三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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美濃の出身で、斎藤道三(さいとう・どうさん)に仕え、その息子の斎藤義龍(さいとう・よしたつ)との争いが起こった時、斎藤道三に味方して敗れたため、国を追われたとされるが、前半生はよくわからない。
その後は越前の朝倉義景(あさくら・よしかげ)に仕える。京を追放された足利義昭(あしかが・よしあき)が朝倉家を頼ってくると、縁戚関係にある光秀が接待役となった。
足利義昭は復権のため朝倉義景に再三、上洛を促したが、良い返事はもらえなかった。業を煮やした足利義昭は、美濃を落とし台頭しつつあった織田信長によしみを通じようとし、信長の正室・濃姫の従兄でもある光秀を遣わせた。
信長はすぐさま上洛を決意し、2ヶ月後には出陣して京に入り、足利義昭を征夷大将軍に返り咲かせた。
だが傀儡の立場に嫌気がさした足利義昭は信長と対立し、各地の大名に号令を掛け「信長包囲網」を敷いた。
その頃から光秀は足利義昭のもとを離れ、信長に仕えることとなる。
比叡山焼き討ち、石山本願寺、荒木村重(あらき・むらしげ)、松永久秀(まつなが・ひさひで)ら近畿勢との戦いで武功を立て、丹波を攻略すると近江の一部と丹波一国のあわせて34万石を与えられた。
それと同時に丹後の細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)、大和の筒井順慶(つつい・じゅんけい)ら近畿の諸大名の指揮も務め、計240万石もの所領を任された。そのため近年では「関東管領」になぞらえ光秀を「山陰・畿内管領」と呼ぶこともある。
京から東海道と山陰道へ至る分岐点を領地としたことからもわかるとおり、織田家での地位は重きを置かれ、信長の直属部隊、親衛隊の立場にあった。
しかし1582年、中国地方の征伐を進める羽柴秀吉(はしば・ひでよし)の援軍として行軍する途上、「敵は本能寺にあり」と突如として本能寺に泊まった信長を襲撃する。
このとき、雑兵には攻撃相手を知らせず、謀反とは気づかせなかったと言われ、京に滞在していた徳川家康を信長の命令で暗殺するのだと考えた者もいるという。
光秀軍1万3千に対し信長軍はわずか100人足らずで、抗すすべはなかった。奮戦の末に信長は火を放ち自害したが、遺体は見つからなかった。
濃姫、森蘭丸らも最期を共にし、二条御所にいた信長の嫡男・織田信忠(おだ・のぶただ)や京都所司代・村井貞勝(むらい・さだかつ)も討ち取られた。
光秀は京をおさえたが、与力であり縁戚関係にもある細川藤孝、筒井順慶らは事態の様子見に徹し、挙兵要請に応じなかった。
北陸の柴田勝家、関東の滝川一益(たきがわ・かずます)らは敵を前にして動けなかったが、中国の羽柴秀吉は相対する毛利家と素早く和睦を結ぶと、のちに「中国大返し」とうたわれる迅速な全軍撤退を見せ、本能寺の変からわずか11日後に畿内に引き返し、山崎で明智軍と対峙した。
秀吉軍は畿内の織田信孝(おだ・のぶたか)、丹羽長秀(にわ・ながひで)、池田恒興(いけだ・つねおき)、高山右近(たかやま・うこん)、中川清秀(なかがわ・きよひで)らと合流し、明智軍の倍にも膨れ上がった。
昼夜を徹して引き上げてきた秀吉軍の疲労は濃く、信長急死の直後で統制もとれていなかったが、秀吉の軍師・黒田孝高(くろだ・よしたか)が天王山を占領すると兵力差はいかんともし難く明智軍は敗走した。
同日深夜、居城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓によって光秀は討たれたという。
~本能寺の変~
なぜ信長を裏切ったかという理由は不明で、日本史上の最大の謎の一つである。
光秀の背後には黒幕がいたとされ、まるで事前に暗殺を知っていたかのように迅速な撤退を見せた羽柴秀吉や、京に滞在していた徳川家康、依然として影響力を持っていた足利義昭、信長の台頭を恐れた朝廷、はては濃姫、森蘭丸など多くの名が黒幕の候補として挙げられ、光秀謀反の動機を描くことは作家の腕の見せ所である。
秀吉にあっという間に討たれたことから俗に三日天下と揶揄されるが、光秀が決起するタイミングは決して悪くなかった。
