三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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斎藤利三(さいとう・としみつ)
美濃の人(1534~1582)
美濃の大名へと下克上した斎藤道三(さいとう・どうさん)とは異なり、正統な美濃斎藤家の出で、明智光秀の甥(妹の子)とされる。
もとは道三の子・斎藤義龍(よしたつ)に仕え、後に稲葉一鉄(いなば・いってつ)に従い織田家に鞍替えした。
だが一鉄と仲違いし、伯父の光秀に仕え筆頭家老として用いられた。当初、織田信長は一鉄の抗議を受け利三の返還を命じたが、光秀は「30万石をいただくよりも、良き士を得て信長様に報いたい」とそれを拒絶し、強引に認めさせたという。
その際に信長ははじめは激怒し光秀を折檻したともされるが、本能寺の変の遠因として絡めたいだけの創作に思える。
1582年、光秀は本能寺の変を計画し、利三ら数人の重臣にだけ打ち明けた。
光秀の娘婿の明智秀満(あけち・ひでみつ)と利三は無謀だと反対したという説と、信長と敵対し討伐軍を向けられる直前だった長宗我部元親が利三の妹婿に当たることから、むしろ利三が元親を救うため計画を主導したという説がある。
いずれにしろ利三は本能寺の変で中心的役割を果たしたが、明智軍は中国大返しで現れた羽柴秀吉に大敗し、光秀は落ち武者狩りに討たれ、利三も捕縛され斬首となった。
なお彼の末娘は後に三代将軍・徳川家光の乳母となり大奥で権勢をふるう春日局である。
叛逆者の光秀の血脈が将軍家を事実上、牛耳ることになったのは歴史の皮肉だが、それが光秀生存説(=南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)と同一人物説)の傍証とされることもある。
九鬼嘉隆(くき・よしたか)
伊勢志摩の人(1542~1600)
戦国時代屈指の水軍を率い「海賊大名」の異名をとった。
嘉隆は三男で、1551年に父が死去すると長兄の九鬼浄隆(きよたか)が家督を継いだ。
だが1560年、北畠家の援助を受けた国人衆に攻められ、防戦のさなかに浄隆が急死した(戦死したともされる)ため、嘉隆はその遺児の九鬼澄隆(すみたか)を連れ逃亡した。後に伊勢の出身ともされる滝川一益(たきがわ・かずます)の仲介を得て織田信長に仕えた。
1569年、信長が北畠家を攻めると、嘉隆は水軍を率い地の利を活かして活躍した。
嘉隆は志摩の国人衆にも復讐を果たすと、信長に志摩の領有と九鬼家の家督相続を認められた。(一説には信長死後に甥の澄隆を殺し家督を奪ったともされる)
1576年、嘉隆は300隻の軍船で石山本願寺を攻めたが、毛利家の村上・小早川水軍600隻に惨敗し船を焼き払われ、多くの将も戦死した。
信長はこの報に激怒し、嘉隆にただちに燃えない船を造るよう命じた。嘉隆は船体に鉄板を貼った鉄甲船を考案し、6隻を建造した。
そして1578年、嘉隆の率いる鉄甲船団はわずか6隻で100倍もの毛利水軍を打ち破り、制海権を手に入れた。
実際に鉄板を貼っていたのか、本当に100倍の敵に勝利したのか、これだけの大戦果を上げながらその後ほとんど実戦に用いられなかったのはなぜか、と疑問は多く残るが、いずれにしろ嘉隆の水軍が大勝利を収め、石山本願寺との戦いを優勢に導いたのは確かである。
1582年、信長が本能寺で討たれるとその次男・織田信雄(のぶかつ)に仕えたが、2年後に滝川一益の誘いで羽柴秀吉に寝返る。
その後も織田家と同様に水軍の主力として重用され、1592年からの文禄の役では日本水軍を率いた。
だが同じく水軍の指揮官に任じられた脇坂安治(わきさか・やすはる)が抜け駆けの末に敗北すると多くの損害を出したため、秀吉は海戦を避けて陸・水軍連携による沿岸警備を命じた。この策はあたり攻め寄せた朝鮮水軍を何度も撃退した。
