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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―九鬼嘉隆  海賊大名に俺はなる



九鬼嘉隆(くき・よしたか)
伊勢志摩の人(1542~1600)

戦国時代屈指の水軍を率い「海賊大名」の異名をとった。

嘉隆は三男で、1551年に父が死去すると長兄の九鬼浄隆(きよたか)が家督を継いだ。
だが1560年、北畠家の援助を受けた国人衆に攻められ、防戦のさなかに浄隆が急死した(戦死したともされる)ため、嘉隆はその遺児の九鬼澄隆(すみたか)を連れ逃亡した。後に伊勢の出身ともされる滝川一益(たきがわ・かずます)の仲介を得て織田信長に仕えた。

1569年、信長が北畠家を攻めると、嘉隆は水軍を率い地の利を活かして活躍した。
嘉隆は志摩の国人衆にも復讐を果たすと、信長に志摩の領有と九鬼家の家督相続を認められた。(一説には信長死後に甥の澄隆を殺し家督を奪ったともされる)

1576年、嘉隆は300隻の軍船で石山本願寺を攻めたが、毛利家の村上・小早川水軍600隻に惨敗し船を焼き払われ、多くの将も戦死した。
信長はこの報に激怒し、嘉隆にただちに燃えない船を造るよう命じた。嘉隆は船体に鉄板を貼った鉄甲船を考案し、6隻を建造した。
そして1578年、嘉隆の率いる鉄甲船団はわずか6隻で100倍もの毛利水軍を打ち破り、制海権を手に入れた。
実際に鉄板を貼っていたのか、本当に100倍の敵に勝利したのか、これだけの大戦果を上げながらその後ほとんど実戦に用いられなかったのはなぜか、と疑問は多く残るが、いずれにしろ嘉隆の水軍が大勝利を収め、石山本願寺との戦いを優勢に導いたのは確かである。

1582年、信長が本能寺で討たれるとその次男・織田信雄(のぶかつ)に仕えたが、2年後に滝川一益の誘いで羽柴秀吉に寝返る。
その後も織田家と同様に水軍の主力として重用され、1592年からの文禄の役では日本水軍を率いた。
だが同じく水軍の指揮官に任じられた脇坂安治(わきさか・やすはる)が抜け駆けの末に敗北すると多くの損害を出したため、秀吉は海戦を避けて陸・水軍連携による沿岸警備を命じた。この策はあたり攻め寄せた朝鮮水軍を何度も撃退した。
1597年、嘉隆は家督を子の九鬼守隆(もりたか)に譲り隠居した。

1600年、関ヶ原の戦いにあたり嘉隆は自らは西軍に、守隆は東軍に属させ、東西両軍どちらが勝っても家名存続できるように講じた。
嘉隆は守隆が抜け手薄になった鳥羽城を奪い、伊勢での戦いも有利に進めたが、関ヶ原で西軍が敗走すると城を放棄して逃げ出した。
守隆は徳川家康に戦功と引き換えに父の助命を願い出て、無事に許されたものの、それが嘉隆に伝わるより先に、嘉隆は家臣のすすめで切腹してしまった。
悲報を聞いた守隆は激怒して、その家臣の首を生きながらノコギリで少しずつ斬らせたという。

江戸時代、嘉隆は軍記物などで脚色され「海賊大名」として大いに名を馳せた。

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