三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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毛利秀頼(もうり・ひでより)
尾張の人(??~1593)
織田信長の家臣。初名は毛利長秀(ながひで)。
出自ははっきりしないが、「信長公記」の記述から斯波義統(しば・よしむね)の子で、毛利良勝(よしかつ)に養育されたと推測される。
1560年、桶狭間の戦いで活躍し赤母衣衆に抜擢され、着々と出世を遂げた。
信長の嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)の与力に付けられ、1582年に甲州征伐を果たすと信濃伊那郡を与えられた。
しかし同年、信長が本能寺の変で討たれると、反乱を恐れ領地を捨てて逃亡した。
その後は豊臣秀吉に仕え、多くの戦で手柄を立て、旧領の信濃飯田城主に返り咲いた。
1588年には豊臣姓を与えられたため、もう一人の豊臣秀頼でもある。
1593年に没すると、遺領10万石のうち子の毛利秀秋(ひであき)には1万石しか与えられず、娘婿の京極高知(きょうごく・たかとも)が9万石を継いだ。
確たる理由は不明だが、高知の姉の京極竜子(たつこ)が秀吉の側室として寵愛を受けていたことと関わりがあるかも知れない。
秀秋は1600年、関ヶ原の戦いで西軍につき伏見城の戦いに加わったため改易となった。
その後は豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)に仕え1615年、大坂夏の陣で戦死した。
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村井貞勝(むらい・さだかつ)
出身地不明※太閤記は近江の人と記す(??~1582)
早くから織田信長に仕え、行政手腕に優れた。
戦に出陣した記録はほとんどなく、もっぱら外交や政務全般を担った。
1573年、信長が将軍・足利義昭を追放すると京都所司代に任じられた。
信長からの信頼は厚く、安土城の天守閣が完成した時、筆頭家老の佐久間信盛(さくま・のぶもり)と貞勝にだけ披露したという。
1582年、朝廷は信長に「太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたい」という意向を伝え、信長はそのいずれも拒絶したが、これは貞勝のほうから官位授与を打診したとする説がある。
翌月、明智光秀が本能寺の変を起こした。貞勝は本能寺の向かいの家に住んでいたが、変事を察するともはや本能寺は封鎖されていたため信長の嫡子・織田信忠が泊まる寺へと駆け込んだ。
信忠に二条御所での籠城戦を勧め、攻め寄せる明智軍と戦ったが貞勝と二人の息子、そして信忠はそろって討ち死にした。
年齢は不詳だが60歳は過ぎていたと見られ、ルイス・フロイスは彼を「都の総督」と呼び「尊敬できる異教徒の老人で、甚だ権勢あり」と評している。
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蜂屋頼隆(はちや・よりたか)
美濃の人(1534?~1589)
織田信長の重臣。
はじめは土岐家、次いで斎藤道三(さいとう・どうさん)に仕えた。
道三は嫡子の斎藤義龍(よしたつ)に家督を譲ったが、父子の仲は険悪で、道三は下の息子に家督を移そうと考えた。
それを察知した義龍は弟らを暗殺し、激怒した道三は挙兵したものの、そもそも義龍に家督を譲ったのも家臣の信望を失ったからであり、大した兵力は集まらず敗死した。
頼隆は道三に味方したため国を追われ、隣国の織田家に仕えた。
一方でもともと織田軍の黒母衣衆(親衛隊)に蜂屋般若介(はんにゃのすけ)なる人物がおり、それが頼隆と同一人物とする説もある。
その後は織田家の主力へと昇進していき1568年、信長が上洛を果たすと柴田勝家、森可成(もり・よしなり)坂井政尚(さかい・まさひさ)、そして頼隆が先陣を務め、京の政務もその4人が取り仕切った。
