和田惟長に城へ招かれた。惟長の兵に襲われるも、警戒していた右近らは激しく抵抗。乱闘のさなかに燭台が倒され、部屋は夜の闇に包まれてしまうが、右近は灯りが消える前に惟長が床の間にいるのを見ていたため、すかさず床の間に突進し惟長を斬り伏せた。だが直後に高山家の家臣が誤って右近を斬ってしまい、首を半分ほど切断される重傷を負った。
致命傷かと思われたが右近は奇跡的に一命を取りとめ、それを神の慈悲だと感じ一層キリスト教に傾倒していくこととなった。
その後、高山家は約定通り荒木村重の家臣となった。父の高山友照(たかやま・ともてる)は家督を右近に譲り、キリスト教の布教に専念した。
1578年、荒木村重が突如として信長に反旗を翻した。
信長はまず要害にある高山家の居城を落とそうと、右近に降伏を迫った。右近は金や地位では動かないと考え「降らなければ畿内のキリシタンを皆殺しにし教会も全て壊す」と脅すと、高山家は徹底抗戦を主張する友照派と、降伏を主張する派に二分された。板挟みとなった右近は、地位を捨てると単身で信長に降伏した。
右近の降伏で荒木家は動揺し、征伐されたため信長は右近を元の地位に戻し、さらに加増してやった。
1582年、明智光秀は本能寺で信長を暗殺すると、各地に協力を呼びかけた。
外様の右近や中川清秀(右近の従兄である)は特に期待を掛けられたが、中国地方を攻めていた羽柴秀吉が迅速に畿内へ戻ってくると、その先鋒として明智軍を攻撃した。
その後も秀吉に仕え、中川清秀は柴田勝家との戦いで討ち死にしたものの、右近は多くの戦で手柄を立てた。
また人格者で、千利休の七哲(七人の高弟)にも数えられる右近に惹かれ、黒田官兵衛、蒲生氏郷(がもう・うじさと)らもキリシタンとなった。
一方で右近と父・友照は仏教や神道にとっては暴君で、領内の神社仏閣を次々と壊し、神官や僧侶を迫害したとも伝わるが、キリスト教の拡大を恨んだ僧侶らが誇張して記したともされ、詳細はわからない。
1585年、右近は播磨に転封となるが、間もなく秀吉からバテレン追放令が発布される。
黒田官兵衛らは棄教したが、右近は千利休の説得にも耳を貸さず、信仰を選び追放処分を受け入れた。
しばらくは小西行長(こにし・ゆきなが)によって小豆島に匿われ、1588年には前田利家に、建前上は追放処分を受けたまま1万5千石で招かれた。
秀吉に面と向かって反抗した右近を召し抱えられるのは、秀吉の親友で豊臣家の筆頭格の利家だけだったろう。
前田家の金沢城の修築の際には右近の築城技術が大きく貢献し、利家が亡くなると跡を継いだ前田利長(まえだ・としなが)には軍事・政治の両面で頼りにされた。
だが1614年、徳川家康のキリシタン国外追放令により、右近は前田家を去る。
内藤如安(ないとう・じょあん)らとともにマニラへ送られ、日本で活動する宣教師から右近の信仰ぶりを聞いていたスペイン人らに歓迎されたが、長旅と慣れない気候から老齢の右近は病を得て翌年に没した。享年64歳。
1582年、本能寺の変で信長が討たれると、官兵衛はそのまま秀吉の天下獲りに従い、長政も戦に参陣するようになった。
数々の戦で功を立て、1587年には父子あわせて12万石を豊前に与えられた。
しかし豊前の国人衆は従わず、当地を治めていた城井鎮房(きい・しげふさ)も転封に応じず反乱の兵を挙げた。
城井軍のゲリラ戦に苦しめられた官兵衛は、鎮房の13歳の娘・鶴姫(つる)を人質とすることを条件に和睦を持ちかけた。そして酒宴の席で鎮房を殺すと、その父子と重臣も立て続けに暗殺し、鶴姫も処刑し一気に反乱を鎮圧した。
1589年、官兵衛が隠居し長政に家督を譲る。
1592年からの朝鮮出兵では長政は三番隊を率い、一番隊の小西行長(こにし・ゆきなが)、二番隊の加藤清正らとは別ルートの先鋒を務めた。
黒田軍は長政も負傷するほどの奮戦ぶりで快進撃を続けたが、日本軍全体の兵糧不足から戦線は膠着した。
一度は和睦が結ばれかけたが1596年、交渉決裂し再出兵となる。
黒田軍はこの時も奮戦したが、次第に戦線は膠着し、秀吉の死去によって1598年、全軍撤退した。
秀吉の死後、石田三成ら文官と長政ら武官の対立が激化する中、長政は徳川家康に接近し、正室に迎えていた秀吉の重臣・蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)の娘を離縁すると、家康の養女をめとった。
1599年の石田三成襲撃事件にも加わり、1600年の関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍の主力として奮闘した。
長政の活躍は目覚ましく、三成の軍師・島左近を戦闘不能に追い込んだ他、本戦に先立って小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)や吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の調略を担当し、小早川軍は寝返らせ、吉川軍も戦闘放棄させた(吉川軍が動かなかったことで、間接的に毛利軍の参戦も封じた)ため、家康は長政を戦功第一と激賞し、筑前に52万石(実質100万石とも言われる)もの領地と、子々孫々まで黒田家の罪を免除するお墨付きまで与えた。
一方、戦後に捕らえられ、晒し者にされた石田三成に誰もが侮蔑の言葉を浴びせる中、長政と藤堂高虎(とうどう・たかとら)だけが下馬して礼を尽くし、長政は着ていた羽織を三成にかぶせ、縛られた縄を隠してやったという。
1614年、大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、翌年の大坂夏の陣では主力として参戦。
1623年、56歳で死去した。
~父・官兵衛との逸話~
長政は決断の早い父とは逆に熟慮する性格で、それを優柔不断と見た官兵衛は「自分はかつて小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に決断が早過ぎるから慎重にせよと言われたが、お前はその逆だ」とさとしたという。
長政はその影響から「異見会」という身分の上下を問わず広く意見を求める場を設けた。
官兵衛は隠居に先立ちわざと家臣に冷淡な態度を取り、長政の相続を円滑に進めようとしたが、いざ長政の代になると後藤又兵衛(ごとう・またべえ)ら多くの家臣が黒田家を離れた。
性格だけではなく策士の父と武断派の長政では家臣への扱いも大きく異なったのだろう。
関ヶ原の戦い後、長政は父に「家康公は私の右手を握り感謝してくれた」と報告すると、官兵衛はにべもなく「その時お前の左手は何をしていた」と返したという。
国許にいた官兵衛は、九州を統一せんばかりの勢いで快進撃を続けており、関ヶ原の戦いが長引けば、四国や中国地方へと攻め上がる腹積もりだった。
ところが長政は奮闘して半日足らずで関ヶ原の本戦を終わらせてしまい、官兵衛の野望は途絶えた。せめて家康に手を握られた時、空いている左手で家康を刺せば、まだ乱世は続いていたろうにという皮肉である。
また偉大な軍師である父に対して屈折な思いもあったようで、長政の4歳の息子に、重臣の母里友信(もり・とものぶ)が「父以上の功名を挙げなさい」と言ったところ、長政は「父以上とは何事だ」と激怒し、母里友信を殺そうとしたという話もある。