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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―佐久間盛政  鬼玄蕃、最期の願い



佐久間盛政(さくま・もりまさ)
尾張の人(1554~1583)

柴田勝家の甥。織田家に仕え身長6尺(182センチ)で武勇に優れ「鬼玄蕃」と恐れられた。
15歳で初陣を飾り、叔父の勝家に越前が与えられると、その麾下に配され常に先鋒を務めた。戦功を重ね1580年には加賀半国を任された。
1581年、勝家が安土城に赴いた隙を突き、上杉軍は白山城を攻め落とした。盛政が救援に駆けつけた時、すでに城は陥落していたが、そのまま上杉軍を襲い撃破した。

1582年、本能寺の変が起こると明智光秀を討った羽柴秀吉は織田家での発言権を強め、勝家と対立した。
翌年、ついに両者は近江で衝突する。勝家は持久戦の構えをとったが、秀吉方から寝返った者が秀吉が陣中にいないことを告げると、盛政は羽柴軍の先鋒・中川清秀(なかがわ・きよひで)の守る砦への強襲を献策した。
勝家は強引な策を危ぶんだが盛政に押し負け「砦を落としたら撤退すること」を条件に承諾した。
盛政の強襲は成功し中川清秀を討ち取ったが、勝家の言いつけに背き、帰陣せずそのまま賤ヶ岳砦の攻略を狙った。
賤ヶ岳砦を守る桑山重晴(くわやま・しげはる)は盛政の降伏勧告に「日没まで待ってくれ」と応じ時間を稼ぐと、琵琶湖を渡り丹羽長秀(にわ・ながひで)の援軍が現れ、桑山軍と合流。急報を聞いた秀吉も中国大返しの再現を思わせる素早さで自陣に戻り、盛政は敵中に孤立した。
さらに勝家の副将格の前田利家が秀吉の説得により中立の立場をとったため、一気に不利に陥った柴田軍は敗走し、勝家は自刃した。

盛政は再起を図り単身で加賀へ戻ろうとしたが領民によって越前で捕らえられた。
命運の尽きたことを悟った盛政は秀吉への面会を願い出ると、秀吉は九州平定後に肥後を与えようと誘ったが、それを固辞した。
秀吉は盛政ほどの将を処刑するのは忍びないと切腹を許したが「敗軍の将は処刑されるのが筋道である。京の市中引き回しのうえ首を斬れば、あなたの威光は天下に響くだろう」とあくまで処刑を望んだ。
秀吉は願いを聞き入れ小袖を用意させたが、盛政はその仕立てが気に入らず「死装束は旗指し物のように目立つものが良い。あれぞ盛政と讃えられて死にたい」と自ら小袖のデザインを述べた。秀吉は「最後まで武辺者よ」と感心し、希望通りのものを用意させた。
処刑の日、秀吉はやはり不憫に思い切腹のために短刀を用意させたが、盛政はそれも断り首を打たれた。享年30。

その後、秀吉は盛政の娘・虎(とら)姫を中川清秀の次男・秀成(ひでなり)に嫁がせた。
清秀の仇の娘とあって中川一族には忌み嫌われ、夫の領地に足を踏み入れることは生涯なかったが、夫婦の仲は睦まじく七男をもうけ、さらに虎姫の死後、中川秀成は末子に命じ佐久間家を再興させた。

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