光秀に対抗しうる戦力を持つ柴田勝家、滝川一益、秀吉らはそれぞれ遠く離れた任地で敵を抱え動くことができないはずであった。
徳川家康もほとんど単身で京に滞在中であり、一時は切腹を覚悟するほどの窮地に追い込まれており、服部半蔵らの尽力がなければ帰路に討たれていた可能性も高い。
四国の攻略にかかる前だった織田信孝などは畿内にいたにも関わらず、秀吉が来るまでは光秀討伐に動けず、従兄で光秀の婿である津田信澄(つだ・のぶすみ)を暗殺するなど仲間割れを起こす始末だった。
その間に光秀は着々と畿内を固め、戦力を集める予定だった。最初は挙兵に難色を示した細川藤孝、筒井順慶らもやがては光秀の麾下に参じただろうし、信長の三男・織田信孝や乳兄弟の池田恒興、譜代の重臣の丹羽長秀らはともかくとして、高山右近、中川清秀らが光秀に与する目は十分にあった。
ここは神業とも言える撤退を見せた秀吉を褒めるべきで、たとえばあと数日でも秀吉の到着が遅れていれば、事態がどう動いたか定かではないだろう。
~人物像~
非常に部下思いで、戦死した家臣を丁重に弔い、寺にたびたび寄進米を送ったとされ、このような例は同時代にほとんどないという。
そのためか本能寺の変ののちも、主君を討っておきながら光秀のもとを離れようとする家臣はほとんどいなかった。
愛妻家でもあり正室・熙子(ひろこ)の他に側室は置かなかった。結婚前、熙子は疱瘡を患い顔に醜いあざが残ってしまった。父は熙子にそっくりな妹を光秀に嫁がせようとしたが、光秀はそれをすぐに見抜くと、「私は熙子を妻にしたいのだ」と何事もなかったようにめとったという。
これは同様の話が高橋紹運(たかはし・じょううん)の嫁取りとして伝わるため創作とも言われるが、光秀と親しかった吉田兼見(よしだ・かねみ)の日記(当時の一級史料とされる)に夫妻の仲が睦まじかったことが何度も記されている。
一方でルイス・フロイスは光秀を「裏切りや密会を好む」、「人を欺く手段に長けることを自慢とした」、「余所者であり誰からも信用されなかった」とも記しており、その狷介な性情や織田家中での微妙な立場が透けて見える。
1582年、信長の嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)、河尻秀隆(かわじり・ひでたか)、森長可(もり・ながよし)とともに武田家攻略の主力を担い、武田勝頼(たけだ・かつより)の首級を挙げた。
この功で上野一国と北信濃の一部、さらに関東管領を任されたが、一益は信長秘蔵の茶器・珠光小茄子を所望したのにかなわなかったため、少しも喜ばなかったという逸話が、戦国期の茶器の重要性を語る一例としてよく引かれている。
一益の関東統治は順調に進み、北条家、佐竹家、里見家はよく指示に従い、北の伊達家、蘆名家も恭順の姿勢を見せていた。
だが信長が本能寺で横死し事態は一変する。
一益は家臣の反対を押し切って上野の諸侯に信長の死を知らせ「私の首を獲り北条家に降る気ならば相手になろう」と言い放った。
武田家の旧領では残党による一揆が相次ぎ(北条家はもちろん徳川家も煽動したという)、北信濃の森長可、南信濃の毛利秀頼(もうり・ひでより)は領地を捨てて逃亡。甲斐の河尻秀隆は武田家残党に襲われて戦死し、織田家の東部戦線は崩壊した。
北条家は書状の上では織田家への恭順を見せかけつつ、上野に6万近い大軍を発した。一益は1万8千で迎え撃ち緒戦は制したものの、後続の上野勢の大半が現れず、多くの腹心を失い敗走した。
一益は関東からの撤退を決断すると、上野勢に人質を返還し、刀や金銀を与えこれまでの労をねぎらい、居城を発った。
しかし明智光秀を討った羽柴秀吉の主導で行われた清州会議には間に合わず、関東も失った一益の織田家での地位は急落した。
間もなく信長の孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を擁する秀吉と、信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)を擁する柴田勝家との間で戦端が開かれ、一益は柴田方についた。
一益は北伊勢で秀吉方の大軍を5ヶ月にわたり釘付けにし勝家、信孝が敗死した後も2ヶ月抵抗を続けたが、援軍を得られず降伏。所領は没収され、出家し同僚の丹羽長秀(にわ・ながひで)のもとへ落ち延びた。
