忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―真田幸隆  信玄の参謀

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

戦国列伝―真田幸隆  信玄の参謀


※アイコンは呂範

真田幸隆(さなだ ゆきたか)
信濃の人(1513~1574)

武田二十四将に数えられ、武田信玄の参謀を務めた。真田幸村の祖父。
幸隆は晩年の名乗りで、真田幸綱(ゆきつな)の名を長年にわたり用いたとの説もある。

北信濃の国人衆・海野家か、その娘婿の真田家の生まれとされる。
関東管領・上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)に従属していたが1541年、武田信虎(たけだ・のぶとら)に敗れて国を追われ、上野の長野業正(ながの・なりまさ)を頼った。
同年に信虎は嫡子の武田信玄らによって追放され、1545年前後に幸隆は武田家に従ったと見られる。
またその際に身命を賭して戦う覚悟で、三途の川の渡し賃である「六文銭」を旗印に用いだしたという。

信濃の国人衆を調略し、1553年に村上義清(むらかみ・よしきよ)を破り旧領に復すと、以後は関東の調略に回る他、上杉謙信との戦いの最前線にさらされた。
武田家には遅く加わった外様ながら信玄には信頼され、譜代の家臣と同様の扱いを受け、官位から「戦国三弾正」の一人として「攻め弾正」の異名で呼ばれたというが、19世紀に編まれた真田家の記録に依るところが大きく、真偽の程はいささか怪しまれる。

1567年、嫡子の真田信綱(のぶつな)に家督を譲るが、隠居後も防衛戦や策謀には加わったとされる。
1574年、62歳で没した。
翌年、長篠の戦いで信綱と次男の真田昌輝(まさてる)が戦死し、三男の真田昌幸(まさゆき)が跡を継いだ。
孫の真田幸村を含め父子三代にわたるいずれもが名将として知られている。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R