三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
※アイコンは万秉
尼子義久(あまご・よしひさ)
出雲の人(1540~1610)
出雲の大名・尼子晴久(はるひさ)の嫡子。
1560年、父が急逝したため家督を継いだ。晴久は当時、地盤固めのため有力な親族を暗殺し、国人衆にも強硬な態度をとっており、死を契機に抑圧されていた不満が一気に噴出した。
また毛利元就とは石見銀山を争っていたが、晴久の死を伏せて和睦を結んだものの、元就は晴久の死を察知しており、あえて和睦を受け入れ、裏で尼子家の不穏分子に調略を仕掛けた。
さらに元就は和睦の条件として、石見への不干渉を受諾させた。これにより石見で毛利家に反乱していた国人衆が、尼子家の後ろ盾を失い孤立。反乱を支援していた尼子家の家臣らも援軍を望めなくなった。
義久は北九州の大友宗麟(おおとも・そうりん)と同盟を結び元就に対抗したものの、1562年には重臣の本城常光(ほんじょう・つねみつ)が毛利家に寝返り、牛尾久清(うしお・ひさきよ)らは出雲に撤退。赤穴家、三刀屋家などの国人衆は戦わずして次々と毛利家に降った。
外堀を埋められるように尼子家は孤立を深めていき1565年、ついに居城の月山富田城を包囲された。
城の守りは固く、元就は力攻めを早々に諦めると、兵糧攻めに切り替えた。
兵糧が減るにつれ、尼子家に代々仕えてきた家老らも一人また一人と毛利家に降っていき、義久も疑心暗鬼にかられ宇山久兼(うやま・ひさかね)を謀叛の疑いで誅殺するなど、混乱に拍車を掛けた。
そして1566年11月、義久はついに開城降伏し、戦国大名としての尼子家は滅亡した。
義久と2人の弟は助命され、当初は幽閉されたものの、後には客将扱いを受けた。
後年、山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)らがかつて晴久が粛清した一族の末裔である尼子勝久(かつひさ)を擁立し挙兵した時も、義久ら三兄弟は沈黙を守った。
1610年、義久は71歳で没した。
男子がなかったため、毛利家の意向により甥が跡を継ぎ、尼子家は幕末まで毛利家の家臣として存続した。
※アイコンは韓当
村上武吉(むらかみ・たけよし)
伊予の人(1533~1604)
村上家は能島、来島、因島の三島に分かれて勢力を築き、武吉は能島村上家の当主であることから能島(のしま)武吉とも呼ばれる。
幼い頃に祖父を暗殺されたため、難を避けて能島を去り肥後に潜伏した。
長じると叔父の支援を受けて能島に戻り当主の座につき、長年争ってきた来島村上家の娘をめとって和睦し、村上三島の筆頭格となった。
1555年、毛利元就と陶晴賢(すえ・はるかた)による厳島の戦いでは去就を迷ったものの、村上家と縁戚でもある毛利家の家臣・乃美宗勝(のみ・むねかつ)から受け取った元就の「1日だけ船を貸して欲しい」とだけ記された書状を意気に感じ、水軍を参戦させ毛利家の勝利に貢献した。
以降も毛利家との関係は良好で、海戦や交易に協力し、瀬戸内海の制海権を握り、通行料を取り立て大いに栄えた。
だが1569年、毛利家が九州から撤退すると、大友家や三好家に接近し、大友水軍の通過を見逃したりもした。
交戦こそしなかったものの1571年、浦上家に協力し毛利軍の背後を脅かすとついに元就の堪忍袋の緒も切れ、小早川隆景が能島に攻撃を仕掛けた。
来島・因島村上家もそれに加わったため能島家は孤立し、翌年まで包囲され海路を封鎖される憂き目にあった。
明確な時期は不明だが、他家からの支援も受けられないと悟った武吉はやがて毛利家と和解し、毛利家と織田信長との戦いに水軍を派遣するまでに関係は修復された。
その後、織田家の中国方面軍を率いる羽柴秀吉に調略され、能島家と来島家が寝返るという風聞が立った。
乃美宗勝がまたも武吉の説得にあたり、実際に来島家は寝返ったものの武吉は毛利方に留まり、来島を攻略してみせた。
しかし1582年、信長が本能寺で討たれ、秀吉と毛利家が和睦したため、来島を返還するよう求められたが、武吉はこれを拒否した。