1584年、徳川家康が織田信雄(おだ・のぶかつ)を擁し挙兵すると、隠居していた一益は秀吉に呼び出され、信雄方の調略を命じられる。(ちなみに信雄の家老は娘婿の滝川雄利)
かつての同僚だった九鬼嘉隆を寝返らせ、水軍で信雄・家康の居城の中間に位置する蟹江城を占拠。後に奪回されたが戦いに貢献したことから次男・滝川一時(たきがわ・かずとき)に1万2千石を与えられ、滝川家は大名に復帰した。
その後は滝川雄利を通じ信雄方に和睦を働きかけたり、経験を活かし東国との外交を手掛け1586年、62歳で没した。
鉄砲術一本から始まり関東管領にまで昇りつめた、信長政権の重鎮らしい異色の経歴だった。
滝川家は滝川一時が若くして没したため大名から転落したものの、旗本として存続を果たしたという。
1582年からの武田家征伐でも先鋒として活躍。だが高遠城攻めでは城の屋根に上ると、屋根板を引き剥がして城内へ女子供の区別なく無差別射撃を浴びせたり、軍規を無視してたびたび抜け駆けしたり、他人の家来を勝手に無礼討ちするなど無法な振る舞いが目立ったが、小言をもらうだけで重い処罰は与えられないほど信長に寵愛されており、戦後には信濃に20万石を与えられた。
それから間もなく上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が柴田勝家の攻める越中へ救援へ向かったと聞くと、長可は5千の兵を率いて出撃し、上杉家の本城・春日山城に迫ったため景勝は退却し、越中は織田家の手に落ちた。
だが6月2日、信長が本能寺で討たれると事態は一変し、敵中深くに進入していた長可は窮地に陥る。
越後から撤退し、明智光秀との戦いを決意するが、信長死すの一報を受けた信濃の国衆はほぼ全員が敵に回り、長可を討つため軍勢を集めていた。
唯一、甲州透波の頭領・出浦盛清(いでうら・もりきよ)だけが長可に味方し信濃国衆の蜂起を伝えたため、長可は海津城にとらえていた信濃国衆の人質を逃がさぬよう厳命すると、迅速に海津城に帰り、人質を盾にして撤退を開始。松本まで逃げ延びると足手まといだとばかりに人質を残らず殺した。
さらに木曾義昌(きそ・よしまさ)が長可を迎え入れるふりをして暗殺しようと企んでいるという情報をつかむと、あえて木曾城を迂回せず、木曾義昌に到着日を記した書状を送りつけた。
そして到着日より一日早く、深夜に城へたどり着くと、一気に城内に乱入し木曾義昌の息子で6歳の木曾義利(きそ・よしとし)を人質にとった。悠々と木曾を脱出した長可は、行く先々で木曾義利を盾に使い、東美濃の遠山友忠(とおやま・ともただ)も暗殺を狙っていたが、木曾家からの懇願で手出しできなかった。(ちなみに木曾義利は長可の居城の近くで無事に解放された)
どうにか美濃の居城に帰り着いた長可だが、遠山友忠ら付近の国衆は残らず離反しており、信長の仇討ちに出るどころではなかった。
だが長可は並外れた武勇に加え、暗殺、兵糧攻め、光秀を討った秀吉への取り入りなどあらゆる手を尽くし次々と東美濃国衆を討ち果たし、1年足らずで平定してみせた。
この時の苦労からか、長可は領内に多すぎる城のいくつかを廃城とし、また武蔵守を自称するようになり「鬼武蔵」の異名をとった。
ちなみに武蔵守を自称した理由として、瀬田の橋の関所を、番人を殺して強引に通過したところ信長が「まるで五条橋で暴れた武蔵坊弁慶のようだ」と笑い、武蔵守を名乗るよう勧めたという逸話が知られる。
1584年、秀吉と織田信雄(おだ・のぶかつ)・徳川家康との間で戦(小牧・長久手の戦い)が始まると、長可は舅の池田恒興(いけだ・つねおき)とともに秀吉方についた。
織田信雄の本拠地・尾張への海路を塞ぎ、池田軍は犬山城を落とし、長可は小牧山へ急行した。だが小牧山はすでに徳川軍の手に落ちており、逆に奇襲を受けてしまう。
なんとか持ち堪えていたものの、背後に回った酒井忠次(さかい・ただつぐ)に対処すべく後退したところ、それを敗走と勘違いした一部の兵が混乱をきたし、長可は撤退を強いられた。
次いで本戦では羽柴秀次(はしば・ひでつぐ)につづき第二陣の総大将として進撃。長可は鎧の上から白装束を羽織り、不退転の覚悟を示したという。
各地の城に放火して回ったが、徳川軍の奇襲を受け羽柴秀次の本隊が敗走。第三陣の堀秀政(ほり・ひでまさ)が抗戦するも、家康の本隊が第二陣と三陣の間に割って入り、長可と池田恒興は孤立した。
