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夢想大蛇

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戦国列伝―真田幸村  真田日本一の兵

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戦国列伝―真田幸村  真田日本一の兵



真田幸村(さなだ・ゆきむら)
信濃の人(1567~1615)

真田昌幸(まさゆき)の次男。大坂夏の陣の奮戦ぶりから「真田日本一の兵」とうたわれ、創作で盛んに取り上げられたため、戦国時代でも屈指の人気を誇る。
「幸村」の名は江戸時代の軍記物語が出典であり、存命の頃の史料には見当たらず、本名は真田信繁(さなだ・のぶしげ)とするのが正しい。
が、あまりに幸村の名が広まりすぎたため、現在では家系図もさかのぼって幸村と改められているという。

祖父・真田幸隆(ゆきたか)、父・真田昌幸はともに武田家に仕えた。特に真田幸隆は軍師格であった。
真田昌幸は三男であり、武藤家に養子に出されていたが、長篠の戦いで二人の兄が戦死したため、真田家に戻り家督を継いだ。

1582年、武田家が織田信長によって滅ぼされると、真田家は信長に降伏し所領を安堵された。
だが間もなく信長も暗殺されると、武田家の旧臣が蜂起し、織田勢力を駆逐したため、信濃や上野は空白地となり、徳川、北条、上杉の三家がにらみ合いとなった。結局、まず他国侵略を嫌う上杉家が撤退し、北条家も真田軍のゲリラ戦に手を焼いて兵を引いたため、信濃は徳川家の支配下に置かれた。
しかし1585年、真田家は独立を果たすと、信長の跡を継ぎ台頭した羽柴秀吉方についた上杉家に帰属した。このとき、年若い幸村は人質として上杉家に預けられた。

やがて幸村の身柄は秀吉の居城・大坂城に移された。そこで目をかけられ豊臣家の重臣・大谷吉継(おおたに・よしつぐ)の娘をめとり、さらに豊臣の姓を与えられて従五位下左衛門佐に叙任された。
だがこの頃の幸村の足跡は、人質生活のせいかほとんど伝わっていない。

1600年、すでに秀吉は亡く、頭角を現した徳川家康と、豊臣家を守らんとする石田三成との間で決戦の幕が開かれた。
幸村は父とともに西軍(三成方)に加勢し、家康の腹心・本多忠勝の娘(稲姫)をめとっていた兄の真田信之(は東軍(家康方)につき、真田家は二つに分かれて争うこととなった。
東軍は東海道と中山道の二路から西上したが、中山道を進む徳川秀忠軍に対し、真田家は居城の上田城に立てこもって応戦した。
兵力差は10倍以上あったが、城を攻め落とすことはできず、甚大な被害を出したうえに関ヶ原の本戦に間に合わず、家康に叱責されることとなった。
しかし石田三成は大敗し、西軍に加わった諸大名はことごとく処罰された。
幸村父子も本来ならば切腹を命じられるところだったが、真田信之や本多忠勝のとりなしにより、高野山へ蟄居で許された。

1614年、徳川家との仲が険悪となり、討伐を恐れた豊臣家は多くの浪人を集めた。
すでに父・真田昌幸を失っていた幸村のもとにも使者が来ると、幸村は山を脱出し、真田家の旧臣を集めて大坂城に入った。
真田軍は旧主・武田家の名将・山県昌景(やまがた・まさかげ)にあやかってか武装を赤で統一し「真田の赤備え」とうたわれた。
その冬、ついに徳川家との間で戦端が開かれると、幸村は大勢を占める籠城策に反対し、京を制圧し近江まで打って出る強硬策を提案した。しかし多くの浪人たちが支持したものの、結局は籠城策と決まった。
すると幸村は大坂城の唯一の弱点とされる三の丸への布陣を自ら望み、「真田丸」と呼ばれる土作りの出城を築くと、攻め寄せた徳川軍に大打撃を与え、幸村の名は一躍広まった。
業を煮やした家康は攻城戦を諦めると、夜間に大砲で天守閣を狙い撃ち、鬨の声を挙げさせて豊臣軍を眠らせないようにした。
豊臣秀頼(とよとみ・ひでより 秀吉の子で豊臣家の当主)の母・淀君(よどぎみ)ら女官は戦々恐々となり、たまらず和睦を申し出た。
家康は大坂城の堀を埋め立て、真田丸を取り壊すことを条件に和睦を受け入れた。