さらに秀吉の四国攻めへの派兵も断ると再び小早川隆景の攻撃を受け、能島を強制的に立ち退きさせられ、隆景の所領に身柄を移された。
隆景が筑前へ移封になると武吉も従い、隆景が没し小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が跡を継ぐと、毛利家に身柄は移された。
能島村上家の家督を継いだ嫡子の村上元吉(もとよし)は、小早川家のもとで文禄・慶長の役に出陣し活躍したが1600年、関ヶ原の戦いに際し西軍に味方し、加藤嘉明(かとう・よしあき)の居城を攻めるも戦死した。
毛利家も関ヶ原を境に周防・長門2ヶ国に減封され、武吉もそれに従ったが、徳川幕府により制海権を掌握されたため村上水軍は事実上の崩壊を遂げた。
1604年、武吉は72歳で没した。
家督は孫の村上元武(もとたけ)が継ぎ、毛利家の船手組として村上家は続いた。
ルイス・フロイスに「日本最大の海賊」と評されたように創作等では海賊然としたイメージを抱かれがちだが、村上家は結束のためにたびたび連歌会を催すなど教養深い一面も持っている。
また武吉が著したとされる海戦の兵法書「村上舟戦要法」は、実に300年後の日露戦争で海軍中将の秋山真之が参考にし、バルチック艦隊の撃破に一役買ったと言われている。
※アイコンは眭固
長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)
土佐の人(1575~1615)
長宗我部元親の四男。
1586年、戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親(のぶちか)が戦死すると家督争いが持ち上がった。
盛親は幼少の頃から粗暴かつ傲慢で人望はなかったものの、次男と三男はすでに他家を継いでおり、また元親は溺愛する信親の娘を当主にめあわせようと考え、年の離れた盛親を選んだ。盛親は父や信親に似て大柄で、また残された肖像画も信親によく似ており、そうしたことも元親は好んだと思われる。
しかし豊臣秀吉は兄を差し置いての相続に難色を示し、盛親に官位を与えず、元親の死後も公式には継承を認めなかった。
1600年、関ヶ原の戦いで当初は徳川家康に味方しようとしたものの、西軍の主力を担う長束正家(なつか・まさいえ)に足止めされ、やむなく西軍に加わった。
盛親は主力として伏見城、安濃津城を攻略し本戦に臨んだものの、家康と内通する吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が毛利家の参戦を阻むため、前に布陣したまま動かず、毛利軍と並んで布陣した盛親も巻き添えを食い戦闘に参加することなく終わった。
盛親は土佐に逃げ帰り、懇意の井伊直政に取り成しを頼んだものの、重臣・久武親直(ひさたけ・ちかなお)の讒言から兄を殺害したこともあり、あえなく改易となった。
家臣団は散り散りとなり、浪人となった盛親は京へ送られ謹慎生活を送り、京都所司代・板倉勝重(いたくら・かつしげ)の監視下に置かれた。旧臣の仕送りで暮らしたとも、自ら寺子屋を開き日銭を稼いだとも言われる。
1614年、豊臣家と徳川家の間で開戦の機運が高まると、豊臣秀頼(ひでより)に招かれ盛親は6人の従者とともに京を抜け出した。
かつての旧臣や浪人が決起を聞きつけて合流し、浪人衆の中では最大勢力に膨れ上がった。
豊臣家は集まった者達に戦勝後の褒美を約束したが、盛親は土佐一国を望んだと伝わる。
大坂冬の陣では井伊直孝(いい・なおたか)、松平忠直(まつだいら・ただなお)を撃退した。
翌1615年、夏の陣では藤堂高虎と対峙し、未明の進軍中に先鋒部隊が藤堂軍に出くわし遭遇戦となった。
先鋒部隊は壊滅したが、かさにかかって攻め込んできた藤堂軍を盛親は伏兵で叩き、主将の高虎までもが逃げ惑い、多くの藤堂一族を討ち取る戦果を挙げた。
しかし友軍の木村重成(きむら・しげなり)軍が井伊直孝に敗れ壊滅すると、井伊軍が救援に駆けつけたため盛親も撃破された。