長可は井伊直政(いい・なおまさ)、水野勝成(みずの・かつしげ)を相手に奮戦するも、水野軍の鉄砲隊の狙撃を眉間に受け即死した。享年27歳。池田恒興とその嫡子・池田元助(いけだ・もとすけ)も戦死し、兵力で圧倒的に勝っていたはずの秀吉軍は一敗地に塗れた。
大将を失った森軍は崩壊し、長可の遺体も打ち捨てられた。大久保家の本多八蔵(ほんだ・はちぞう)が遺体に気づいたが、突出し独りで奮戦していた彼がまさか大将とは思わず、鼻だけを削ぎ(大将ならば首を斬るが、小者は鼻を削いで首の代わりにする)脇差を奪い立ち去った。
そこにさらに別の武者が近づくと、長可の首を斬り、羽織っていた白装束に包み「大将首を奪った」と叫びながら悠々と去っていった。実はこの武者は敵中に残っていた森家の兵で、彼の機転によって長可の首は無事に遺族のもとへ戻った。
戦後、長可の遺言状が家老によって秀吉に届けられた。「15歳の弟・森忠政(もり・ただまさ)は秀吉に奉公すること」「跡継ぎの忠政が幼いので信頼のできる者に居城を任せること」と書かれていたが秀吉は裁量に困り、忠政に跡を継がせ居城を任せる折衷案で済ませた。
1582年、信長が本能寺で討たれるといったんは進軍するものの、戦わずに撤退。安土城と城下町に火を放ち焼き落とした。その理由は今もって不明で、ルイス・フロイスは「普通より知恵が劣っていたので、何ら理由も無く」火をつけたと評している。
光秀が羽柴秀吉に討たれた後、信意は清州会議で織田家の後継者の地位を望むが、秀吉は信忠の子・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を、重臣の柴田勝家は織田信孝を推し、秀信が跡取りに、信孝が後見役と決まった。
蚊帳の外に置かれた信意はまだ未練があることを示すように織田姓に復し、織田信雄に改名した。(その前にいったん信勝と名乗っているが、これは信長と家督争いし敗死した叔父と同名である)
1583年、秀吉と信孝・柴田勝家の間で賤ヶ岳の戦いが起こると秀吉方に属し、勝家が敗死し孤立した信孝を降し、秀吉の命で切腹させた。
だが織田家を牛耳り始めた秀吉との関係も悪化すると、妹・徳姫(とく)が徳川家康の長男に嫁いでいた縁もあり、家康と同盟を結ぶ。
そして1584年、秀吉と内通した疑いで津川義冬(つがわ・よしふゆ)、岡田重孝(おかだ・しげたか)、浅井長時(あざい・ながとき)らを誅殺すると、徳川軍とともに秀吉へ決戦を挑んだ。
長久手の戦いで池田恒興(いけだ・つねおき)、森長可(もり・ながよし)を討ち取るも、背後で誅殺した三重臣の遺族が次々と造反し、九鬼嘉隆(くき・よしたか)ら重臣も秀吉に調略されると、家康に断りなく秀吉と和睦した。
これにより織田家を牛耳る逆賊の秀吉を討つという大義名分を失った家康も撤退を余儀なくされた。
以降は秀吉に臣従するが1590年、小田原征伐後の論功行賞で転封を拒否し秀吉の怒りを買い改易され、下野へ流罪となった。
信雄は出家して常真(じょうしん)と名乗り、出羽、伊予と流されるが、家康の仲介で(信雄の娘が次男の徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)に嫁いでいた)赦免され、秀吉の御伽衆に加えられた。
自身は大和に1万8千石を、嫡男・織田秀雄(おだ・ひでかつ)には越前5万石を与えられたが1600年、関ヶ原の戦いで東西両軍のどちらにも与せずにいたところ、西軍との内通を疑われ親子そろって再び改易となった。
その後は豊臣家に仕え、家康との関係が悪化すると信雄はきたる決戦で豊臣方の総大将に目されたが1614年、大坂冬の陣の直前に徳川家へ鞍替えした。
豊臣家の滅亡後、大名に取り立てられていることから、実際には豊臣家の内部から家康へ情報を流していたと思われる。
その後、上野に5万石を与えられた信雄は風雅な庭園を造る一方で養蚕など産業育成に精を出し、やがて京で隠棲すると茶の湯や鷹狩りを楽しむ悠々自適の余生を送り、1630年に没した。
織田家中で失敗しては「信雄殿のなさることよ」と呆れ気味に陰口を叩かれ、暗愚とされているが、最終的には織田一族でも嫡流となり、信長の子の中で江戸時代に大名となったのは信雄だけであり、評価は二分されている。
1582年、信長が本能寺で討たれると、ほど近い堺にいたものの、混乱に乗じ一門衆の第5位で明智光秀の娘婿だった津田信澄(つだ・のぶすみ)に内通の嫌疑をかけて殺害しただけで、逃亡兵が相次ぎ身動きが取れなかった。