翌1615年、再び徳川家と豊臣家の間が緊張すると、家康は幸村の叔父・真田信尹(のぶこれ)を派遣し、十万石で寝返るよう幸村を説得させた。
断られると今度は信濃一国(四十万石)を与えると言ったが、幸村は「私が十万石では不忠者にならぬが、一国なら不忠者になるとお思いか」と拒絶した。

そして大坂夏の陣、堀を失い籠城策をとれない豊臣軍は野戦に出向かざるを得なかった。
幸村は毛利勝永(もうり・かつなが)、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)らとともに先陣を務めたが、濃霧のために行軍の足が鈍り、その間に突出した後藤又兵衛は戦死してしまった。
幸村は責任をとって斬り死にしようとしたが、毛利勝永に「ここで死ぬよりも、秀頼様の前で華々しく死のう」と説得され、損害を恐れ及び腰の伊達政宗軍を返り討ちにすると「関東には百万の兵がいても、男は一人もいないのだな」とあざ笑い、悠々と撤退した。

兵力差は圧倒的で、豊臣方の主だった武将も次々と討ち取られた。
幸村は起死回生の策として、秀頼の出陣を乞うたが、淀君や側近の反対によって阻まれた。
ならばと毛利勝永とともに挟撃して家康の本隊を孤立させ、明石全登(あかし・てるずみ)に本隊を狙わせようとしたが、それも毛利隊の前衛が勝手に動いてしまったため、失敗に終わった。

幸村は「戦はこれで終わった。あとは家康の首だけを狙い、快く戦おう」と言うや、家康の本陣に突撃した。
毛利、明石両隊もそれに加わると、あまりに大軍過ぎて連携に難のあった徳川方は対応しきれず、真田勢の数倍の旗本は蹴散らされてしまい、家康の馬印は倒され、二度も自害を覚悟するほどだった。
同時に徳川秀忠の本隊も襲われ、身辺警護を務める柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)が数人を斬り伏せてどうにか退けたほどの窮地に陥れた。
ちなみに家康の馬印が倒されたのは、武田信玄との三方ヶ原の戦い以来のことである。

しかし家康の旗本が態勢を立て直すと、もはや幸村に勝機はなく、負傷兵の手当てをしているところを襲われ、首を取られた。享年49。
この奮闘で幸村ら真田軍は「真田日本一の兵」とうたわれることとなった。
家康は後に「あの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい」と称賛し、諸将は武勇にあやかろうと、幸村の遺髪を奪い合ったという。

幸村の死の翌日、大坂城は落ち豊臣家は滅亡した。
だが幸村は生き延び、豊臣秀頼らをつれて密かに脱出したという噂がまことしやかにささやかれた。
わずかな手勢で天下人の家康を追い詰めた幸村の勇姿は、その後も「真田十勇士」などで民衆の心に残り、現在もなおファンを増やし続けている。


~幸村の人物像~
兄の真田信之によると、幸村は武将らしからぬ柔和で穏やかな性格で、いつも物静かにして怒ることがなく、大坂の陣ではあまりに泰然自若としていたため「浪人の分際で生意気だ」と罵られたほどだという。
また後藤又兵衛の家臣の記録では、体格は小柄であったとされる。

幸村の活躍は江戸時代の早くから講談などで盛んに取り上げられた。敵対した徳川政権も「主君に殉じた忠臣」を描くのを良しとして、それを容認した。
うがった見方をすれば、関ヶ原の戦いの際に徳川秀忠が敗れたことや、大坂の陣でも危機に陥ったことを、幸村が並外れて勇猛だったという理由を付けることで、言い訳としたのだろう。
なお巷に膾炙される大坂の陣での幸村の戦功には、毛利勝永のものが多く含まれており、物語上では二人分の戦功がほとんど幸村のものとなってしまっている。
毛利勝永は現在でも無名で、早くも江戸時代中期の文人にも「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」とその不憫さを哀れまれている。

真田軍は「赤備え」と言われる赤で統一した装備で知られるが、幸村自身も朱色に塗った十文字槍をあやつった。
また真田家の家紋であり旗印としても用いられた「六文銭(六連銭)」は非常に著名である。
これは三途の川の渡し賃で、棺に入れられる六文の銭のことで、転じて命を惜しまず戦い抜くという意味である。

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