主要な戦では柴田勝家、丹羽長秀(にわ・ながひで)、滝川一益(たきがわ・かずます)、佐久間信盛(さくま・のぶもり)ら名だたる重臣に並んで常に名が上がり、特に丹羽長秀とは昵懇で、未亡人となった長秀の妹をめとり、長秀の四男を男子が無かったため養嗣子に迎えている。
1580年、佐久間信盛が信長の勘気を蒙り追放されると、代わって和泉一国を任された。
1581年の京都御馬揃えでは、丹羽長秀に次ぐ二番手で現れるなど織田家での序列は非常に高かったと見られる。
1582年、甲州征伐では信長の指揮下に入り出陣を待ったが、織田信忠(のぶただ)が単独で武田軍を殲滅に追い込んだため出番がなかった。
本能寺の変の際には、四国征伐を命じられた織田信孝(のぶたか)の下に丹羽長秀、津田信澄(つだ・のぶすみ)とともにいた。
信孝と長秀は混乱に乗じ、明智光秀の娘婿で信孝の後継者争いのライバルだった津田信澄を殺したが、頼隆はそれに関与しなかったという。
羽柴秀吉が中国大返しで帰還してくると、信孝らとともにそれに加わり、光秀を討った。
その後は秀吉方に属し越前敦賀4万石や侍従の官位、羽柴姓、豊臣姓を賜るなど厚遇され、1589年に没した。
事績だけ見れば武勇一辺倒の人に思われるが和歌や連歌の才にも秀で、特に和歌は細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)、古田織部(ふるた・おりべ)に並ぶ腕前と讃えられた。
また秀吉の太閤検地に反対した書状を送っており、秀吉に公然と異論を唱えられるだけの地位と信頼を受けていたことがしのばれる。
これだけの大人物でありながら創作その他ではほとんど顧みられていないのは不思議な限りである。
なお蜂屋家は頼隆より先に養嗣子が没していたため、頼隆の死とともに断絶したが、一族の者が江戸幕府の旗本となり存続している。
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津田信澄(つだ・のぶすみ)
尾張の人(1555~1582)
織田信長の弟・織田信勝(のぶかつ)の嫡子。
3歳の時、父が謀叛を企んだかどで信長に殺された。信澄も連座しかけたが、祖母で信長・信勝の母の土田御前(つちだ)の嘆願により助命され、家老の柴田勝家に預けられた。
このこともあり織田ではなく津田姓を称したとされる。
長じると武勇に優れたため信長に目を掛けられ一門衆として遇された。
1578年、近江高島を任されていた磯野員昌(いその・かずまさ)が出奔すると、その養子となり同地を受け継いだ。また同時期に明智光秀の娘をめとっている。
石山本願寺、荒木村重(あらき・むらしげ)、伊賀との戦いでも活躍し1581年の京都御馬揃えでは信長の息子3人、弟の織田信包(のぶかね)に継ぐ5番手に名が挙がり、一門衆での序列も同様だったと思われる。
1582年、四国の長宗我部元親の討伐のため討伐軍が編成され、信長の三男・織田信孝(のぶたか)を総大将に丹羽長秀(にわ・ながひで)、蜂屋頼隆(はちや・よりたか)、そして信澄が副将に配された。また堺に遊覧に来ていた徳川家康の接待役を丹羽長秀とともに務めている。
しかし同年、信長が本能寺の変で討たれると、明智光秀の娘婿という立場が災いし、さらに後継者争いのライバルを除くため信孝によって暗殺された。享年28。
嫡子の織田昌澄(まさずみ)は、一時期父に仕えていた藤堂高虎の家臣を経て豊臣家に仕えた。
1615年、大坂夏の陣では皮肉にも藤堂軍と戦い、奮闘ぶりから一躍名を知られた。
戦後には恩人と矛を交えた責任を取り自害しようとしたが、他ならぬ高虎に慰留され、徳川家からも罪を問われず、旗本として仕え家名は幕末まで続いたという。
信長の事績を記した「信長公記」に信澄は織田家の中で信長、その嫡子の信忠(のぶただ)、次男の信雄(のぶかつ)に次いで登場が多い。