中国地方から羽柴秀吉が引き返してくるとそれに合流し、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、明智光秀を討った。
戦後、織田家の後継者を決める清州会議では重臣の柴田勝家に推されたものの、秀吉の擁する信長の孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)が跡継ぎと決まり、信孝は幼い織田秀信の後見役として美濃を与えられた。
秀吉に対抗するため柴田勝家と信長の妹・お市の婚姻を仲介するなど奔走したが、同年12月、突如として秀吉に居城を囲まれた。
信孝は降伏し、秀信を引き渡したうえ、母を人質として差し出す屈辱を強いられた。
翌1583年、秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳で激突すると、信孝も蜂起したが、秀吉方についた信雄の大軍に包囲され、敗れた勝家も自害するとやむなく降伏した。
信孝は自害を命じられ、尾張の野間で切腹した。
辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」と激しい怒りを表したもので(鎌倉時代に野間で源義朝が家臣に暗殺され、その家臣は源義朝の子に討たれた)さらに切った腹から腸をつかみ出すと目の前の掛け軸に叩きつけたという。
その後は甥の織田信雄(おだ・のぶかつ)に仕える。戦働きのほか、血統と旧縁を活かし織田家の旧臣である滝川一益(たきがわ・かずます)や佐々成政(さっさ・なりまさ)の降伏や、羽柴秀吉と徳川家康の和睦を仲介するなど外交面で活躍した。
1590年に信雄が改易されると秀吉の御伽衆となり、この頃に剃髪して有楽斎と称した。姪にあたる淀殿(よどどの)とも懇意だったが、秀吉の死後は家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に加わった。
わずか450の小勢ながら庶長子の織田長孝(おだ・ながたか)とともに奮戦し、長孝は戸田重政(とだ・しげまさ)父子を、有楽斎も蒲生頼郷(がもう・よりさと)を討ち取り大将首を2つ挙げる活躍で、戦後に有楽斎は大和3万2千石、長孝は美濃1万石を与えられた。
だがその後も大坂城に上がり淀殿を補佐した。大野治長(おおの・はるなが)らとともに穏健派として徳川家との折衝役を務めていたが1615年の大坂夏の陣を前に「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と家康に許可を得て豊臣家を離れた。
嫡子の織田頼長(おだ・よりなが)が有楽斎とは正反対の強硬派で、徳川家との開戦や総大将の座を望むなどした末に出奔しており、また家康との内通も疑われていて豊臣家での立場を失ったとも考えられる。
豊臣家の滅亡後は京で隠棲し、茶道に専念した。
1621年、京で死去。享年76。
1582年、信長が本能寺で討たれると、中国地方から迅速に引き返してきた羽柴秀吉と合流。山崎の戦いでは右翼先鋒を務めて明智光秀軍を撃破した。
戦後の清州会議では織田家の四宿老に連なり、秀吉や丹羽長秀(にわ・ながひで)とともに信長の孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を擁立し摂津、後に美濃に13万石を得た。
1584年、小牧・長久手の戦いでは去就が注目されるも秀吉方に参戦。かつて治めていた犬山城を攻略する活躍を見せるが、徳川家康の本拠・三河に進軍中、家康軍の急襲を受けて長男・池田元助(いけだ・もとすけ)や娘婿の森長可(もり・ながよし)とともに戦死した。
その最期は床机に座り、崩れ立つ部隊を立て直しているさなかに徳川家の永井直勝(ながい・なおかつ)の槍を受けたとされる。享年49歳。
池田家は次男の池田輝政が継ぎ、後に家康の娘をめとり「姫路宰相」とまで呼ばれる権勢を誇り、明治時代まで続いた。
1594年、輝政は父の仇である永井直勝を招き、その最期の様を聞いた。
直勝の知行が5千石と知ると「あの父を討った功績がたった5千石か」と嘆息したという。
余談だが直勝は最終的に7万石をとり、子孫には永井荷風や三島由紀夫がいる。