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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―織田信包  無欲なナンバー3



織田信包(おだ・のぶかね)
尾張の人(1543~1614)

織田信秀(おだ・のぶひで)の四男。織田信長、お市らと母が同じと思われ、一門衆の第3位に数えられる。
だが血統と地位のわりに記録が少なく、事績は断片的にしか伝わっていない。

1568年、信長の命で養子入りし北伊勢の長野工藤家を継いだ。信長の子・織田信雄(おだ・のぶかつ)、織田信孝(おだ・のぶたか)らも同時期に伊勢の名家に養子入りしており、調略の一環と見られるが、三者ともに間もなく縁組を解消している。
信長からの信頼は厚く、1573年の小谷城の戦いでは妹のお市や茶々(ちゃちゃ 後の淀殿)ら姪を保護し、越前一向一揆や雑賀衆との戦にも参陣。信長の嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)の補佐につけられた他、長男の正室に元尾張守護の斯波義銀(しば・よしかね)の娘を迎えるなど幅広く活躍した。

1582年の本能寺の変後、信長の子らが激しい家督争いを繰り広げるなか、ナンバー3のはずの信包は野心を持たなかったのか、後継者の地位を望まず、また誰からも担ぎ出されることもなく、羽柴秀吉に従い伊勢に15万石を得た。
しかし1590年、小田原征伐の際に北条氏政(ほうじょう・うじまさ)父子の助命を嘆願したため秀吉の怒りを買い、1594年「石高のわりに働いていない」と改易された。
剃髪し老犬斎(ろうけんさい)と号し京で隠棲するが、後に許されて秀吉の御伽衆となり、1598年には丹波3万石を与えられた。

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属したものの、長男の織田信重(おだ・のぶしげ)は東軍で戦ったため徳川家康は罪を問わず所領を安堵された。
その後は姪の淀殿の縁から豊臣家に仕えたが1614年、大坂の陣の直前に急死した。
徳川家との内通がささやかれる片桐且元(かたぎり・かつもと)による暗殺説もあるが、享年は72であり病死でも不自然ではない。

長男の信重とは不和だったのか家督は遺言により三男が継いだ。信重は幕府に不服を申し立てるも「遺言である。僻むな」と逆に改易となった。

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