作者の太田牛一(おおた・ぎゅういち)が仕える丹羽長秀と信澄がともに任務に当たることが多かったのと、信澄が信長の側近として仕えていたことが理由と考えられる。
また「日本史」を著したルイス・フロイスは信澄の死に際し「この若者は異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」と記している。
※アイコンは趙岑
斯波義銀(しば・よしかね)
尾張の人(1540~1600)
父の斯波義統(よしむね)は尾張守護だが実権は守護代の織田信友(おだ・のぶとも)に奪われており、しかも1554年に信友によって暗殺されてしまった。
義銀はすぐさま信友と敵対する織田信長に討伐を命じ、首尾よく仇討ちを果たし守護の座も継いだものの、信長もまた斯波家を傀儡として尾張支配を進めることとなった。
義銀は三河の吉良家、駿河の今川家など足利将軍家に連なる一門衆との同盟交渉に利用された。
その際、吉良義昭(きら・よしあき)と席次を争い、同盟締結の会席なのに互いに軍勢を並べてにらみ合っただけで引き上げた、というプライドの高さを思わせる逸話が残る。
その後、傀儡の立場に嫌気が差すと、吉良義昭や今川義元と共謀し、密かに今川軍を海路から領内に引き入れようとしたが、信長に露見しあえなく尾張を追放された。
河内の畠山家に逃れ、キリシタンとなり暮らしていたが、信長の勢力圏が畿内に及ぶと和解し、名を津川義近(つがわ・よしちか)と改め、娘を信長の弟・織田信包(のぶかね)に嫁がせ、一門衆として復帰した。
1582年、信長が本能寺で討たれた後は、弟の津川義冬(よしふゆ)が家老を務めていた信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕えたと見られる。
だが信雄は流言に乗せられ義冬を殺し、義銀は居城を羽柴秀吉に攻められ降伏した。
秀吉は織田政権を牛耳るにあたり、旧尾張守護の義銀を大義名分として担ぎ上げ、公家と等しい待遇を与え、足利義昭(あしかが・よしあき)、山名豊国(やまな・とよくに)らそうそうたる名家の末裔とともに御伽衆を務めさせた。
東北の大崎家、最上家ら斯波家の分家筋にあたる大名との折衝も担ったが1590年、小田原征伐で降った北条氏直(ほうじょう・うじなお)の赦免を願い出たところ、増長であると秀吉の怒りを買い失脚した。
その後は罪こそ許されたが表舞台に戻ることなく、1600年に61歳で没した。
斯波家が再興することはなかったが、息子らは徳川幕府や細川家に仕え名を残している。
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坂井政尚(さかい・まさひさ)
美濃の人(??~1570)
織田信長の重臣。
前半生がほとんど不明で「太閤記」にははじめ美濃斎藤家に仕えたと記される。
「信長公記」に姿を現すのは1568年のことで、柴田勝家(しばた・かついえ)、佐久間信盛(さくま・のぶもり)、蜂屋頼隆(はちや・よりたか)、森可成(もり・よしなり)ら名だたる重臣とともに京や畿内を統治し、一手の大将を任されることも多々あった。
1570年、比叡山の包囲戦で僧兵や朝倉軍の猛攻を受け戦死した。
その最期の奮戦ぶりを「一人当千の働き、高名比類なきところ」と「信長公記」は伝えている。
長男は姉川の戦いで戦死していたため次男が跡を継いだが、彼もまた本能寺の変に際し織田信忠(おだ・のぶただ)とともに戦死を遂げ、政尚の血統は途絶えた。
※アイコンは劉禅
織田秀信(おだ・ひでのぶ)
美濃の人(1580~1605)
織田信忠(のぶただ)の嫡子で織田信長の嫡孫に当たる。母は森蘭丸の姉妹から武田信玄の娘まで諸説あり判然としない。
1582年、本能寺の変で祖父と父が揃って戦死すると、岐阜城にいた秀信は前田玄以(まえだ・げんい)に匿われた。父とともに二条城におり短刀を授けられたという説もある。
同年、明智光秀を破り仇討ちを果たした羽柴秀吉は、わずか3歳の秀信を織田家の当主として迎え傀儡政権を築いた。
