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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―津田信澄  本能寺のどさくさに


※アイコンは董旻

津田信澄(つだ・のぶすみ)
尾張の人(1555~1582)

織田信長の弟・織田信勝(のぶかつ)の嫡子。
3歳の時、父が謀叛を企んだかどで信長に殺された。信澄も連座しかけたが、祖母で信長・信勝の母の土田御前(つちだ)の嘆願により助命され、家老の柴田勝家に預けられた。
このこともあり織田ではなく津田姓を称したとされる。

長じると武勇に優れたため信長に目を掛けられ一門衆として遇された。
1578年、近江高島を任されていた磯野員昌(いその・かずまさ)が出奔すると、その養子となり同地を受け継いだ。また同時期に明智光秀の娘をめとっている。
石山本願寺、荒木村重(あらき・むらしげ)、伊賀との戦いでも活躍し1581年の京都御馬揃えでは信長の息子3人、弟の織田信包(のぶかね)に継ぐ5番手に名が挙がり、一門衆での序列も同様だったと思われる。

1582年、四国の長宗我部元親の討伐のため討伐軍が編成され、信長の三男・織田信孝(のぶたか)を総大将に丹羽長秀(にわ・ながひで)、蜂屋頼隆(はちや・よりたか)、そして信澄が副将に配された。また堺に遊覧に来ていた徳川家康の接待役を丹羽長秀とともに務めている。
しかし同年、信長が本能寺の変で討たれると、明智光秀の娘婿という立場が災いし、さらに後継者争いのライバルを除くため信孝によって暗殺された。享年28。

嫡子の織田昌澄(まさずみ)は、一時期父に仕えていた藤堂高虎の家臣を経て豊臣家に仕えた。
1615年、大坂夏の陣では皮肉にも藤堂軍と戦い、奮闘ぶりから一躍名を知られた。
戦後には恩人と矛を交えた責任を取り自害しようとしたが、他ならぬ高虎に慰留され、徳川家からも罪を問われず、旗本として仕え家名は幕末まで続いたという。

信長の事績を記した「信長公記」に信澄は織田家の中で信長、その嫡子の信忠(のぶただ)、次男の信雄(のぶかつ)に次いで登場が多い。
作者の太田牛一(おおた・ぎゅういち)が仕える丹羽長秀と信澄がともに任務に当たることが多かったのと、信澄が信長の側近として仕えていたことが理由と考えられる。

また「日本史」を著したルイス・フロイスは信澄の死に際し「この若者は異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」と記している。

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