1597年、嘉隆は家督を子の九鬼守隆(もりたか)に譲り隠居した。
1600年、関ヶ原の戦いにあたり嘉隆は自らは西軍に、守隆は東軍に属させ、東西両軍どちらが勝っても家名存続できるように講じた。
嘉隆は守隆が抜け手薄になった鳥羽城を奪い、伊勢での戦いも有利に進めたが、関ヶ原で西軍が敗走すると城を放棄して逃げ出した。
守隆は徳川家康に戦功と引き換えに父の助命を願い出て、無事に許されたものの、それが嘉隆に伝わるより先に、嘉隆は家臣のすすめで切腹してしまった。
悲報を聞いた守隆は激怒して、その家臣の首を生きながらノコギリで少しずつ斬らせたという。
江戸時代、嘉隆は軍記物などで脚色され「海賊大名」として大いに名を馳せた。
柴田勝家(しばた・かついえ)
尾張の人(1522~1583)
織田家の筆頭家老。「鬼柴田」とうたわれた家中でも屈指の名将。
若い頃から織田信秀(のぶひで)に仕え、織田信秀が亡くなり嫡子の織田信長が跡を継いだ頃には、織田家の重鎮となっていた。
信長の弟・織田信行(のぶゆき)の家老として戦功を重ねたが、奇行が多く「うつけ者」と評されていた信長に代えて、織田信行を当主に据えようと、家老の林秀貞(はやし・ひでさだ)とともに画策した。
しかし「うつけ者」の仮面を捨て去った信長は連戦連勝で勝家を追い詰め、ついには降伏させた。
以来、勝家は信長に心酔し、織田信行が再び謀反を企んだ時にはそれを密告し、切腹させている。
しばらくは干されていたが、足利義昭(あしかが・よしあき)の要請による上洛戦から頭角を現し始めた。
信長の信頼も得て、三好三人衆、長島一向一揆、石山本願寺、朝倉家、浅井家、長篠の戦いなど重要な戦には必ず駆り出された。
六角家との戦いでは水の手を断たれたが、勝家は様子を探りに来た間者の目を欺くため、わざと大量の水で馬を洗ったり、水瓶を割って余裕を見せつけた。
そうして後がないぞと味方の奮起を促し、水の手を断ったはずなのにと動揺した六角軍を打ち破り「瓶割り柴田」の異名で知られるようになった。
朝倉家を滅ぼすと、越前ははじめ前波吉継(まえなみ・よしつぐ)に預けられたが、富田長繁(とみた・ながしげ)の扇動した一揆により前波吉継は殺され、さらに富田長繁も動乱のさなかに命を落とし、越前は守護不在の一向一揆が支配する国になってしまった。
すると信長は総力を率いて越前を奪回し、勝家に預けた。与力として前田利家、佐々成政(さっさ・なりまさ)、不破光治(ふわ・みつはる)らが付けられ、勝家は上杉家に対する北陸方面軍の総司令官となった。
1577年、上杉謙信は加賀に進出し、畠山家の七尾城を囲んだ。
柴田勝家は救援に向かうが、その前に七尾城は陥落し、上杉軍は勝家の迎撃に乗り出した。
その直前、友軍につけられた羽柴秀吉が、勝家と仲違いし、勝手に軍を引き上げるなど指揮系統は混乱しており、七尾城が陥落した報告もまだ届いていない有様だった。
ようやく陥落を知りあわてて撤退したものの、上杉軍に手取川で追いつかれ、勝家軍は大敗を喫した。
波に乗る上杉軍は越後へ凱旋すると、大規模な出兵の準備を進めたが、上杉謙信が急死したため頓挫した。
上杉家は家督争いを始め、著しく勢力を弱めた。90年にわたり加賀を治めていた一向一揆も、石山本願寺が信長に降伏したことによって衰退しており、勝家はその隙をつき加賀、能登、越中まで版図を拡大した。
またこの頃に佐久間信盛(さくま・のぶもり)が信長の勘気をこうむって失脚し、勝家は名実ともに織田家の筆頭家老となった。
しかし1582年、越中の攻略中に信長が本能寺で討たれてしまう。
勝家は仇討ちに戻ろうとしたが、上杉家をまとめた上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の反撃にあい撤退することができず、その間に羽柴秀吉が仇討ちを果たした。
