忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―森長可  鬼(畜)武蔵

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

戦国列伝―森長可  鬼(畜)武蔵



森長可(もり・ながよし)
尾張の人(1558~1584)

織田家の重臣。森蘭丸の次兄。
織田家の家老・森可成(もり・よしなり)の次男。1570年に父と兄が戦死したため13歳で家督を継ぎ、信長から一字を拝領し長可と名乗る。

1572年には羽柴秀吉、丹羽長秀(にわ・ながひで)らと連署した文書が発給されており、15歳にして重臣に列していたことがうかがえる。
その後、織田信忠(おだ・のぶただ)の麾下で常に先頭を切って戦い多くの武功を立てる。
内政にも才があり、領地で魚と塩の専売制をはじめ、これは明治時代まで続けられたという。

1582年からの武田家征伐でも先鋒として活躍。だが高遠城攻めでは城の屋根に上ると、屋根板を引き剥がして城内へ女子供の区別なく無差別射撃を浴びせたり、軍規を無視してたびたび抜け駆けしたり、他人の家来を勝手に無礼討ちするなど無法な振る舞いが目立ったが、小言をもらうだけで重い処罰は与えられないほど信長に寵愛されており、戦後には信濃に20万石を与えられた。
それから間もなく上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が柴田勝家の攻める越中へ救援へ向かったと聞くと、長可は5千の兵を率いて出撃し、上杉家の本城・春日山城に迫ったため景勝は退却し、越中は織田家の手に落ちた。

だが6月2日、信長が本能寺で討たれると事態は一変し、敵中深くに進入していた長可は窮地に陥る。
越後から撤退し、明智光秀との戦いを決意するが、信長死すの一報を受けた信濃の国衆はほぼ全員が敵に回り、長可を討つため軍勢を集めていた。
唯一、甲州透波の頭領・出浦盛清(いでうら・もりきよ)だけが長可に味方し信濃国衆の蜂起を伝えたため、長可は海津城にとらえていた信濃国衆の人質を逃がさぬよう厳命すると、迅速に海津城に帰り、人質を盾にして撤退を開始。松本まで逃げ延びると足手まといだとばかりに人質を残らず殺した。
さらに木曾義昌(きそ・よしまさ)が長可を迎え入れるふりをして暗殺しようと企んでいるという情報をつかむと、あえて木曾城を迂回せず、木曾義昌に到着日を記した書状を送りつけた。
そして到着日より一日早く、深夜に城へたどり着くと、一気に城内に乱入し木曾義昌の息子で6歳の木曾義利(きそ・よしとし)を人質にとった。悠々と木曾を脱出した長可は、行く先々で木曾義利を盾に使い、東美濃の遠山友忠(とおやま・ともただ)も暗殺を狙っていたが、木曾家からの懇願で手出しできなかった。(ちなみに木曾義利は長可の居城の近くで無事に解放された)

どうにか美濃の居城に帰り着いた長可だが、遠山友忠ら付近の国衆は残らず離反しており、信長の仇討ちに出るどころではなかった。
だが長可は並外れた武勇に加え、暗殺、兵糧攻め、光秀を討った秀吉への取り入りなどあらゆる手を尽くし次々と東美濃国衆を討ち果たし、1年足らずで平定してみせた。
この時の苦労からか、長可は領内に多すぎる城のいくつかを廃城とし、また武蔵守を自称するようになり「鬼武蔵」の異名をとった。
ちなみに武蔵守を自称した理由として、瀬田の橋の関所を、番人を殺して強引に通過したところ信長が「まるで五条橋で暴れた武蔵坊弁慶のようだ」と笑い、武蔵守を名乗るよう勧めたという逸話が知られる。

1584年、秀吉と織田信雄(おだ・のぶかつ)・徳川家康との間で戦(小牧・長久手の戦い)が始まると、長可は舅の池田恒興(いけだ・つねおき)とともに秀吉方についた。
織田信雄の本拠地・尾張への海路を塞ぎ、池田軍は犬山城を落とし、長可は小牧山へ急行した。だが小牧山はすでに徳川軍の手に落ちており、逆に奇襲を受けてしまう。
なんとか持ち堪えていたものの、背後に回った酒井忠次(さかい・ただつぐ)に対処すべく後退したところ、それを敗走と勘違いした一部の兵が混乱をきたし、長可は撤退を強いられた。

次いで本戦では羽柴秀次(はしば・ひでつぐ)につづき第二陣の総大将として進撃。長可は鎧の上から白装束を羽織り、不退転の覚悟を示したという。
各地の城に放火して回ったが、徳川軍の奇襲を受け羽柴秀次の本隊が敗走。第三陣の堀秀政(ほり・ひでまさ)が抗戦するも、家康の本隊が第二陣と三陣の間に割って入り、長可と池田恒興は孤立した。
長可は井伊直政(いい・なおまさ)、水野勝成(みずの・かつしげ)を相手に奮戦するも、水野軍の鉄砲隊の狙撃を眉間に受け即死した。享年27歳。池田恒興とその嫡子・池田元助(いけだ・もとすけ)も戦死し、兵力で圧倒的に勝っていたはずの秀吉軍は一敗地に塗れた。

大将を失った森軍は崩壊し、長可の遺体も打ち捨てられた。大久保家の本多八蔵(ほんだ・はちぞう)が遺体に気づいたが、突出し独りで奮戦していた彼がまさか大将とは思わず、鼻だけを削ぎ(大将ならば首を斬るが、小者は鼻を削いで首の代わりにする)脇差を奪い立ち去った。
そこにさらに別の武者が近づくと、長可の首を斬り、羽織っていた白装束に包み「大将首を奪った」と叫びながら悠々と去っていった。実はこの武者は敵中に残っていた森家の兵で、彼の機転によって長可の首は無事に遺族のもとへ戻った。

戦後、長可の遺言状が家老によって秀吉に届けられた。「15歳の弟・森忠政(もり・ただまさ)は秀吉に奉公すること」「跡継ぎの忠政が幼いので信頼のできる者に居城を任せること」と書かれていたが秀吉は裁量に困り、忠政に跡を継がせ居城を任せる折衷案で済ませた。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R