三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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徳川家康に仕え忍者を統率した服部正成(まさなり)の父。いわゆる初代服部半蔵。
当時の伊賀忍者は千賀地(ちがち)、百地(ももち)、藤林(ふじばやし)の「伊賀三大上忍」が統率していたが、生活に困窮しており、保長は旧姓の服部に復すと伊賀を出て第12代将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)に仕えた。
だが将軍家もまた権威を失い、京の都は荒れ果てており、見切りをつけた保長は三河へと下り松平清康(まつだいら・きよやす)に仕えた。
清康は優れた軍才で三河を統一し、尾張へと兵を進めたものの1535年、家臣に暗殺され松平家は一気に衰退した。
その間の保長の動向は不明で、そもそも千賀地家の伝承では松平家に仕えず伊賀に戻ったと記されるなど、確かな事績はわからない。
その後、服部家が再び世に出るのは、清康の孫・徳川家康のもとで服部正成が活躍してからのことである。
伊賀崎道順(いがのさき・どうじゅん)
伊賀の人(??~??)
伊賀忍者11傑に数えられる。
北畠家や六角家、後に徳川家康に仕えたとされる。
六角家に仕えていた頃、佐和山城で家臣の百々家が反乱した。
道順は伊賀・甲賀の混成部隊48人を率いて城に潜入すると、事前に用意した百々家の家紋入り提灯を部下に持たせ、各所に火を放たせた。
それを見た百々家の人々はすわ仲間割れかと驚き、同士討ちをはじめ、その混乱に乗じた六角軍の攻撃により城は陥落した。
敵に化けるこの術を「妖者(ばけもの)の術」という。
道順は様々な忍術を駆使して城を陥落させることから「伊賀崎入れば落ちにけるかな」とうたわれた。
また鉄砲術にも優れ織田信長を狙撃し、失敗したものの隣にいた人物に命中させたという。道順ではなく、同じく著名な伊賀忍者の城戸弥左衛門(きど・やざえもん)の逸話とも言われている。