織田家の後継者と今後を決める清洲会議で、勝家は信長の三男・織田信孝(のぶたか)を推したが、発言権を強めた羽柴秀吉によって、後継者は信長の孫・織田秀信(ひでのぶ)と定まり、秀吉はその後見人の座に収まった。
信長の遺領配分でも、秀吉が畿内に多くの所領を得る一方で、勝家はわずかな加増にとどまり、織田家中での立場は完全に逆転してしまった。
ちなみにこの後、懐柔策だろうか、勝家は秀吉の仲介により信長の妹・お市をめとっている。
不満を募らせた勝家は織田信孝や、信長の死後に関東を失った不手際で失脚した滝川一益(たきがわ・かずます)らと組み、秀吉に対抗した。
しかし秀吉の外交戦略に翻弄されて立場を失い、賤ヶ岳で決戦を挑むも、主将の勝家と、親友である秀吉の間で板挟みとなった前田利家が撤退したのをきっかけに大敗した。
勝家は逃げる途上、前田利家の居城に立ち寄ると、今までの労をねぎらい、勝手に撤退したことを一切責めず、秀吉に仕えるとよいと忠告し一杯の茶漬けを所望しただけで去ったという。
勝家は居城の北ノ庄城にこもったが、秀吉軍に包囲された。
妻のお市に秀吉が懸想していたこともあり、降伏するよう促したが、お市は前夫・浅井長政の死の折にも城を出て降伏したことを持ち出し、「また落城の折に逃げ出せというのか」と拒絶し、勝家に殉じた。
勝家は天守閣に登ると「勝家の腹の切り様を見て、後学にしたまえ」と叫び、腹を十文字に割いて自害した。享年62歳だった。
織田信秀(おだ・のぶひで)の四男。織田信長、お市らと母が同じと思われ、一門衆の第3位に数えられる。
だが血統と地位のわりに記録が少なく、事績は断片的にしか伝わっていない。
1568年、信長の命で養子入りし北伊勢の長野工藤家を継いだ。信長の子・織田信雄(おだ・のぶかつ)、織田信孝(おだ・のぶたか)らも同時期に伊勢の名家に養子入りしており、調略の一環と見られるが、三者ともに間もなく縁組を解消している。
信長からの信頼は厚く、1573年の小谷城の戦いでは妹のお市や茶々(ちゃちゃ 後の淀殿)ら姪を保護し、越前一向一揆や雑賀衆との戦にも参陣。信長の嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)の補佐につけられた他、長男の正室に元尾張守護の斯波義銀(しば・よしかね)の娘を迎えるなど幅広く活躍した。
1582年の本能寺の変後、信長の子らが激しい家督争いを繰り広げるなか、ナンバー3のはずの信包は野心を持たなかったのか、後継者の地位を望まず、また誰からも担ぎ出されることもなく、羽柴秀吉に従い伊勢に15万石を得た。
しかし1590年、小田原征伐の際に北条氏政(ほうじょう・うじまさ)父子の助命を嘆願したため秀吉の怒りを買い、1594年「石高のわりに働いていない」と改易された。
剃髪し老犬斎(ろうけんさい)と号し京で隠棲するが、後に許されて秀吉の御伽衆となり、1598年には丹波3万石を与えられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属したものの、長男の織田信重(おだ・のぶしげ)は東軍で戦ったため徳川家康は罪を問わず所領を安堵された。
その後は姪の淀殿の縁から豊臣家に仕えたが1614年、大坂の陣の直前に急死した。
徳川家との内通がささやかれる片桐且元(かたぎり・かつもと)による暗殺説もあるが、享年は72であり病死でも不自然ではない。
長男の信重とは不和だったのか家督は遺言により三男が継いだ。信重は幕府に不服を申し立てるも「遺言である。僻むな」と逆に改易となった。
河尻秀隆(かわじり・ひでたか)
美濃の人(1527~1582)
はじめは清洲織田家に仕え、のちに織田信秀(おだ・のぶひで)に仕えた。
小豆坂の戦いで名を上げ、織田信長の代になると黒母衣衆(馬廻から十人ほど選ばれた精鋭)の筆頭になる。反乱した信長の弟・織田信行(おだ・のぶゆき)殺害の実行役を務めた説もある。
