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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―谷忠澄  長宗我部元親の懐刀


※アイコンは呂凱

谷忠澄(たに・ ただすみ)
土佐の人(1534~1600)

長宗我部家の重臣。
もともと土佐神社の神主だったが、長宗我部元親に見出され仕えたとされる。

主に外交を担当し、1585年の豊臣秀吉の四国征伐に先立ち、講和交渉に赴いた。
元親は四国全ての安堵を望んだが秀吉は認めず、讃岐・阿波の譲与で一度は話がまとまりかけたものの、結局は決裂した。

秀吉は弟の豊臣秀長(ひでなが)に命じ、讃岐・阿波・伊予の三方面から四国へ攻め入らせた。
忠澄は江村親俊(えむら・ちかとし)とともに兵9千を率い阿波一宮城に詰めた。
蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)、仙石秀久(せんごく・ひでひさ)、藤堂高虎ら5万の大軍が城を包囲したが、城兵の士気高く落ちる気配を見せなかった。
そこで秀長は力攻めを諦め、城の水の手を断つと地下道を掘らせ、城内へ侵入させようとした。
たまらず忠澄らは城を明け渡して撤退し、長宗我部元親に戦況の不利を説き、降伏を勧めた。
徹底抗戦を主張する元親は激怒し、すぐさま切腹を命じたが、忠澄は構わず説得を続け、他の重臣もそれに同調すると元親も折れ、土佐一国の安堵を条件に降伏した。

1586年、秀吉の九州征伐に長宗我部家も参戦したが、軍監を務めた仙石秀久の失策により戸次川の戦いで島津軍に大敗し、元親の嫡子である長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)が戦死した。
忠澄が戦闘中ながら遺体の受け取りを申し出ると、島津家の新納忠元(にいろ・ただもと)は「自分がその場にいれば決して討ち取らせはしなかった」と将来有望な跡取りを殺したことを涙ながらに陳謝し、旧知の僧侶を土佐まで同行させた。

忠澄も信親の遺灰とともに土佐に戻り、その後は土佐中村城の城代を務め、同地で没した。

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