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夢想大蛇

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戦国列伝―真田昌幸  表裏比興の謀将

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戦国列伝―真田昌幸  表裏比興の謀将



真田昌幸(さなだ・まさゆき)
信濃の人(1547~1611)

武田家に仕えた真田幸隆(ゆきたか)の三男。真田信之・幸村兄弟の父。

7歳で臣従する武田家への人質となり、早くから武田信玄に才を見込まれた。
後に信玄の母方の一族である武藤家の養子となり武藤喜兵衛(むとう・きへえ)を名乗った。
川中島の戦いにも参戦した、信玄の嫡子・武田勝頼(かつより)に嫡子が生まれると重臣たちと並び祝賀の使者として送られた、などとされるがいずれも確かな史料はない。
また三方ヶ原の戦いでは敗走した徳川軍への追撃に反対したという。

1574年、父が没すると長兄の真田信綱(のぶつな)が家督を継いだ。
だが翌1575年、長篠の戦いで信綱と次兄の真田昌輝(まさてる)が揃って討ち死にしたため、昌幸は真田家に戻り家督を継いだ。
信玄もすでに亡く、跡を継いだ武田勝頼は昌幸ら父の代からの旧臣を厚遇しなかった。

1582年、勝頼も織田軍に敗れて没すると、昌幸は織田信長に降り本領安堵された。しかし同年、信長が本能寺で討たれ甲斐・信濃の旧武田領から織田勢力は撤退し、周囲の徳川・上杉・北条家は激しい領土争いを始めた。
昌幸もこの機を逃さず、武田家の残党を集め勢力を拡大し、織田軍の撤退に協力し恩を売ったり、徳川・上杉・北条の傘下を転々とした末に徳川家のもとに落ち着いた。

1583年には上田城を築き居城に定め、翌1584年、小牧・長久手の戦いが起こると家康の目が西に向いた隙に版図を広げた。
領土を奪われた北条家は同盟者の家康に返還を求めたが、昌幸は代替の領地をもらわなければ承諾できないと断り、ついには次男の真田信繁(幸村)を人質に出し上杉家に鞍替えした。
激怒した家康は鳥居元忠(とりい・もとただ)ら7千の兵に上田城を攻めさせたが、昌幸は1/3足らずの2千の兵力で徳川軍をさんざんに打ち破った。徳川軍の被害は死傷者2千にも及び、この大勝により真田家の名は一躍全国に轟いた。

1585年、昌幸は信繁を上杉家の盟主である豊臣家に送り、豊臣秀吉に臣従した。
家康も豊臣家に膝を屈すると、真田家は秀吉の命により徳川家の与力大名として付けられた。
1590年、北条家が真田領の城を落としたのを契機に、秀吉は全国の大名に小田原征伐を命じた。昌幸は上野攻略を任されると「上野国中にことごとく放火つかまつる」と応じ、北条方の城を次々と奪取。南下し石田三成と合流すると忍城を囲んだが、甲斐姫らの抵抗により落とせなかった。
その後は所領を安堵され、信繁にも別に領地を与えられるなど秀吉からの信頼厚く、関東に移封された徳川家への睨みを利かした。

1598年、秀吉が没すると家康が台頭した。
1600年、それに反発する上杉家が公然と反旗を翻し、家康が討伐に向かうと石田三成が旧豊臣方を結集し蜂起した。
昌幸はかつて三成から「表裏比興(卑怯)の者」と評され(現代では卑怯と書くが老獪・策士という表現に近い)ていたものの縁戚にあり、また家康との長年の宿怨から西軍につくことを決めた。
だが徳川家の重臣・本多忠勝の娘(稲姫)をめとっていた長男の真田信幸(のぶゆき)は東軍につくよう命じた。これは東西両軍に分かれて家名存続を図るための方策でもある。
昌幸は上田城に帰る途中、信幸の治める沼田城に立ち寄り、稲姫に「孫の顔が見たい」と申し出た。稲姫は昌幸が城を奪うつもりだと見抜くと、逆に真田一族を歓待と称して城内に招き人質に取ったため、昌幸は「さすが本多忠勝の娘だ」と笑って引き返した。
なお稲姫は子供を連れてその後を追い、孫の顔は見せてやったと伝わる。

東軍は二手に分かれて進撃し、3万8千を率いる家康の後継者・徳川秀忠は上田城に差し掛かると信幸を送り昌幸に降伏を促した。
だが昌幸はいったんは受け入れる振りで時間を稼ぐと、土壇場になってから約束を反故にした。
激昂した秀忠は軍師・本多正信(ほんだ・まさのぶ)の忠告を無視して全軍に城を攻めさせたが、昌幸の備えは万全で、時には籠城を、時には奇襲を仕掛けと翻弄し、徳川方の史料にさえ「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」とまで記される大損害を与えた。
家康が送った上洛を促す使者が利根川の増水で足止めされ秀忠への連絡が遅れたことや、また戦力温存のために当初から本戦には遅れて行く予定だったともされるが、ともあれ昌幸の抵抗が秀忠の進軍を遅れさせたことは疑いない。

西軍敗退の連絡を受けてもなお真田家は抗戦を続けたが、ついに諦め降伏開城した。
家康は昌幸・幸村父子に死を命じたが、信幸と本多忠勝の嘆願により、高野山への蟄居と引き換えに助命し、旧真田領は信幸に与えられた。
昌幸は高野山に発つ際、号泣しながら「家康をこのような目にあわせてやるつもりだったのに」と信幸に語ったという。

高野山での暮らしは困窮していたが、真田信之と改名した長男からの援助もあり、また昌幸・幸村や家臣の屋敷を別々に造られるなど他の流人よりは厚遇され、京や紀伊への外出も監視付きで許されていた。
しかし10年あまり続いた配流生活は昌幸の気力・体力を次第に奪っていき、病を得て1611年に65歳で没した。

1614年、大坂冬の陣で家康は、豊臣家に真田軍が加わったと聞くと「親の方か? 子の方か?」と震えながら尋ねたとされる。
謀将・真田昌幸の死をそれすらも謀略の一環と疑っており、無名の幸村の方だと聞くと安堵したという。
だが大坂の陣で幸村は父に勝るとも劣らない謀略と采配で「真田日本一の兵」とうたわれるほどの活躍を見せ、家康の心胆を寒からしめるのだった。

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