信長からの信頼は厚く、主要な戦のほとんどに参戦し、1574年には嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)の副将に付けられた。信長は「秀隆を父と思え」と信忠に命じるほどで、信忠が東方戦線を任されると秀隆が実質的に指揮を取り、1582年に武田家を滅亡させると甲斐・信濃に22万石を与えられた。
だが同年6月、本能寺の変で信長・信忠父子が暗殺されると甲斐・信濃で武田の旧臣たちが次々と蜂起し、織田家の東国支配体制は崩壊した。
森長可(もり・ながよし)、毛利秀頼(もうり・ひでより)らが領地を捨てて撤退するなか、秀隆は甲斐に留まることを選択する。
しかし徳川家康が「美濃に撤退するよう」寄越した説得の使者を殺害しさらに孤立を深め、結局は一揆に抗しきれず撤退を決意。その途上、武田の旧臣によって討たれた。享年56。
佐久間盛政(さくま・もりまさ)
尾張の人(1554~1583)
柴田勝家の甥。織田家に仕え身長6尺(182センチ)で武勇に優れ「鬼玄蕃」と恐れられた。
15歳で初陣を飾り、叔父の勝家に越前が与えられると、その麾下に配され常に先鋒を務めた。戦功を重ね1580年には加賀半国を任された。
1581年、勝家が安土城に赴いた隙を突き、上杉軍は白山城を攻め落とした。盛政が救援に駆けつけた時、すでに城は陥落していたが、そのまま上杉軍を襲い撃破した。
1582年、本能寺の変が起こると明智光秀を討った羽柴秀吉は織田家での発言権を強め、勝家と対立した。
翌年、ついに両者は近江で衝突する。勝家は持久戦の構えをとったが、秀吉方から寝返った者が秀吉が陣中にいないことを告げると、盛政は羽柴軍の先鋒・中川清秀(なかがわ・きよひで)の守る砦への強襲を献策した。
勝家は強引な策を危ぶんだが盛政に押し負け「砦を落としたら撤退すること」を条件に承諾した。
盛政の強襲は成功し中川清秀を討ち取ったが、勝家の言いつけに背き、帰陣せずそのまま賤ヶ岳砦の攻略を狙った。
賤ヶ岳砦を守る桑山重晴(くわやま・しげはる)は盛政の降伏勧告に「日没まで待ってくれ」と応じ時間を稼ぐと、琵琶湖を渡り丹羽長秀(にわ・ながひで)の援軍が現れ、桑山軍と合流。急報を聞いた秀吉も中国大返しの再現を思わせる素早さで自陣に戻り、盛政は敵中に孤立した。
さらに勝家の副将格の前田利家が秀吉の説得により中立の立場をとったため、一気に不利に陥った柴田軍は敗走し、勝家は自刃した。
盛政は再起を図り単身で加賀へ戻ろうとしたが領民によって越前で捕らえられた。
命運の尽きたことを悟った盛政は秀吉への面会を願い出ると、秀吉は九州平定後に肥後を与えようと誘ったが、それを固辞した。
秀吉は盛政ほどの将を処刑するのは忍びないと切腹を許したが「敗軍の将は処刑されるのが筋道である。京の市中引き回しのうえ首を斬れば、あなたの威光は天下に響くだろう」とあくまで処刑を望んだ。
秀吉は願いを聞き入れ小袖を用意させたが、盛政はその仕立てが気に入らず「死装束は旗指し物のように目立つものが良い。あれぞ盛政と讃えられて死にたい」と自ら小袖のデザインを述べた。秀吉は「最後まで武辺者よ」と感心し、希望通りのものを用意させた。
処刑の日、秀吉はやはり不憫に思い切腹のために短刀を用意させたが、盛政はそれも断り首を打たれた。享年30。
その後、秀吉は盛政の娘・虎(とら)姫を中川清秀の次男・秀成(ひでなり)に嫁がせた。
清秀の仇の娘とあって中川一族には忌み嫌われ、夫の領地に足を踏み入れることは生涯なかったが、夫婦の仲は睦まじく七男をもうけ、さらに虎姫の死後、中川秀成は末子に命じ佐久間家を再興させた。
氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)
美濃の人(1513?~1571)本名は直元(なおもと)
