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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―柳生宗矩  武道の祖

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戦国列伝―柳生宗矩  武道の祖


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柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)
大和の人(1571~1646)

徳川将軍家の兵法指南を務め、柳生新陰流の地位を確立させた剣豪大名。
父の柳生宗厳(むねよし)は剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)の免許皆伝を受け新陰流を開いた剣豪だが、太閤検地で隠田を摘発され所領没収のうえ浪人となった。
そのため宗矩も仕官の口を求めて放浪し、大きな戦があれば参戦して軍功を求めた。
やがて1594年、父が黒田長政(くろだ・ながまさ)の仲介により徳川家康に招かれ無刀取り(真剣白刃取り)を披露すると、感心した家康は宗厳を剣術指南役に任じようとしたが、老齢のため断り代わりに宗矩を推挙し、ようやく主君を得た。

1600年、関ヶ原の戦いでは家康の命により故郷に戻り、大和の国人衆を指揮して西軍の後方撹乱を行い、さらに家康のもとに戻ると本戦にも参加した。
これにより父が失った旧領を回復し、さらに翌年には二代将軍・徳川秀忠の兵法指南役にも任じられた。
1615年、大坂夏の陣では秀忠の護衛を務め、混戦のさなか敵兵が秀忠にも迫ったが7人を瞬時に斬り伏せたという。なお剣豪で知られる宗矩だが実際に人を斬ったのはこの時だけである。

1616年、坂崎直盛(さかざき・なおもり)は豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)に嫁いでいた家康の孫・千姫(せん)を大坂城から救出したものの、救出した者と結婚させるという約束を反故にされたのに激怒し反乱を起こしかけた。
直盛の友人だった宗矩はその説得に赴き反乱は未遂に終わらせたものの、直盛の自害と引き換えに家名は守るという約束もまた反故にされ、坂崎家は取り潰された。
責任を感じた宗矩は直盛の嫡子や家臣を引き取り、さらに坂崎家の家紋を副紋として使ったという。

1621年は三代将軍・徳川家光の兵法指南役となり、初代の大目付として諸大名や老中の監察も務めた。
地位は従五位下・但馬守に上り、ついに1万石を得て大名に列した。一介の剣客から大名にまで上り詰めたのは宗矩ただ一人である。
1646年、病に倒れると家光は自ら病床まで訪ね、没すると1万石の小身には異例の従四位下を追贈しその死を惜しんだという。

家督は「柳生十兵衛」として知られる嫡子の柳生三厳(みつよし)が継いだが、間もなく官を辞してしまったため次男の柳生宗冬(むねふゆ)が継いだ。
また末子には劇画「子連れ狼」のラスボスとして著名な柳生列堂(れつどう 作中では烈堂と書かれる)がいる。

兵法家としては心理的な駆け引きやメンタルトレーニング、心技体を鍛えることの重要さを説き、後世の武道や武士の心構えに多大な影響を与えた。
単なる武術、戦闘の手段でしか無かった兵法を武道の域にまで高めたのは宗矩であるといって過言ではなく、彼なくしては剣道、柔道などあらゆる武道は現代まで残っていなかったか、あるいは全く違った形で伝わっていたことだろう。

だが彼自身は兵法を離れれば人望は薄く、嫡子の三厳は徳川家光の勘気を蒙り一時追放の憂き目にあい、晩年まで親子仲も悪かった。分家の長とは天敵の間柄で、また大名から浪人まで身分を問わず多数の門下を抱え、また徳川家光の絶大な信頼を受け大目付として目を光らせていたためその権勢を恐れられ、諸大名からは敬して遠ざけられていた。
余談ながら大変なヘビースモーカーでもあったという。

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