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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―前田利家  大人物



前田利家(まえだ・としいえ)
尾張の人(1539~1599)


~経歴~
荒子前田家の当主・前田利春(まえだ・としはる)の四男として生まれる。
1551年、織田信長の小姓となった。短気で喧嘩っ早く、女物の着物や派手な格好を好むいわゆる「傾奇者」で、残された着物から推測される身長は182cmと、男性の平均身長が157cm程度の時代であるから並外れた体格に恵まれ、大変な美丈夫であった。一族の前田慶次に似た若者だったようだ。(というよりも前田慶次の半ば伝承的な人物像の多くに利家の影響(長身、長槍、勇猛、美丈夫、傾奇者など)が見られ、利家こそが前田慶次のモデルとなっている面もある)

初陣で早くも首級を挙げ、信長の弟・織田信勝(おだ・のぶかつ)との戦いでは宮井官兵衛(みやい・かんべえ)に右目の下を矢で射抜かれながらも討ち取って見せ、戦後の首実検には矢が刺さったまま平然と参加するなど勇猛で、三間半柄(約6m30cm)の朱色の槍をふるい「槍の又左」の異名で呼ばれた。

信長の親衛隊である赤母衣衆の筆頭となり、従妹のまつを妻に迎え、順風満帆かと思われた矢先の1559年、信長の異母弟・拾阿弥(じゅうあみ)と諍いを起こし、信長の面前で斬り殺して出奔した。
柴田勝家らの取りなしで死罪は免れたが、出仕を許されず浪人として各地を渡り歩いた。
1560年、桶狭間の戦いに無断で参加し三つの首を挙げるも帰参はかなわなかったが、翌年の斎藤家との戦いで「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛(あだち・ろくべえ)を討ち取るなどここでも三つの首を挙げ、ようやく出仕を許された。
浪人中に父が亡くなり、長兄の前田利久(まえだ・としひさ)が跡を継いでいたが、前田利久は病弱で子供もいなかったことから隠居させられ、利家が家督を継いだ。

以降は織田軍の主力として重要な戦には必ず参戦し、常に戦功を立てた。
姉川の戦いでは浅井助七郎(あざい・すけしちろう)を討ち取り、信長に「今に始まらず比類なき槍」と讃えられ、石山本願寺との戦いでは味方が敗走する中、ひとり堤の上に踏みとどまって奮戦し「日本無双の槍」、「堤の上の槍」と称賛された。
その戦法は利家いわく「信長流の戦法」で「合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ。わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。信長公がそうであった」と説き、「先手に戦上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」と語っている。

1574年には柴田勝家の率いる北陸方面軍に組み込まれ、越前一向一揆や上杉家と戦ったが、摂津有岡城、播磨三木城、鳥取城攻めなど西国方面の戦にもたびたび駆り出されており、信長の直参という立場にあり続けたようである。
そして1581年、能登23万石の一国を預けられたが、翌1582年に信長が本能寺で横死した。
利家は越中で上杉軍と交戦中で動けず、その間に中国方面から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を討ち、一気に天下人の後継者候補に躍り出た。
織田家の今後を決める清洲会議でも秀吉は主導権を握り、筆頭家老である柴田勝家と対立した。
利家は柴田勝家の与力であったため柴田方についたが、若い頃から隣同士に家を構え、子供のない秀吉夫婦に四女を養女として授けるなど秀吉との親交も深く、板挟みとなった。

1583年、秀吉と柴田勝家はついに賤ヶ岳で激突した。
利家は5千の兵を率いて布陣したが、合戦のさなかに撤退し、秀吉の勝利を決定づけた。
敗走する柴田勝家は利家の城に立ち寄り、撤退には文句を言わず、これまでの労をねぎらい湯漬けを所望しただけで去ったという。
柴田勝家は自害し、秀吉に降伏した利家は、その片腕となった。
北陸方面軍を率い、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)と戦う一方で、紀伊の雑賀攻めや四国征伐にも参加した。
佐々成政が降伏すると、利家は嫡子の前田利長(まえだ・としなが)とあわせ加賀、能登、越中三ヶ国にまたがる百万石となり、越後の上杉家、奥州で台頭する伊達家、関東の北条家との連絡役に任じられ、名実ともに東国方面の総司令官となった。
1588年には関白となった秀吉から、羽柴姓に続き豊臣姓まで与えられている。
秀吉との間柄は表面上は主従関係だったが、互いにお灸を据え合うなど、友人付き合いを続けていた。