はじめは美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)に仕えていたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)によって頼芸が追放されると鞍替えし稲葉一鉄(いなば・いってつ)、安藤守就(あんどう・もりなり)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれ、三人衆の中では卜全の勢力が最も大きかった。
だが斎藤家を継いだ斎藤龍興(さいとう・たつおき)は三人衆を疎んじたため、三人衆はそろって織田信長に寝返り、美濃攻略に大きく貢献した。
以降は織田軍の主力として戦ったが1571年、柴田勝家の下に付けられた伊勢長島の戦いで敗北し、殿軍を務めるも一向一揆と六角軍の追撃にあい、奮闘の末に戦死した。享年は59とも38とも言われる。
家督は長男の氏家直昌(うじいえ・なおまさ)が継ぎ、一乗谷の戦いで旧主の斎藤龍興を討ち取る大功を立てたが若くして没した。
直昌の後は次男の氏家行広(うじいえ・ゆきひろ)が継ぐが、関ヶ原の戦いに際して中立の立場をとったものの、西軍が城下に迫ったためやむなく西軍につき、戦後に改易された。
浪人となった行広は再起を狙い、大坂の陣で荻野道喜(おぎの・どうき)を名乗り豊臣方についた。
徳川家康は才を惜しみ投降を呼びかけたが、行広は応じず敗戦後、豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)らとともに切腹した。
安藤守就(あんどう・もりなり)
美濃の人(1503?~1582)
安藤家はもともと伊賀姓を称していたため、守就もしばしば伊賀を名乗り、官名とあわせ伊賀伊賀守(いが・いがのかみ)と記した書状も残る。
はじめは美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)に仕えていたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)によって頼芸が追放されると鞍替えし稲葉一鉄(いなば・いってつ)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた。
道三と嫡子の斎藤義龍(さいとう・よしたつ)の仲が険悪になると、守就は義龍に味方し、道三を討ち取った。
しかし義龍は若くして病死し、跡を継いだ斎藤龍興(さいとう・たつおき)は三人衆を疎んじたため、業を煮やした守就はわずか2千の兵で斎藤家の居城・稲葉山城を占領した。この逸話は竹中半兵衛によるものとして大いに脚色されて後世に伝わったという。
後に守就は龍興と和解し城も返還したが、不遇は変わらず、三人衆はそろって織田信長に寝返り、美濃攻略に大きく貢献した。
三人衆のうち氏家卜全は1571年、伊勢長島攻めで戦死したが、守就と稲葉一鉄は織田軍の主力として多くの戦で手柄を立てた。
信長が嫡子の織田信忠(おだ・のぶただ)に家督を譲ると、美濃衆のほとんどが信忠の麾下に付けられたが、守就は信長直属の立場に残され、各地を転戦して回った。
しかし1580年、突如として武田家との内通を疑われ織田家を追放された。同時期に佐久間信盛(さくま・のぶもり)、林秀貞(はやし・ひでさだ)、丹羽氏勝(にわ・うじかつ)ら重臣が言い掛かりにも等しい理由で追放されており、それに巻き込まれたと思われる。
1582年、本能寺の変が起こると、守就は再起を狙い蜂起し稲葉領の城を奪った。
だが間もなく稲葉一鉄によって奪回され、敗走した守就は一族の多くとともに自害した。本能寺の変から6日後のことだった。
享年は80とされるが定かではない。
守就の血統は、末弟の子が叔父に当たる山内一豊(やまのうち・かずとよ)に仕え、姓を変えながら明治まで残ったという。
