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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―本願寺教如  武闘派法主

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戦国列伝―本願寺教如  武闘派法主


※アイコンは丘力居

本願寺教如(ほんがんじ・きょうにょ)
摂津の人(1558~1614)

石山本願寺第10世・顕如(けんにょ)の嫡子。「信長の野望」などでは諱の光寿(こうじゅ)で登場することも多い。
父のもとで13歳で得度し、織田信長と激しく争った。
1580年、顕如は近衛前久(このえ・さきひさ)の仲介により和睦を受け入れたが、教如は徹底抗戦を主張したため父に絶縁された。
石山本願寺に籠城し5ヶ月にわたり抵抗したが結局は降伏し、直後に失火により石山本願寺は焼失した。
1582年、織田信長が本能寺の変で討たれると後陽成天皇は顕如に赦免を打診し、父子は和解した。

1592年、顕如が没すると跡を継いだが、石山合戦で自分とともに籠城した者ばかりを重用したため、教団内に対立が生じた。
反教如派は豊臣秀吉に訴え、それを受けた秀吉は10年後に弟の准如(じゅんにょ)に法主の座を譲るよう命じた。
それに親教如派が激しく抵抗したため、激怒した秀吉は即時退去を命じてしまい、教如は准如に位を譲り本願寺を去った。

1598年に秀吉が没し、1600年、関ヶ原の戦いを制した徳川家康が天下人に上り詰めると、教如は家康から寄進された京都七条烏丸の寺領に東本願寺を立てた。
一説には若い頃に三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の勢力を二分するため教如をそそのかしたと言われるが、確かな証拠はなく、現在の真宗大谷派は「もともと分裂しており、家康の寺社寄進はそれを追認したに過ぎない」と主張している。

1614年、教如は57歳で没した。
本願寺は現在もなお二派に分かれ便宜上、教如の立てた本願寺を「東本願寺」、准如の本願寺を「西本願寺」と呼びならわしている。

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