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夢想大蛇

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戦国列伝―石田三成  家康の前に立ちはだかった男

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戦国列伝―石田三成  家康の前に立ちはだかった男



石田三成(いしだ・みつなり)
近江の人(1560~1600)

近江の土豪・石田家の次男として生まれる。
羽柴秀吉が長浜城主となった1574年頃から、父・兄とともに仕官した。
その際には次の逸話がよく知られている。

ある日、秀吉は鷹狩りの帰りに観音寺に立ち寄ると、のどの渇きを覚え茶を所望した。応対した小坊主はまず、ぬるめの茶を大きな茶碗に注ぎ差し出した。
おかわりを頼むと、今度は熱めの茶を小振りな茶碗に入れてきた。もう一杯頼むと、熱い茶を小さな茶碗で出した。
最初はのどの渇きを癒すためにぬるくし、それから先は徐々に熱くして茶の味を楽しませようと考えたのだと感心し、秀吉はその小坊主をすぐに召し抱えた。それが三成だというのだが、この逸話は当時の史料には見当たらず、後世の創作と思われる。

1582年、織田信長が本能寺で暗殺されると、その仇を討った秀吉が次の天下人として台頭し、三成も側近として頭角を現していった。
柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正(かとう・きよまさ)、福島正則(ふくしま・まさのり)ら「賤ヶ岳七本槍」にも劣らない活躍を見せ、九州征伐では兵站を担当し、内政でも全国の検地や、堺奉行として辣腕を振るった。
特に困難と思われた九州征伐を短期間で成し遂げられたのは、三成らの働きが大きかったという。

1586年頃には知行の半分(2割とも言われる)を分けるという破格の待遇で島左近を招き、後に佐和山19万石を与えられると「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」とやっかみ半分でうたわれた。

九州平定後には博多奉行として、全国制覇の後には奥州の検地奉行を務めるなど、秀吉の信頼は絶大だった。
小田原征伐の際には、甲斐姫(かいひめ)のこもる忍城を水攻めするも、小田原城の陥落後も落とすことができなかったのが、唯一のつまずきだろうか。

1592年、文禄の役では大谷吉継(おおたに・よしつぐ)、増田長盛(ました・ながもり)とともに総奉行を務めた。
戦況が不利になると、明との講和交渉を担当し無事に退却させたが、本国に残った秀吉との連絡役だったことで、頭ごなしに命令をされていると感じた加藤清正、福島正則らは三成に反発するようになった。
この頃から三成は秀吉の片腕と見なされ、諸大名から一目置かれるとともに機嫌を損ねたらただでは済まないと恐れられており、権力を得た三成も次第に傲慢になっていた。
後方支援を担当し前線に出ない三成と、加藤清正ら武断派の間にあつれきが生じるのは当然だが、先の忍城攻めで失敗していたことで(しかも女に負けている)反感を買っていたのかも知れない。

1595年、秀吉の跡継ぎと目されていた甥の豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)を謀反の嫌疑で糾弾し、最後には切腹させた。
多くの家臣が連座して切腹・改易を命じられたが、諸説あるものの豊臣秀次に謀反の意志はなかったと言われ、またいったんは出家することで許しておきながら改めて切腹を命じ、しかも一族郎党に類を及ぼし首を晒すという非道な行いは、諸大名を動揺させ、豊臣秀次への尋問を担当した三成への反発を強めた。
後の関ヶ原の戦いの際には、この時処罰され、あるいは秀吉の不興を買った大名のほとんどが徳川家康方についている。
同年、蒲生氏郷(がもう・うじさと)を毒殺したともささやかれるが、発病した時には三成は朝鮮におり、これは濡れ衣だろうと思われる。
一方で1596年、京都奉行になりキリシタン弾圧を命じられた時には、捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉をなだめて処刑を思いとどまらせようともしている。

1597年、慶長の役では九州に残り後方支援を担当した。秀吉は筑前などの33万石を与えようとしたが、三成は「自分が九州の大名になっては、大坂で行政をする者がいなくなる」と大幅加増を断った。
その後、朝鮮への大規模な出兵の大将を務めることが内定していたが、1598年に秀吉が没して立ち消えとなり、三成は明との講和と全軍撤退のために奔走した。

