三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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村井貞勝(むらい・さだかつ)
出身地不明※太閤記は近江の人と記す(??~1582)
早くから織田信長に仕え、行政手腕に優れた。
戦に出陣した記録はほとんどなく、もっぱら外交や政務全般を担った。
1573年、信長が将軍・足利義昭を追放すると京都所司代に任じられた。
信長からの信頼は厚く、安土城の天守閣が完成した時、筆頭家老の佐久間信盛(さくま・のぶもり)と貞勝にだけ披露したという。
1582年、朝廷は信長に「太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたい」という意向を伝え、信長はそのいずれも拒絶したが、これは貞勝のほうから官位授与を打診したとする説がある。
翌月、明智光秀が本能寺の変を起こした。貞勝は本能寺の向かいの家に住んでいたが、変事を察するともはや本能寺は封鎖されていたため信長の嫡子・織田信忠が泊まる寺へと駆け込んだ。
信忠に二条御所での籠城戦を勧め、攻め寄せる明智軍と戦ったが貞勝と二人の息子、そして信忠はそろって討ち死にした。
年齢は不詳だが60歳は過ぎていたと見られ、ルイス・フロイスは彼を「都の総督」と呼び「尊敬できる異教徒の老人で、甚だ権勢あり」と評している。