三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1582年、本能寺の変で信長が討たれると、官兵衛はそのまま秀吉の天下獲りに従い、長政も戦に参陣するようになった。
数々の戦で功を立て、1587年には父子あわせて12万石を豊前に与えられた。
しかし豊前の国人衆は従わず、当地を治めていた城井鎮房(きい・しげふさ)も転封に応じず反乱の兵を挙げた。
城井軍のゲリラ戦に苦しめられた官兵衛は、鎮房の13歳の娘・鶴姫(つる)を人質とすることを条件に和睦を持ちかけた。そして酒宴の席で鎮房を殺すと、その父子と重臣も立て続けに暗殺し、鶴姫も処刑し一気に反乱を鎮圧した。
1589年、官兵衛が隠居し長政に家督を譲る。
1592年からの朝鮮出兵では長政は三番隊を率い、一番隊の小西行長(こにし・ゆきなが)、二番隊の加藤清正らとは別ルートの先鋒を務めた。
黒田軍は長政も負傷するほどの奮戦ぶりで快進撃を続けたが、日本軍全体の兵糧不足から戦線は膠着した。
一度は和睦が結ばれかけたが1596年、交渉決裂し再出兵となる。
黒田軍はこの時も奮戦したが、次第に戦線は膠着し、秀吉の死去によって1598年、全軍撤退した。
秀吉の死後、石田三成ら文官と長政ら武官の対立が激化する中、長政は徳川家康に接近し、正室に迎えていた秀吉の重臣・蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)の娘を離縁すると、家康の養女をめとった。
1599年の石田三成襲撃事件にも加わり、1600年の関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍の主力として奮闘した。
長政の活躍は目覚ましく、三成の軍師・島左近を戦闘不能に追い込んだ他、本戦に先立って小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)や吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の調略を担当し、小早川軍は寝返らせ、吉川軍も戦闘放棄させた(吉川軍が動かなかったことで、間接的に毛利軍の参戦も封じた)ため、家康は長政を戦功第一と激賞し、筑前に52万石(実質100万石とも言われる)もの領地と、子々孫々まで黒田家の罪を免除するお墨付きまで与えた。
一方、戦後に捕らえられ、晒し者にされた石田三成に誰もが侮蔑の言葉を浴びせる中、長政と藤堂高虎(とうどう・たかとら)だけが下馬して礼を尽くし、長政は着ていた羽織を三成にかぶせ、縛られた縄を隠してやったという。
1614年、大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、翌年の大坂夏の陣では主力として参戦。
1623年、56歳で死去した。
~父・官兵衛との逸話~
長政は決断の早い父とは逆に熟慮する性格で、それを優柔不断と見た官兵衛は「自分はかつて小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に決断が早過ぎるから慎重にせよと言われたが、お前はその逆だ」とさとしたという。
長政はその影響から「異見会」という身分の上下を問わず広く意見を求める場を設けた。
官兵衛は隠居に先立ちわざと家臣に冷淡な態度を取り、長政の相続を円滑に進めようとしたが、いざ長政の代になると後藤又兵衛(ごとう・またべえ)ら多くの家臣が黒田家を離れた。
性格だけではなく策士の父と武断派の長政では家臣への扱いも大きく異なったのだろう。
関ヶ原の戦い後、長政は父に「家康公は私の右手を握り感謝してくれた」と報告すると、官兵衛はにべもなく「その時お前の左手は何をしていた」と返したという。
国許にいた官兵衛は、九州を統一せんばかりの勢いで快進撃を続けており、関ヶ原の戦いが長引けば、四国や中国地方へと攻め上がる腹積もりだった。
ところが長政は奮闘して半日足らずで関ヶ原の本戦を終わらせてしまい、官兵衛の野望は途絶えた。せめて家康に手を握られた時、空いている左手で家康を刺せば、まだ乱世は続いていたろうにという皮肉である。
また偉大な軍師である父に対して屈折な思いもあったようで、長政の4歳の息子に、重臣の母里友信(もり・とものぶ)が「父以上の功名を挙げなさい」と言ったところ、長政は「父以上とは何事だ」と激怒し、母里友信を殺そうとしたという話もある。