秀吉の死後、次の覇権を狙う徳川家康は、加藤清正、福島正則らと無断で縁戚関係を結んでいった。
三成は前田利家(まえだ・としいえ)とともに「秀吉がかつて布告した無断縁組禁止に反する」と家康を弾劾し、裏では家康暗殺を企んだ。
家康もまだ時期尚早と謝罪し、三成らと和睦したものの、前田利家が亡くなると、再び蠢動を始めた。
一方で専横を強める三成と対立する加藤清正、福島正則ら武断派は、大坂の三成の屋敷を襲撃した。
佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)の助けを得て脱出したものの、五奉行からの引退を余儀なくされた。
三成と加藤清正らの間を仲裁した家康はますます勢力を強め、婚姻や領地の配分を勝手に推し進めた。

1600年、三成は上杉家の家老・直江兼続とともに打倒家康の策を練った。
会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が家康に宣戦布告し、家康は諸大名を従えて討伐に向かった。
三成のもとにも親友の大谷吉継が派兵を催促に来たが、三成は家康討伐を唱えた。大谷吉継ははじめは不利を訴え反対したものの、押し切られて協力を誓った。
その際には「君は横柄で傲慢だと上は大名から下は百姓にまで噂されていて人望がない。君が表に出れば豊臣家を守ろうとする者まで家康のもとに去ってしまうだろう。だから毛利輝元(もうり・てるもと)を大将に、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)を副将に立て、君は影に徹するといい」と親友らしい辛辣かつ的確な助言をし、三成もそれに従ったという。

三成は兄・石田正澄(いしだ・まさずみ)を奉行として近江に関所を作り、会津討伐に加わろうとする西国の大名を押しとどめ強引に陣営に組み込んだ。
さらに諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、それに反発するものの手引きで逃げられたり、細川忠興(ほそかわ・ただおき)の妻・ガラシャには拒絶された挙句、屋敷に火を放って自害され、断念せざるを得なかった。

毛利輝元を総大将として担ぎ出すことには成功し、鳥居元忠(とりい・もとただ)の守る伏見城を落としたが、家康軍の帰還が予想よりも早く、地盤固めはうまく行かなかった。
当初は美濃・大垣城での籠城戦を目論んでいたが、西軍で最も多い1万5千を率いる小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が松尾山に布陣したまま動かず、やむなく関ヶ原で野戦を挑んだ。
家康の東軍は、徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)が真田昌幸(さなだ・まさゆき)、幸村に足止めされて到着しておらず、兵力では西軍に劣っていた。
陣形も東軍を包み込むように構え、形勢有利だったが、西軍の多くの大名は家康と内通しており、積極的に動こうとはしなかった。
序盤戦で軍師の島左近が負傷(戦死とも言われる)して戦線離脱し、主力の小早川秀秋が裏切り、それに連動して右翼の諸隊がこぞって東軍に寝返ると、もはや勝機はなかった。
大谷吉継は戦死し、西軍は潰走し三成も命からがら逃走した。

3日後には三成の居城、佐和山城が陥落し、父や一族の多くが討ち死にした。
権勢を振るっていた三成の城ならば贅を尽くしているだろうと思われたが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には植木すらなく、金銀の蓄えも全くなかった。
三成は「奉公人は主君より授かる物を使い切って残すべからず。残すは盗なり。使い過ぎて借金するは愚人なり」という言葉を残しており、まさにそれが実践されていたのだ。

三成は自領の近江の村に潜んでいた。旧知の寺を尋ね、住職に「何か欲しいものはあるか」と聞かれ「家康の首が欲しい」と答えて恐れさせ、かつ呆れさせたという。
いったんは三成を慕う百姓の与次郎に匿われたが、彼が死を覚悟で、類の及ばないように妻を離縁してきたと聞くと、心を打たれた三成は与次郎を説得し東軍に密告させた。
捕らえられた三成は、家康に面会すると「敗戦など古今よくあることで少しも恥ではない」と堂々とし、また処刑直前にのどが渇いたと水を所望し「水はないが柿はある」と言われると「生柿は体に毒だ」と断った。「これから処刑されるのに毒も何も無いだろう」と笑われると「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」と気概を保っていた。
敗戦から1月後、三成は刑場の露と消えた。享年41だった。

余談だが三成は「大一大万大吉」と記された紋を好んで旗印などに用いており、これは「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」といういわゆる「ワンフォアオール・オールフォアワン」という意味だと言われるが、この解釈は近年になってから出てきたものであり、単に縁起の良い文字を重ねただけともされ、鎌倉時代から用いられている古い紋であり、三成のオリジナルというわけではない。

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