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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―織田有楽斎  人でなしの弟

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戦国列伝―織田有楽斎  人でなしの弟



織田有楽斎(おだ・うらくさい)
尾張の人(1546~1621)

織田信秀(おだ・のぶひで)の十一男。織田信長の13歳下の弟。本名は織田長益(おだ・ながます)
利休十哲に数えられる茶人で、現代東京の有楽町は彼の領地だったことにちなんでいる。


前半生は不明で、記録に現れるのは1574年から。信長の嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)の麾下にいたと思われ、1581年の京都御馬揃えでは一門衆の第6位。信忠に従い甲州征伐で活躍した。
1582年、本能寺で信長が討たれた時、長益は信忠とともに二条御所にいた。明智光秀に包囲され信忠は自刃したが、長益は無事に脱出した。
その際、信忠に自刃を勧めておきながら自分は逃げ出したため「織田の源五(長益の通称)は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と人々に囃し立てられたというが、自刃を勧めたという確たる証拠はなく、有楽斎の他にも前田玄以(まえだ・げんい)ら多くの重臣が脱出に成功している。

その後は甥の織田信雄(おだ・のぶかつ)に仕える。戦働きのほか、血統と旧縁を活かし織田家の旧臣である滝川一益(たきがわ・かずます)や佐々成政(さっさ・なりまさ)の降伏や、羽柴秀吉と徳川家康の和睦を仲介するなど外交面で活躍した。
1590年に信雄が改易されると秀吉の御伽衆となり、この頃に剃髪して有楽斎と称した。姪にあたる淀殿(よどどの)とも懇意だったが、秀吉の死後は家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に加わった。
わずか450の小勢ながら庶長子の織田長孝(おだ・ながたか)とともに奮戦し、長孝は戸田重政(とだ・しげまさ)父子を、有楽斎も蒲生頼郷(がもう・よりさと)を討ち取り大将首を2つ挙げる活躍で、戦後に有楽斎は大和3万2千石、長孝は美濃1万石を与えられた。

だがその後も大坂城に上がり淀殿を補佐した。大野治長(おおの・はるなが)らとともに穏健派として徳川家との折衝役を務めていたが1615年の大坂夏の陣を前に「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と家康に許可を得て豊臣家を離れた。
嫡子の織田頼長(おだ・よりなが)が有楽斎とは正反対の強硬派で、徳川家との開戦や総大将の座を望むなどした末に出奔しており、また家康との内通も疑われていて豊臣家での立場を失ったとも考えられる。

豊臣家の滅亡後は京で隠棲し、茶道に専念した。
1621年、京で死去。享年76。

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