その後は交渉材料として使われ叔父の織田信孝(のぶたか)や織田信雄(のぶかつ)、重臣の丹羽長秀(にわ・ながひで)らの下を転々とした。
1588年、9歳で元服した。
1590年には小田原征伐にも参戦し、兵は堀秀政(ほり・ひでまさ)が指揮した。
1592年、秀吉の計らいで美濃岐阜13万石に移され、織田家や斎藤家、土岐家らかつて美濃を統治した家の旧臣が秀信のもとへ集まった。
秀吉にはもはや主君として仰がれることは無くなったが、従三位中納言に叙せられるなど他の大名家よりは数段上の扱いを受けた。
1600年、関ヶ原の戦いでは石田三成に美濃・尾張2ヶ国を約束され西軍に参戦。
福島正則、池田輝政(いけだ・てるまさ)ら東軍の先鋒を迎え撃ったが圧倒的な兵力差に屈し、岐阜城に撤退。
激しく抵抗したが援軍のあてはなく、また池田輝政はかつて岐阜城を治め弱点を熟知していたため、説得により開城降伏した。
福島正則は秀信の巧みな用兵に感心し、降伏後の振る舞いも堂々としており、また容貌が祖父の信長に酷似していたともされ「さすが信長公の嫡孫」と讃え、自らの武功と引き換えに助命を嘆願したため、秀信は改易されたものの高野山へ送られた。
秀信の旧臣は福島家、池田家に多くが招聘されたという。
しかし祖父・信長が高野山を攻撃した因縁から秀信はなかなか入山を許されず、ようやく出家がかなった後も様々な迫害を受けた。
そして1605年、山を降りて麓に移り住み、その19日後に26歳で没した。
自害説と病死説(山を降りたのも療養のためとする)が囁かれるが詳細は不明である。
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前田まつ(まえだ・まつ)
尾張の人(1547~1617)
前田利家の正室。法名の芳春院(ほうしゅんいん)でも著名。
篠原家に生まれたが4歳で父を亡くし、母は高畑家に再嫁したため、叔母が嫁いだ前田利昌(としまさ)に預けられた。
12歳で利昌の子・利家に嫁ぎ、早くも翌年に長女を、4年後には長男の前田利長(としなが)を授かった。
夫婦仲は睦まじく2男9女、計11人の子宝に恵まれ、記録に残る限り戦国最多タイ記録である。
羽柴秀吉・ねね夫妻とは家が隣同士で、夫妻ともに親友の間柄だった。
秀吉が天下人になっても関係は変わらず、秀吉と利家はお灸を据えあい、まつとねねも親しく話し込んだという。
また三女の摩阿姫(まあ)は秀吉の側室に、四女の豪姫(ごう)は秀吉の養女となった。
1583年、賤ヶ岳の戦いで利家は柴田勝家に味方したが、秀吉との間で板挟みになり中立を保った。
勝家は敗戦後、利家の城に立ち寄ると今までの労をねぎらうだけで恨み言を口にせず立ち去り、まつは秀吉に直談判して降伏の約束を取り付けた。
1584年、佐々成政(さっさ・なりまさ)の軍に城を囲まれたが、倹約家で知られる利家はろくに兵を養っておらず城に籠る他なかった。
その際、まつは「銭に槍を持たせて戦わせたらどうですか」と皮肉を浴びせたという。
1599年、利家が没すると利長が跡を継ぎ、まつは出家し芳春院と号した。
1600年、徳川家康に謀叛の嫌疑をかけられた利長は、いったんは謀叛を決意したものの、まつが慰留に努め、また自ら家康のもとへ人質として赴いたため前田家は処罰されなかった。
だが次男の前田利政(としまさ)は西軍についたため所領を没収され(所領は利長に与えられた)隠居に追い込まれた。はじめは赦免を約束されていたこともあり、まつは心痛から重病にかかり、京や伊勢での保養と、本領の金沢への帰国を禁じられたため14年間を外地で過ごした。
1614年、利長が没するとようやく帰国を許された。後に制定された諸大名の妻子の江戸居住制の実質的な第一号である。
1617年、金沢で没した。享年71。
たびたびの危機を献身的に救ったまつ無くして、加賀百万石の栄華はありえなかった。
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濃姫(のうひめ)
美濃の人(1535~??)
