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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―小野忠明  一刀流の剣豪

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戦国列伝―小野忠明  一刀流の剣豪


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小野忠明(おの・ただあき)
安房の人(1569~1628)

徳川将軍家の指南役も務めた剣豪。初名の御子上典膳(みこがみ・てんぜん)でも著名。(姓は神子上とも書かれる)

はじめ安房の大名・里見家に仕えたが、出奔し戦国最強の呼び声も高い剣豪・伊藤一刀斎(いとう・いっとうさい)に師事した。
兄弟子の善鬼(ぜんき)を破り一刀流の奥義を継承したと伝わる。

1593年、一刀斎の推薦で徳川家康に仕えた。徳川秀忠のもとに付けられ、柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)の新陰流とともに徳川家の剣術指南役となり、この頃に御子上典膳から小野忠明に改名した。
なお小野は母方の姓で、忠明は秀忠から一字もらい受けたともいう。
忠明は小野一刀流の開祖とされることが多々あるが、本人はそれを称しておらず、子の小野忠常(ただつね)が小野派一刀流を、弟の伊藤忠也(ただなり)が忠也派一刀流をそれぞれ称したものである。

1600年、関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、上田城を攻め「上田七本槍」と呼ばれる活躍を見せたものの、同時に軍令違反を犯したため真田信之のもとで蟄居を命じられたが、後に秀忠の兄・結城秀康(ゆうき・ひでやす)の仲介により帰参を許された。
1614年の大坂の陣にも参戦したが、忠明は生来の傲岸不遜な性格で常に諍いを起こしており、一説には他藩の家臣と手合わせした際、相手の両腕を再起不能になるまで打ち砕いたため、秀忠の怒りを買い閉門処分を受けたという。

1628年、60歳で没した。
小野派、忠也派それぞれの一刀流は分派を興しながら現代にまで受け継がれている。
中でも小野派から生まれた山岡鉄舟の「一刀正伝無刀流」、後に千葉周作がさらにアレンジし「北辰一刀流」を生んだ「中西派一刀流」が著名である。

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