1590年、小田原征伐では上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)、真田昌幸(さなだ・まさゆき)を率いて上野、武蔵を攻略した。
派兵の遅れた伊達政宗に対する尋問も利家が担当し、小田原城の開城後には、秀吉は引き上げたが利家は奥州に残り、鎮圧に当たった。
朝鮮出兵では秀吉の母が亡くなり喪に服している間、秀吉に代わって総指揮をとった。
1598年、老齢の利家は前田利長に家督を譲り隠居したが、死の床にあった秀吉に五大老の筆頭に任じられ、表舞台に立ち続けた。
秀吉は死去する際に、利家にくり返し後事を託したという。
翌1599年元旦、利家は病をおして出仕し、幼い秀吉の遺児・豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)を膝に抱き、諸大名の年賀の挨拶に応じ、豊臣秀頼の傅役として大坂城に入るなど、豊臣家の筆頭家老となった。

だが徳川家康は次の天下人の座を狙い、秀吉の禁じた諸大名との婚姻や領地の分配を勝手に始めた。
それに反発する諸大名がそれぞれ、利家と家康の屋敷に集まり、一触即発の空気が流れた。しかし家康は利家健在のうちは不利だと悟り、謝罪して事無きを得た。
この直後、利家の病状は悪化し、臨終の床についた。家康が見舞いに訪れたが、このとき利家は布団の下に抜き身の太刀を忍ばせ、場合によっては家康と刺し違える覚悟だったという。

ほどなく利家は61歳で亡くなった。
家康はすぐに前田家を攻めようとした。前田利長は籠城し援軍を求めたが、拒絶されたため一転して降伏し、本領を安堵された。
天下獲りの最大の障壁となる利家亡き後、家康が表立って動き始め、関ヶ原の戦いを制し覇権を手にするのは翌年のことである。


~利家の人物像~
前田家の決済はすべて利家が自身で行ったといい、愛用のソロバンが家宝として伝わっている。ソロバン自体が当時の日本に伝わったばかりで、それを使えた利家は非常に先見的だったと言える。
織田家を出奔した際の浪人生活で金の大切さを身をもって知ったため「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」と口癖のように言っていた。
そのため妻のまつにはたびたび「吝嗇」とからかわれていたが、秀吉の天下統一後、貧窮する多くの大名に金を貸してやり、遺言では「こちらから借金の催促はするな。返せない奴の借金は無かったことにしてやれ」と命じており、ただの吝嗇漢というわけではない。
浪人暮らしの苦労を思い出しては「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真に信用できる人物だ」と語ったといい、また死の前には「お家騒動はいつも先代の不始末が原因だ。自分の死後、奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ」と言ってありとあらゆる書類に対し花押を押してから没しており、豊臣家中をまとめ上げた気配りの細やかさがしのばれる。

秀吉とは友人付き合いをし、後事を託されもしたが、利家の遺言には織田家への感謝と忠義が記されただけで、豊臣家に対しての言及はない。若い頃に信長と衆道の関係(同性愛のこと。当時の武家の間ではごく一般的に行われていた)にあったことを自慢し、戦法も信長を踏襲するなど、利家の忠義はあくまでも織田家と信長に向いていたと思われ、豊臣秀頼の後見役を請け負ったのも、秀頼が信長の甥に当たるからであろう。

臨終に際して、妻のまつは自ら経帷子を縫い、「あなたは多くの戦でたくさんの人を殺めてきましたから、地獄に落ちるかも知れません」と利家に着せようとした。すると利家は「確かに多くの命を奪ったが、理由なく人を殺したり、苦しめたことはない。だから地獄に落ちるはずがない。もし地獄へ落ちたら、先にあの世に行った者どもと、閻魔を相手に戦ってくれよう。その経帷子はお前が後からかぶって来い」と拒んだ。
また一説によると死の床であまりの苦痛に腹を立て、切腹して果てたとも言われる。

数々の武功から加藤清正(かとう・きよまさ)ら武断派はもちろんのこと、内政手腕も高く、石田三成ら官僚にも慕われ、また畏敬の念を持たれていたため、徳川家康も利家の人望と才覚を恐れ、利家が没するまでは天下獲りの野望を表に出すことができなかった。
もし利家の存命中に挙兵していれば、家康は豊臣家の全てを敵に回し、孤立していたに違いないだろう。
利家は天下人となれる器ではなかったが、群雄割拠の戦国時代でも、天下をまとめ上げることのできる、数少ない大人物の一人であった。

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