長宗我部軍の損害は大きく、翌日の真田幸村、毛利勝永(もうり・かつなが)が一躍名を上げた最終決戦には加われず、大坂城も落城すると盛親は逃亡した。
最後は蜂須賀軍によって潜伏先で捕らえられ、見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。
それでも盛親の気勢は全く衰えず、粗末な食事を供されると「名将とて昔から捕縛されたことは多々ある。しかしこんな卑しいものを食わせるくらいならさっさと首を刎ねよ」と激怒した。それを聞いた井伊直孝も処遇に激怒し、座敷に招くと大名料理で歓待したため、盛親は感謝したと伝わる。
また夏の陣の勝因を井伊直孝の勝利、敗因を盛親の敗北とし、我こそが勝敗を決したと自負した。
なぜ自害せず恥を晒しているのかと問われると「命と右手さえあれば家康や秀忠を今の自分と同じ姿にしてやれる機会は残っている」と言い放ち、出家するから助命するよう嘆願したという。
だが家康がこのような危険人物を許すはずもなく、6人の子女とともに処刑された。享年41。
その最期は「死に及んでいささかも怯じたる気配なし」と記される堂々たるものだった。
かくして長宗我部家は滅亡したはずだが2015年、400年法要に盛親の次男の子孫と称する人物が、盛親の物と伝わるあぶみを持参して現れた。
100年前に発見されていたもう片方のあぶみと形状・配色ともに一致し、本物と認められ、なんらかの方法で長宗我部家の血統が残されていたとうかがえる。
※アイコンは張牛角
長宗我部国親(ちょうそかべ・くにちか)
土佐の人(1504~1560)
土佐の大名。
通説では5歳の時に父が本山家に敗れ自害したため、一条房家(いちじょう・ふさいえ)に養育され、15歳の時に一条家の援助で居城の岡豊城を奪回したとされるが、近年の研究では父の長宗我部兼序(かねつぐ)は没しておらず、本山家に城を追われたものの1511年に和睦して城主に復帰し、国親が15歳になると家督を譲ったとする説が有力視されている。
国親は吉田周孝(よしだ・ちかたか)を抜擢して内政に励み、また「一領具足」と呼ばれる半農半兵の制度を考案し、軍備増強に努めた。
1544年には仇敵である本山家と婚姻を結び和睦。近隣の国人衆を次々と破り勢力拡大し「野の虎」と恐れられた。
1556年には三男の親泰(ちかやす)を養子に出し、香宗我部家を傘下に収め、本山家が当主を失い衰退すると、和睦を破棄して攻撃に転じた。
戦いを有利に進めたが1560年、病を得て57歳で没した。
跡を継いだ長男の長宗我部元親は「姫若子(少女)」と呼ばれるほどおとなしい性格だったが、国親の没する1月前の初陣で鬼神の如き活躍を見せ「鬼若子」と評価を一変させた。
一領具足を続け、弟の親貞(ちかさだ)を養子に出して吉良家を従属させるなど、父の戦略を受け継ぎ、1575年には土佐を、1585年には四国統一を果たすのであった。
※アイコンは呂凱
谷忠澄(たに・ ただすみ)
土佐の人(1534~1600)
長宗我部家の重臣。
もともと土佐神社の神主だったが、長宗我部元親に見出され仕えたとされる。
主に外交を担当し、1585年の豊臣秀吉の四国征伐に先立ち、講和交渉に赴いた。
元親は四国全ての安堵を望んだが秀吉は認めず、讃岐・阿波の譲与で一度は話がまとまりかけたものの、結局は決裂した。
秀吉は弟の豊臣秀長(ひでなが)に命じ、讃岐・阿波・伊予の三方面から四国へ攻め入らせた。
忠澄は江村親俊(えむら・ちかとし)とともに兵9千を率い阿波一宮城に詰めた。
蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)、仙石秀久(せんごく・ひでひさ)、藤堂高虎ら5万の大軍が城を包囲したが、城兵の士気高く落ちる気配を見せなかった。
そこで秀長は力攻めを諦め、城の水の手を断つと地下道を掘らせ、城内へ侵入させようとした。
たまらず忠澄らは城を明け渡して撤退し、長宗我部元親に戦況の不利を説き、降伏を勧めた。