稲葉一鉄(いなば・いってつ)
美濃の人(1515~1588)本名は良通(よしみち)
稲葉家は伊予の河野家の一族だったが、祖父の代に美濃に流れ着き土豪になったとされる。
一鉄は六男だったため幼少の頃に僧侶となったが、浅井家と戦い父や兄が敗死したため、還俗して11歳で家督を継いだ。
はじめは美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)に仕えたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)が土岐頼芸を追放し美濃を手中にするとそれに仕え、安藤守就(あんどう・もりなり)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれ、一鉄はその筆頭格とされた。
道三と嫡子の斎藤義龍(さいとう・よしたつ)の仲が険悪になると、道三の妻で義龍の母が一鉄の姉に当たるため去就が注目されるなか、一鉄は義龍に味方し、道三を討ち取った。
しかし義龍は若くして病死し、跡を継いだ斎藤龍興(さいとう・たつおき)は三人衆を疎んじたため、三人衆はそろって織田信長に寝返り、美濃攻略に大きく貢献した。
その後は三人衆のうち安藤守就は信長の勘気を蒙り追放。氏家卜全は長島一向一揆と戦い敗死したが、一鉄は織田家の主要な戦のほとんどに参戦し数々の武功を立てた。
信長の信頼も厚く、1577年には信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)の副将として、安土城の留守居役を務めるほどであった。
1582年、本能寺の変により混乱が巻き起こると、すでに隠居していた一鉄は美濃の国人衆に呼びかけ、甥で斎藤道三の四男・斎藤利堯(さいとう・としたか)を擁し独立を図った。
だが稲葉領内にいた安藤守就が御家再興のため明智光秀と手を結んで蜂起し、さらに娘婿の堀池半之丞(ほりいけ・はんのじょう)とも対立してしまい、両者を討ち果たした頃には羽柴秀吉が光秀を討ち取り、混乱は収束してしまった。
清州会議の後、織田信孝(おだ・のぶたか)が美濃の領主となったが、一鉄は秀吉と結んでそれに対抗し、以降は秀吉に従属した。
1588年、74歳で死去。70まで戦場に出ていた記録が残る。
~頑固一徹~
一鉄の頑固ぶりは非常に有名で、その名から「一徹」という言葉が生まれたとされる。
その頑固一徹な逸話をいくつか紹介する。
姉川の戦いで信長は同盟軍を率いる徳川家康の兵が少なかったため、家中の者を好きなだけ連れて行くよう勧めた。すると家康は「一鉄が一人いれば良い」と答えた。
一鉄の活躍は目覚ましく、信長は戦功第一と賞し自分の名から「長」の一字を与えようとしたが、一鉄は「戦功第一は家康である」とそれを固辞したという。
一鉄は武勇だけではなく歌道や茶道、果ては医学など文武両道に通じていた。ある時、一鉄を讒言する者があり、それを信じた信長は茶会と称して一鉄を招き、暗殺しようとした。
すると一鉄は即興で、床の間の掛け軸に書かれた詩を引用しながら釈明したため、信長は感嘆するとともに無実を認めた。
「実は周囲の者は懐剣を隠し持っていた」と明かすと、一鉄も「私も暗殺されると思い、一人くらいは道連れにしようと考えていました」と懐剣を取り出したので、信長はますます感心したという。
ある時、敵の間者が稲葉家の家臣に捕らえられた。家臣は処刑を主張したが、一鉄は間者が年若かったので気の毒に思い、縄を解かせると自ら陣中を案内し、自分たち美濃の国人衆の苦心ぶりを明かした。
間者は一鉄の人柄に惚れ込み、その家臣となり姉川の戦いで討ち死にしたという。
また雑賀孫市を降伏させたのは一鉄だという説もある。
はじめに孫市の説得に赴いた使者は、華美な服装で尊大に振る舞ったため反感を買った。だが次に現れた一鉄は飾らず質実剛健な様子で、感動した孫市は一鉄にならばと説得に応じたという。
