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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―本願寺准如  西本願寺の祖

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戦国列伝―本願寺准如  西本願寺の祖


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本願寺准如(ほんがんじ・じゅんにょ)
摂津の人(1577~1631)

石山本願寺第10世・顕如(けんにょ)の三男。
1580年、石山合戦で顕如は織田信長との和睦を受け入れたが、嫡子の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を唱え数ヶ月にわたり籠城を続け、挙句に石山本願寺を焼失させた。

1592年、顕如が没すると教如が跡を継いだが、石山合戦で自分とともに籠城した者ばかりを重用したため、教団内に対立が生じた。
反教如派は豊臣秀吉に訴え、それを受けた秀吉は10年後に弟の准如に法主の座を譲るよう命じた。
それに親教如派が激しく抵抗したため、激怒した秀吉は即時退去を命じてしまい、教如は准如に位を譲り本願寺を去った。
准如の母は公家(左大臣)の娘で発言権が強く、秀吉に働きかけることもでき、また准如と教如も異母兄弟でもともと犬猿の仲だったともいう。

1598年に秀吉が没し、1600年、関ヶ原の戦いを制した徳川家康が天下人に上り詰めると、教如は家康から寄進された京都七条烏丸の寺領に東本願寺を立てた。
一説には若い頃に三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の勢力を二分するため教如をそそのかしたと言われるが、確かな証拠はなく、現在の真宗大谷派は「もともと分裂しており、家康の寺社寄進はそれを追認したに過ぎない」と主張している。

1614年に教如が没し、1631年に准如も没したが、本願寺は統一されることなく現在もなお二派に分かれ便宜上、教如の立てた本願寺を「東本願寺」、准如の本願寺を「西本願寺」と呼びならわしている。

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