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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―早川殿  戦国一の(?)おしどり夫婦


※アイコンは孫魯育

早川殿(はやかわどの)
相模の人(??~1613)

北条氏康の娘。今川義元の嫡子・今川氏真(いまがわ・うじざね)に嫁いだ。本名は不明。
氏康の長女で、北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の異母姉とされる。一方で氏政と氏真が同い年なことから、早川殿は30代後半の当時としてはかなりの高齢出産で数人の子をもうけたことになり、やや不自然なため血縁には疑問が残る。

1554年、北条・今川・武田の三国同盟が結ばれると、17歳の氏真に嫁いだ。
後に同盟が決裂するとこの時に結ばれた婚姻も次々と破綻したが、氏真夫妻だけは離縁しなかった。
1560年、桶狭間で義元が討たれると今川家は衰退し、1568年には武田家の侵攻により駿河も陥落した。この時、武田家と北条家は同盟していたが、武田家は早川殿の保護を怠り、彼女が徒歩で遠江へ逃亡する羽目になってしまったことに氏康は激怒し、同盟を破棄すると武田家の宿敵・上杉謙信と結び逆に今川家の支援に回ったという。

翌年、氏真は徳川家康に攻められ遠江も放棄すると、氏康を頼って相模早川へ落ち延びた。そのため彼女は早川殿と呼ばれると思われる。
当地で氏真33歳にして初の男子をもうけるなど一時の安寧を得たが、1571年に氏康が死去すると武田家との同盟が復活し、武田の手に落ちていた駿河への帰国は頓挫した。
だが氏真夫妻は諦めきれずに北条家から出奔すると徳川家を頼った。この時、武田信玄が氏真の暗殺を企んだもののそれを察知した早川殿が手勢を集め、夫ともに出奔したという異説も伝わる。

駿河攻略を目指していた家康は、その大義名分の旗印となる旧国主の氏真を歓迎した。浜松に移り住んだ夫妻はさらに数人の男子をもうけ、1575年の長篠の戦いでは氏真の家臣が武田家の名将・内藤昌豊(ないとう・まさとよ)を討ち取る大功を立てた。
また氏真は父の仇である織田信長に招かれ、日本一と言われた蹴鞠の腕を披露したという。
長篠の戦いの大勝を足掛かりに徳川家は駿河に侵攻し、1576年、氏真は駿河牧野城の城主に返り咲いた。
だが原因不明だが1年足らずで解任されると氏真は浜松に戻り、夫妻の行跡はそこから長年にわたり途絶えてしまう。

1591年、氏真は京で再び活動を再開し、公家や徳川家との交流を深めた。家康とは懇意で、和歌について議論を交わしたり、晩年には氏真がたびたび訪ねては長話をするため、辟易した家康は遠くに屋敷を移させたという逸話が伝わる。
早川殿の事績は不明だが存命で、1612年に江戸で没した。
氏真も同地で2年後に没し、後に夫妻の墓は同じ寺に移された。また没後間もなくに描かれた、夫妻で対になった肖像画が現存しているという。

長男は氏真夫妻に先立って没していたため孫の今川直房(なおふさ)が跡を継いだ。
今川家は高家(貴族)として再興され、直房も朝廷との交渉で大役を務め、鎌倉時代から続く今川家で最も高位に上ったという。

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