徹底抗戦を主張する元親は激怒し、すぐさま切腹を命じたが、忠澄は構わず説得を続け、他の重臣もそれに同調すると元親も折れ、土佐一国の安堵を条件に降伏した。
1586年、秀吉の九州征伐に長宗我部家も参戦したが、軍監を務めた仙石秀久の失策により戸次川の戦いで島津軍に大敗し、元親の嫡子である長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)が戦死した。
忠澄が戦闘中ながら遺体の受け取りを申し出ると、島津家の新納忠元(にいろ・ただもと)は「自分がその場にいれば決して討ち取らせはしなかった」と将来有望な跡取りを殺したことを涙ながらに陳謝し、旧知の僧侶を土佐まで同行させた。
忠澄も信親の遺灰とともに土佐に戻り、その後は土佐中村城の城代を務め、同地で没した。
※アイコンは曹熊
河野通直(こうの・みちなお)
伊予の人(1564~1587)
伊予の大名・河野家の最後の当主。
1568年、河野家先代の河野通宣(みちのぶ)が病に倒れると、嗣子がなかったため一族の通直が養嗣子に迎えられ家督を継いだ。
だが通直もまだ5歳と幼なく、実質的には通直の父・河野通吉(みちよし)が家中を切り回した。(ただし近年の研究では通直の父は村上通康(むらかみ・みちやす)が有力視されている)
また家督相続の際に名前も継いだのか先々代当主で河野通宣の父と同姓同名で、活動時期もかぶるため事績が混同されがちである。
当時の河野家は反乱した大野直之(おおの・なおゆき)も鎮圧できず、隣国の大友家や一条家、長宗我部家に脅かされ、臣従する毛利家の助力で辛うじて生きながらえているに過ぎなかった。
しかし通直は長じると大変な人格者に育ち、多くの美談や逸話を残し、反乱した大野直之すら通直を慕って帰順したという。
1585年、豊臣秀吉が四国討伐に乗り出すと、それに毛利軍も加わったため河野家に抗す術はなく、籠城したものの毛利軍の総大将・小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に説得され開城した。
通直は自ら先頭に立って城内の子供45人の助命を嘆願したとされ、その逸話を伝える石碑が現存している。
通直は所領を没収され、小早川隆景に招かれたが2年後に病死した。
実子はなく、一族の河野通軌(みちのり)が跡を継いだ。
1600年、関ヶ原の戦いに際し通軌は西軍につき、旧領の伊予に攻め込んだが敗北し、河野家もろとも歴史から姿を消した。
だが通直の父が村上通康だとすれば、姉妹が毛利家に嫁ぎ当主の毛利秀元(もうり・ひでもと)を産んでおり、通直の血筋は残っている。
※アイコンは崔禹
来島通総(くるしま・みちふさ)
伊予の人(1561~1597)
来島・能島・因島の三島に勢力を築いた村上家のうち、来島村上家の当主である村上通康(むらかみ・みちやす)の四男。
7歳の時に父が没すると、四男ながら母が主君である河野通直(こうの・みちなお)の娘だったため家督を継いだ。
来島村上家は代々河野家の傘下にあったが、1570年に河野家が幕府に納めようとした金を横領するなど、通総の代から次第に独立色を強めていった。
また河野家は毛利家と同盟関係にあったため、毛利家とともに大友家と戦うことがあったが、この時に作戦をめぐって能島村上家と対立したという。
1582年、羽柴秀吉の調略を受けて通総は織田信長方に寝返った。
そのため毛利・河野軍に攻められた通総は居城を追われ、秀吉のもとに一時身を寄せた。
だが長兄の得居通幸(とくい・みちゆき)が鹿島城を守り抜き、信長が本能寺の変で討たれたのをきっかけに秀吉と毛利家が和睦すると、通総は旧領への復帰がかなった。
秀吉は村上三家の中でいち早く自分に降った通総を寵愛し「来島」と親しく呼びかけたため、通総は姓を来島に改めた。
1585年の四国攻めでは毛利家の小早川隆景の指揮下に入り、旧主の河野家を攻め、その功績から伊予風早に1万4千石を与えられ大名に名を連ねた。
