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夢想大蛇

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戦国列伝―武田勝頼  二代目は無能?

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戦国列伝―武田勝頼  二代目は無能?



武田勝頼(たけだ・かつより)
甲斐の人?(1546~1582)

平安時代から続く甲斐武田家の最後の当主。武田信玄の四男。
母の生家の諏訪家は武田家に滅ぼされており、旧臣に対する懐柔策として信玄は諏訪家から側室を迎えたと思われる。
庶子ということもあり幼少期の記録はほとんど残されていない。

1562年、諏訪家を継ぎ諏訪勝頼(すわ・かつより)を名乗る。
初陣で敵将を自ら組み伏せて討ち取り、その後も主要な戦のほとんどに参戦しては一騎打ちをたびたび行うなど武勇に優れた。
1565年、信玄の嫡子・武田義信(よしのぶ)の家臣が信玄暗殺を企んだ罪で処刑され、義信も自害に追い込まれた。
次男の海野信親(うんの・のぶちか)は生まれつき盲目で出家しており、三男は夭折していたため四男の勝頼が代わって嗣子に立てられた。
1573年、信玄が西上作戦のさなかに急死すると、勝頼は武田姓に復し家督を継いだ。だが信玄の遺言で数年はその死を伏せ、信玄の隠居による家督相続と触れ回ったという。

信玄の死により窮地を脱した織田信長・徳川家康は反撃に転じ、武田家も加わっていた「信長包囲網」を打ち破った。
対する勝頼も積極的に勢力拡大に努め、東美濃や東遠江に版図を広げた。
1575年、勝頼は1万5千の大軍で、徳川家に寝返った奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)の長篠城を囲んだ。
だが信昌はわずかな兵で持ちこたえ、ついに信長自ら率いる織田・徳川連合軍3万8千が設楽原に到着した。
兵力差と、連合軍が設楽原に築いた強固な陣に危機を感じた重臣らは撤退を進言したが、勝頼はそれを退け正面から戦いを挑んだ。
しかし武田軍は連合軍の防御壁を破れず、馬場信春(ばば・のぶはる)、山県昌景(やまがた・まさかげ)、原昌胤(はら・まさたね)、真田信綱(さなだ・のぶつな)・昌輝(まさてる)兄弟、土屋昌次(つちや・まさつぐ)、三枝守友(さえぐさ・もりとも)ら多くの重臣が戦死した。その多くは撤退戦のさなかに討ち取られ、武田軍の退路に沿って点々と戦死地が記録されている。

死傷者1万人とも言われる壊滅的な惨敗を喫した武田家は以降、劣勢を強いられる。
勝頼は北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の娘を後室に迎えるなどし北条・上杉との三国同盟を狙った。
1578年、上杉謙信が没すると氏政の弟で謙信の養子になっていた上杉景虎(うえすぎ・かげとら)と、やはり養子で謙信の甥・上杉景勝(かげかつ)との間で後継者争いが起こった。
勝頼は北条家に要請され景虎を支援する兵を出したが、景勝に上杉領の割譲を条件に和睦を申し込まれるとそれを受諾し、兵を引き上げ中立の立場をとった。
結果、勝利した景勝が後継者の地位をつかみ、景虎は自害に追い込まれたため北条家は激怒し、同盟を破棄すると徳川家と結び、武田家を挟撃した。
勝頼は妹を景勝に嫁がせ上杉家と同盟し、さらに北条家の背後を脅かす佐竹・里見家らと連携し対抗した。
織田家との関係修復のため、信玄時代に人質にとっていた信長の五男・織田勝長(かつなが)を返還したが、信長はすでに武田家征伐の準備を進めていたためこれを拒絶した。

1581年、徳川軍に包囲された高天神城を勝頼は見殺しにし、岡部元信(おかべ・もとのぶ)ら城兵は皆殺しとなった。
家康は勝頼の無慈悲さを強調するためあえて降伏を許さなかったとされ、事実これにより勝頼の名は地に落ちた。
勝頼は侵攻に備え防備を整えたが、これも労役を強いられた国人衆の反発を招き、織田・徳川方への寝返りが続発した。

1582年、木曽義昌(きそ・よしまさ)も寝返ると勝頼は激怒し討伐軍を送り込んだが、大雪に道を阻まれ、地の利に勝る木曽軍に大敗を喫した。
これを好機と見た織田・徳川・北条連合軍は一斉に武田領に攻め込み、さらに折悪しく浅間山が噴火した(東国で異変が起こる前兆とされていた)ため、武田軍は浮足立った。
勝頼の叔父・武田信廉(のぶかど)はろくに抵抗もせず要害を捨て逃亡、下条家は家老が当主を追放して織田軍に降伏し、小笠原家・依田家らも相次いで寝返り、ついには一族の重鎮だった穴山信君(あなやま・のぶきみ)まで裏切ると、武田軍は戦わずして崩壊した。

抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟・仁科盛信(にしな・もりのぶ)と母の実家の諏訪頼豊(よりとよ)くらいで、特に諏訪頼豊は勝頼から冷遇され、家臣からはこの機に諏訪家を再興するよう促されていたにも関わらず、果敢に木曽軍に戦いを挑み討ち死にしたという。
勝頼は多大な労役を課し国を傾けてなお未完成だった新府城に火を放ち、重臣・小山田信茂(おやまだ・のぶしげ)のもとへ逃亡した。
だが信茂もまた織田家に寝返り退路を塞がれたため、勝頼は天目山で自害を遂げた。享年37。

その後、江戸時代になり武田家は勝頼の兄・海野信親の子孫によって高家(貴族)として再興された。

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