織田信長の正室。父は蝮(まむし)とうたわれた斎藤道三(さいとう・どうさん)。本名は帰蝶(きちょう)。
道三の三女で、正室から生まれた唯一の子。明智光秀は従兄にあたる。
10歳の時に政略結婚により信長の許嫁となり、15歳で嫁いだ。だが史料はきわめて少なく、結婚後の動向はおろかその最期すら判然としない。
信長に嫁ぐ際、道三は短刀を渡し「信長がうつけならば刺せ」と命じたが濃姫は「この刃は父上に向かうかもしれません」と答えた逸話が有名だがもちろん創作である。
信長との間に子は生まれなかったとされるが、そもそも信長の子の母親は不明な者も多く確証はない。
以下に濃姫のその後の事績として挙げられる諸説を紹介する。
1.離縁説
道三が息子の斎藤義龍(よしたつ)に殺されると、政略結婚の意味がなくなり離縁された。
濃姫は父を殺した義龍を嫌い母の実家の明智家に身を寄せたが、間もなく明智家も義龍に攻め滅ぼされ濃姫は命を落とした。
「信長公記」ら織田家の史料に濃姫の事績がないのは、すでに織田家から離れていたためである。
2.生存説
道三が殺されると、むしろ道三の正室の唯一の子である濃姫は、斎藤家の嫡流となる。その婿である信長は道三の後継者として美濃攻略を有利に進めた。
攻略後も美濃の国人衆は重用され、また信長の嫡子・織田信忠(のぶただ)は濃姫の養子となったという記述も残っている。
3.生存説 2
山科言継(やましな・ときつぐ)の日記に「信長の正室が斎藤義龍の後家をかくまった」や「正室が出産した」とする記述がある。
また「明智軍記」にも美濃攻略後に正室が家臣をもてなしたという記録がある。
4.本能寺死亡説
本能寺の変では薙刀をふるい信長とともに戦ったとする説もあり、また本能寺から脱出した家臣が濃姫の遺髪を埋葬したとする塚が現存している。
5.長寿説
本能寺の変後、織田信雄(のぶかつ)が焼き落とした安土城から脱出した信長妻子の中に「御台所・北の方」という正体不明の人物がおり、これが濃姫とされる。
また信雄の分限帳には信雄の正室、徳姫(とく 信長の長女。徳川家康の長男に嫁いだが切腹させられると実家に戻った)の二人に次いで「安土殿」という正体不明の女性がおり、信長の居城の名が付けられていることから相当の高位にいた人物で、これも濃姫と推測される。
なお安土殿は1612年に没し「信長公御台」と記されている。
分限帳にはその他「大方殿様」「御局」なる多くの知行を持つ人物もおり、これらのいずれかが濃姫とする説もある。
信長の正室でありながらあまりに謎が多い彼女の生涯は、戦国ファンの興味を刺激してやまない。
織田信長の小姓。本名は森成利(なりとし)。
また「信長公記」などでは「乱」と記され著名な「蘭丸」の字はあまり使われていない。
信長の家老・森可成(もり・よしなり)の三男として生まれる。
13歳で弟の坊丸(ぼうまる)、力丸(りきまる)とともに小姓として召し抱えられ、長じると信長の使者や事務官の役割も担った。
1582年、戦死した父・長兄に代わり家督を継いでいた次兄の森長可(ながよし)が武田征伐で大功を立て信濃20万石に栄転したため、それまで治めていた美濃5万石が蘭丸に与えられた。
だが蘭丸は信長のもとを離れず、森長可の家老が城代として統治した。
そして同年6月、本能寺により信長が討たれると蘭丸・坊丸・力丸もそろって討ち死にした。
その最期は信長に傷を負わせた安田国継(やすだ・くにつぐ)に討たれたとも、腕に銃弾を受け切腹して果てたともされる。
~~織田信長との関わり~~
蘭丸は眉目秀麗で信長に寵愛されたが、後に使者や事務官も務めたように才知に長けており、それを窺わせる信長との逸話をいくつか紹介する。
ある時、信長は小姓を集め自分の刀の鍔にいくつ模様があるか尋ね、当てたら褒美として与えようと言った。
各々が答える中、蘭丸だけは答えず、信長が不審に思い尋ねると、以前に数えたことがあるから答えを知っていると蘭丸は告白した。
信長は正直さを褒め、蘭丸に刀を与えた。
またある時、信長は隣の座敷の障子を閉めてくるよう命じた。蘭丸が向かうと障子はすでに閉まっていたが、わざと一つ開けると音立ててそれを閉めた。
帰って障子が閉まっていたと報告すると、信長はそれならなぜ音がしたのかと尋ねた。
蘭丸は「殿がうっかりしたと他の者に思われぬよう、閉めた音を周囲に聞かせたのです」と答え信長を感心させた。
別の折、献上品のみかんを皿に盛り運んでいると、信長が「そんなに盛っては転ぶぞ」と注意するやいなや、蘭丸は転んでしまった。
だがこれも障子の時と同じように信長の言葉が正しいと証明するため、わざと転んだのだという。
戦国乱世の話とは思えないほどほのぼのした逸話ばかりだが、信長と蘭丸の親密さと、信長が諸大名に自慢の宝物として「一に白まだらの鷹、二に青い鳥、三に蘭丸」と述べたのにふさわしい、彼の才知が垣間見える。