1592年、文禄の役でははじめ四国勢を率いた福島正則の下につけられたが、朝鮮水軍の動きが活発になると、村上水軍の経験を活かし日本水軍に編入された。また長兄の得居通幸はこの海戦で討ち死にしている。
1597年からの慶長の役では水・陸両軍で働き、先鋒として海峡に突入するも反撃にあい戦死した。享年37。
余談ながら捕虜となった朝鮮軍の姜沆(きょうこう)は報告書で「日本軍は大将が戦死するとその子弟が跡を引き継いでおり、池田秀雄(いけだ・ひでかつ)が病死した時には息子が、来島通総が戦死した時には弟が代わって指揮をとった」と伝えており、当時の軍制をうかがわせる貴重な資料となっている。
家督は次男の来島長親(ながちか)が継ぎ、1600年の関ヶ原の戦いで西軍につき改易となるも、妻の伯父が福島正則だったためとりなしを受けて豊後森に1万4千石を得て大名に復帰した。
しかし森は内陸部のため水軍は幕府軍に編入され、来島村上水軍は事実上の解散となった。
来島家は1616年に久留島と字を改め、幕末まで続いた。
※アイコンは王子服
山名豊国(やまな・とよくに)
但馬の人(1548~1626)
母は室町幕府の管領・細川高国(たかくに)の娘で、名門・但馬山名家の次男に生まれた。
1560年に父が没し、兄も因幡山名家を継いでいたが、豊国は家督を継承されないどころか兄と家老の武田高信(たけだ・たかのぶ)の陰謀により追放された。
その後、兄が没すると山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)の援助を得て因幡山名家の家督を継いだが1573年、毛利家の吉川元春(きっかわ・もとはる)に攻められ降伏した。
しかしその裏では織田信長によしみを通じ、1580年に守る鳥取城を羽柴秀吉に包囲されると、単身で秀吉のもとへ赴き降伏した。
一説に豊国の巧みな指揮に手を焼いた秀吉が、妻子を人質に取り降伏を誘ったともいう。
豊国は秀吉の鳥取城攻略に協力したが、「三木の干殺し、鳥取の飢殺し」と呼ばれた凄惨な兵糧攻めで殺された旧臣たちに気が咎めたのか、戦後には仕官の話を断り浪人となった。
だがその後も秀吉や徳川家康と親交を厚くし、朝鮮出兵の際には秀吉に同行するなどした。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき亀井茲矩(かめい・これのり)の指揮下で活躍し、翌年には旧領の但馬に6千石を与えられた。
この頃には但馬山名家が事実上断絶していたため、豊国が山名家の嫡流を継いだことになる。
前半生は苦労を重ねたが、晩年は名家として徳川家に遇され1626年に79歳で没し、子孫も高家(貴族)として存続した。
~~律儀すぎる男~~
名家の御曹司だから、というだけでは済まされない度を越して律儀な豊国の逸話をいくつか紹介する。
徳川家康とともに斯波義銀(しば・よしかね)の屋敷を訪れた際、豊国は卑屈とも取れるほど慇懃な態度で義銀に接した。
家康は「義銀は足利将軍家の一門とはいえ分家にすぎない。お前は新田家の嫡流で守護も務めていたのになぜそうも卑屈なのだ」と苦言を呈した。家康は新田家の分家を称しており、れっきとした新田嫡流の豊国の態度に業を煮やしたのだろう。
関ヶ原の戦い後、旧領に復した豊国はかつて自分を追放した武田高信の遺児を探させた。積年の恨みに報いるのかと思いきや、逆に遺児を召し抱えた。
豊国は山中鹿之介らの援助を得て高信の守っていた城を奪い、その責任を取り高信は切腹しており(豊国が暗殺したとの説もある)、恨みに思うどころか豊国は遺児の行方を気に病んでいたのである。その後高信の子孫は代々、山名家に仕えたという。
征夷大将軍になった家康に謁見した際、豊国はあまりに古びすぎてあちこちほつれ、黒光りしている羽織をまとっていた。
家康がなぜ古着を使うのか尋ねると、室町幕府第10代将軍から山名家に贈られた由緒ある物だと豊国は答えた。
10代将軍の在位は実に百年近く前のことである。家康は「豊国は古い恩義も忘れない律義者だ」と賞したという。
※アイコンは婁圭
山名祐豊(やまな・すけとよ)
但馬の人(1511~1580)
