三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1584年、小牧・長久手の戦いでは主力を率い池田勝入(いけだ・しょうにゅう)と森長可(もり・ながよし)を討ち取り、さらに達筆だったことから羽柴秀吉が織田家を乗っ取ろうとすることを非難する檄文を書いた。
激怒した秀吉は康政の首に10万石の賞金をかけたと言われるが、一方で実力を認められ、家康と秀吉が和睦する際には京への使者を務めた。
1590年、家康が関東に移封されると関東総奉行として政治全般に携わり、本多忠勝に並ぶ家中第2位の10万石を与えられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の軍監として中山道を進んだが、真田昌幸(さなだ・まさゆき)、幸村父子の上田城で足止めされ、本戦に間に合わなかった。康政は城攻めの中止を進言し、さらに激怒した家康と秀忠の間を取りなしたとされる。
戦後、康政は老中となるが所領の加増は無かった。これには諸説あり、家康との不仲説や、本多正信(ほんだ・まさのぶ)が老中の首座についていたことから「老臣が権力を争うのは亡国の兆し」と康政が自ら遠慮したという説がある。
また移封のうえ加増を提案されたものの関ヶ原での軍功が無く、江戸城から遠く参勤しづらいことを理由に断ったとの説もあり、家康は康政の態度に感銘を受け、康政に借りがあることを神に誓う証文を与えたという。
1606年、59歳で死去。徳川秀忠は康政を見舞うために多くの家臣や医師を派遣したという。
長男が妻の実家である大須賀家を継いでおり、次男はすでに亡くなっていたため三男の榊原康勝(さかきばら・やすかつ)が家督を継いだ。
だが康勝も26歳で没してしまい、榊原家は断絶の危機に立たされたが、家康は康政の血が途絶えるのを惜しみ、長男・大須賀忠政(おおすが・ただまさ)の子に榊原家を継がせた。
(ちなみに本当は康勝には庶子がいたものの、榊原家の家老が幼君を立てることを嫌い存在を隠した。後に露見しこの家老らは流刑となった)
その後、8代将軍・徳川吉宗の治世に榊原家の当主は吉原に通いつめるなど、吉宗の倹約令に背いたためその逆鱗に触れた。
あわや取り潰しかと思われたが、榊原家は康政が家康からもらっていた「康政に借りがある」証文を幕府へ差し出した所、石高は据え置きで江戸から遠い越前へ移封という軽い処分で済んだという。
一方で相模の北条家が力を蓄え、蘆名家、結城家らと同盟を結び佐竹家ら関東の諸勢力と敵対した。
義重は周辺の豪族を支配下に置いたが、内では急速な勢力拡大により反発を招き、外では北条・蘆名家に南北から挟撃され窮地に陥った。
娘を使い縁戚関係を結んでいた結城・宇都宮家や、明智光秀、柴田勝家を討ち台頭していた羽柴秀吉と同盟し対抗しようとするも1585年、沼尻合戦で敗れ北条家に下野の長沼城を奪われ、不利な条件で和睦を受け入れた。
この頃、奥州では蘆名盛氏(あしな・もりうじ)の死去以来、蘆名家は当主が次々と早世したため衰退し、代わって伊達政宗が勢力を拡大していた。
義重は蘆名家と同盟し、連合軍を率いて人取橋で伊達軍を追い詰めるものの、常陸で江戸家らが不穏な動きを示したため撤退を余儀なくされ、すんでのところで政宗を取り逃がした。
この敗戦を後年、政宗は徳川家光に「生涯で最大の戦だった」と語ったという。
1588年、義重は次男の義広(よしひろ)に蘆名家を継がせ再び政宗に戦いを挑む。
しかし兵力では圧倒的優位に立っていたものの、連合軍だったため諸大名の利害が衝突し身動きが取れず、満足に戦えないまま和睦を結ぶこととなった。
そして翌年、蘆名家は摺上原の戦いで政宗に大敗し滅亡。白河結城家、石川家らも政宗方に寝返り、北条・伊達家の二大勢力に挟まれた佐竹家は進退窮まったかに見えた。
だが1590年、かねてから懇意にしていた豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出すと、義重は家督を譲っていた嫡男・佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)とともにいち早くその麾下に馳せ参じたため、常陸54万石を安堵され一気に劣勢を挽回した。
北条家は滅亡し、江戸家、大掾家、鹿島家を次々と降した義重はついに常陸統一を成し遂げた。
義重は実権も義宣に譲り悠々自適の隠居生活を送っていたが1600年、関ヶ原の戦いに際し義宣が交流の深い石田三成につこうとしたため、時勢を読み三成の敗北を察した義重は徳川家康につくよう忠告し、父子は対立した。
義宣は友人の三成を裏切れず、父の言葉も無下にできず、中立を保ったため1602年、佐竹家は出羽20万石への減封を命じられた。
義重が家康に嘆願し、家康もまた義宣の態度を「今の世に稀な困ったほどの律義者」と評価したため改易を免れたと思われる。
出羽への移封後、一揆に対応するため義重は義宣とは別に居城を構え、南部の一揆鎮圧を受け持っていたが1612年、狩猟のさなかに落馬し、その傷がもとで亡くなった。享年66。
~逸話~
・一揆への対応を分担したように関ヶ原の戦い後も義重父子の仲は悪くなく、義宣は敷布団を使う習慣の無かった義重を思いやり「北国は寒いから」と敷布団を贈った。
だが義重はやはり気に入らず敷布団を使わなかったものの、義宣にはそのことを伝えないよう家臣に言い含めたという。
逆に義重が上杉謙信から譲られた名刀「備前三郎国宗」を義宣に贈ったところ、切っ先を詰めて脇差しに作り変えてしまい、愛刀家の義重を嘆かせたという逸話も伝わる。
・出羽への移封の際、義重は常陸中の美女をかき集めて出羽へ伴ったため、現代の秋田美人の礎になったという説もある。
・現代に残る義重の肖像画(義宣のものともされる)は全て甲冑と面頬をまとった姿で、素顔は伝わっていない。