武田征伐の際に、一鉄はかつての主君である土岐頼芸が武田家の庇護下にいたのを発見した。
頼芸は病で余命いくばくもなく、しかも失明していたため、不憫に思った一鉄は懸命に奔走し、頼芸を美濃へと帰国させたという。
一鉄は領内の視察など外出時には小銭を持ち歩き、修験者や旅の者に行き会うとそれを与えた。理由を問われると「私の祖父は伊予から美濃へたどり着くまで貧窮していた。一飯の銭が相手と自分を助けるのだ」と答えた。
修験者の中には敵の間者が紛れていたが、一鉄はそれにも小銭を与えた。間者は帰国すると一鉄を「誠の仁者」だと報告したという。
佐々成政(さっさ・なりまさ)
尾張の人(1535?~1587)
佐々家は尾張の土豪で、織田家に仕えていた。成政は2人の兄が相次いで戦死したため家督を継いだ。
織田信長の馬廻から始まり、軍功を重ね1567年に黒母衣衆(馬廻から十人ほど選ばれた精鋭)に抜擢された。
主として鉄砲隊を率い、1575年からの北陸侵攻では方面軍を任された柴田勝家の与力として成政、前田利家、不破光治(ふわ・みつはる)が付けられ、越前府中にあわせて3万3千石を与えられ「府中三人衆」と呼ばれた。
なお三人衆は北陸方面の専属というわけではなく、石山合戦や播磨攻略、荒木村重(あらき・むらしげ)の征伐にも駆り出されており、荒木一族の処刑も三人衆に命じられている。
1580年、上杉家に国を追われた越中守護代・神保家の神保長住(じんぼう・ながずみ)を救援し上杉・一向一揆を破り越中を平定。
神保長住が失脚すると成政に越中一国が任され、富山城を居城とし改修した。
1582年、本能寺の変で信長が討たれた時、北陸方面軍は上杉領の深くに侵攻しており、撤退に手間取るうちに羽柴秀吉が明智光秀を討ち取った。
清州会議で柴田勝家と秀吉が対立すると、成政はそのまま勝家方につき、上杉家への備えとして越中を守った。
だが前田利家の寝返りもあり、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死すると秀吉に降伏。越中を安堵された。
1584年、小牧・長久手の戦いでは当初は秀吉方につく姿勢を見せたが、一転して徳川家康に味方し、秀吉方の前田利家を攻撃した。
しかし上杉軍との挟撃により苦戦し、秀吉と家康も和睦すると、成政は敵の目を避けるため厳冬の飛騨山脈(北アルプス)を踏破し浜松へ赴き、家康に決起を促した。この現代でも困難をきわめる雪山踏破は「さらさら越え」と呼ばれ半ば伝説化している。
しかし家康の説得には失敗し、織田信雄(おだ・のぶかつ)、滝川一益(たきがわ・かずます)からも色好い返事は得られず、失意のまま帰国した。
翌1585年、秀吉軍10万に富山城を包囲された成政は降伏した。越中の一郡を残し領地は没収されたが、才を評価した秀吉は命を助け、御伽衆にも抜擢し、羽柴の姓を与えるほどだった。
そして1587年、九州征伐で功を立てた成政は肥後一国を与えられるが、性急な検地が大規模な一揆を招き、その鎮圧に失敗したため切腹を命じられた。
享年は53が最も有力視されるが、50歳から73歳まで諸説あり判然とせず、53歳説も1542年(当時8歳となってしまう)の小豆坂の戦いで戦功を挙げた記述が残っており疑わしい。
辞世の句は「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」。解釈は様々だが切腹に至るまでの紆余曲折を思い起こさせる名句であろう。
1590年、小田原征伐で蒲生氏郷(がもう・うじさと)は秀吉に「三階菅笠」の馬印の使用許可を願い出た。
秀吉は「三階菅笠は佐々成政が用いた馬印だ。成政にも劣らぬ武勇を見せれば許そう」と言い、氏郷は満身創痍になりながらも手柄を立て、許可を得たという。失政から切腹を命じたとはいえ、秀吉の成政への変わらぬ高評価がうかがえる。