1528年、但馬守護を務めていた叔父が亡くなると家督を継いだ。
築城技術に優れ、1542年に生野銀山が発見されると生野城を改修し、その後も機に臨んでは各地に城を築き、あるいは改修し地の利を得た。
当時の山名家は但馬守護と因幡守護で分裂していたが、祐豊は統一を図り、まず1548年に因幡守護を討ち取ると、弟の山名豊定(とよさだ)を守護代として送り込んだ。
1560年に豊定が没すると自分の長男を送ったが間もなく急逝してしまい、代わって豊定の長男・山名豊数(とよかず)を守護代に任じた。
豊数は家老の武田高信(たけだ・たかのぶ)と結託して弟の山名豊国(とよくに)を追放し権力を強めたが、すぐに高信と反目し、高信は山名豊弘(とよひろ)を擁し(豊弘は出自不明だが祐豊の弟とも言われる)毛利家の助力を得て豊数を攻撃した。
祐豊は豊数を援護したが劣勢に追い込まれ、やがて豊数も没してしまった。出雲で尼子家の旧臣・山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)が蜂起し毛利家の背後を襲い、その後ろ盾を得た山名豊国が旧領の奪回に動くと戦況は好転したが、1569年、織田信長の命を受けた木下秀吉の攻撃を受け、祐豊は但馬を追われ堺まで逃げた。
しかし堺の豪商・今井宗久(いまい・そうきゅう)の仲介により信長に降伏を申し出、但馬国出石郡の領有を認められた。
その後は織田軍と、同じく信長に降伏した尼子家と連携し毛利家と戦ったが1579年、重臣の太田垣輝延(おおたがき・てるのぶ)が突如として毛利家に寝返り、激怒した信長は秀吉に命じて祐豊を討伐させた。
1580年、秀吉の大軍に居城を囲まれた祐豊はやむなく開城し、失意のうちに間もなく没した。
三男の山名堯熙(たかひろ)は父と対立し城を出ていたため無事で、後に秀吉に仕え馬廻から御伽衆へと昇進したが、大坂夏の陣で嫡子が大坂方につき戦死し、堯熙にまで類は及ばなかったものの但馬山名家の嫡流は途絶えた。
次男の山名義親(よしちか)は信濃まで逃れ、当地で子孫を残したという。
山名家自体は因幡山名家を継いだ山名豊国が秀吉に降った後、子孫ともども高家として遇され存続している。
まったくの余談だが「信長の野望」では大名ではなく山名豊国の家老として登場しがちである。
※アイコンは禿髪樹機能
本願寺准如(ほんがんじ・じゅんにょ)
摂津の人(1577~1631)
石山本願寺第10世・顕如(けんにょ)の三男。
1580年、石山合戦で顕如は織田信長との和睦を受け入れたが、嫡子の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を唱え数ヶ月にわたり籠城を続け、挙句に石山本願寺を焼失させた。
1592年、顕如が没すると教如が跡を継いだが、石山合戦で自分とともに籠城した者ばかりを重用したため、教団内に対立が生じた。
反教如派は豊臣秀吉に訴え、それを受けた秀吉は10年後に弟の准如に法主の座を譲るよう命じた。
それに親教如派が激しく抵抗したため、激怒した秀吉は即時退去を命じてしまい、教如は准如に位を譲り本願寺を去った。
准如の母は公家(左大臣)の娘で発言権が強く、秀吉に働きかけることもでき、また准如と教如も異母兄弟でもともと犬猿の仲だったともいう。
1598年に秀吉が没し、1600年、関ヶ原の戦いを制した徳川家康が天下人に上り詰めると、教如は家康から寄進された京都七条烏丸の寺領に東本願寺を立てた。
一説には若い頃に三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の勢力を二分するため教如をそそのかしたと言われるが、確かな証拠はなく、現在の真宗大谷派は「もともと分裂しており、家康の寺社寄進はそれを追認したに過ぎない」と主張している。
1614年に教如が没し、1631年に准如も没したが、本願寺は統一されることなく現在もなお二派に分かれ便宜上、教如の立てた本願寺を「東本願寺」、准如の本願寺を「西本願寺」と呼びならわしている。